169、ランディスとディア1
2023年1月26日:後書きに今後の予定について書きました。
「――さま、ディア様!」
名を呼ばれ、私の意識が少しずつ浮上する。
まぶしさに目を細めれば、そこにいたのはよく見知った、行儀作法の指南役兼侍女であるフレイだった。カーテンが開け放たれた窓から差し込む光はまだ強くない。
「……フレイ。今日はずいぶん早いのね」
「おはようございます、ディア様。今日は朝食後にコレル男爵と新しく従者になる方がお見えになりますよ」
「ああ……そんなこと言ってたわね」
私はわずらわしさを隠さずに言った。
コレル男爵は名目上私の後見人だが、普段は季節の挨拶状や贈り物を送ってくるくらいで、直接会うことはほとんどない。
とはいえ《ひきこもり姫》の現状は彼もよく知っているはずだ。ろくに離宮から出ない私に、従者など必要ないと。後見人を引き受けた手前、最低限の役割をこなさなくては、宮廷に顔向けできないというところだろうか。
「無理に顔を合わせる必要はないのに。どうせやることなどないのだから、従者になる人には適当に部屋を与えて、あとは自由に過ごしてもらえばいいわ」
「……何事も最初が肝心ですよ。さあ、早くベッドからお出ましください」
困り顔のフレイに、私は仕方なく身を起こした。このいつもの平穏な光景が嵐の前の静けさであることに、この時の私はまったく気づいていなかったのだ。
急かすフレイの言葉を聞き流し、私は寝室のティーテーブルでゆっくりと朝食を取ったあと、東方から取り寄せた茉莉花茶を飲んでいた。
「ディア様……もしかしてどこかお加減が悪いのではないですか?」
「いつも通りだけど、どうして?」
「少しお顔の色が優れないように見えます」
「ああ……心配しないで。ちょっと夢見が悪かっただけ」
起きている時はぼうっとしている反動なのか、私はまるで現実のように明晰な夢をよく見る。幼い頃は夢と現実がごちゃ混ぜになってしまい、よく周囲の大人を気味悪がらせたものだ。
私にとって夢は、もう一つの人生のようなものだった。普通の夢は整合性のないもので、色すらついていない人も多いと知った時、私はびっくりした。
そんな体質だから、悪夢も恐ろしく鮮明なのだろう。私は幼い頃の嫌な記憶を思い出し、小さくため息をついた。
今朝の夢、あれは幼い私が実際に経験したことだ。
あの日のことは昨日のように覚えている。長兄であり、第一皇子であるランディスの誕生日を祝うための宴が催されたことがあった。選帝期に入るまで皇子皇女は公式行事への参加は許されないが、私的な催しに制限はない。
軽食をつまみながら、各自でおしゃべりを楽しむ気軽な席だったが、主催者はランディスの母親であるイゼルダ皇妃と、後見人であるレブラッド公爵だった。名目が公式ではないというだけで、場所は正宮殿の大広間であり、列席者も七家門を始めとする貴族とその子弟ばかりだった。
皇族は節目の祝い事に、男女とも白い衣装を着るのが習わしで、その時のランディスも上着とズボンが共に純白だった。レブラッド領と縁が深い皇子らしく、かの地方独特の手法である、生地に近い色の刺繍が見事な代物で、今も鮮明に記憶している。刺繍の印影が作る模様は派手ではないが繊細な美しさを持ち、幼かった私はいつか自分もこんな衣装ををと、無邪気に憧れたものだ。
後で知ったが、それは高価な絹と人手をふんだんに使う希少な物で、皇女とはいえ、宮殿の片隅でひっそりと生きる私には、身に着ける機会など一生あるはずがなかった。
宴の日、私がランディスを見るのは数か月ぶりだった。兄姉でも、同じ母を持つスウェンお兄様や同性であるイヴお姉様とは違い、ランディスとは会話らしい会話をした記憶すらなかった。
まだ十才でありながら皇子らしい威厳と品格に満ちたランディスと、その頃から居ても居なくても同じと馬鹿にされていた私とは、まるで立場が違ったから無理もない。
それまでの私は、ランディスと挨拶以外の会話をした記憶がなかった。彼からは、せいぜい道端の石ころ程度にしか認識されていなかっただろう。私からしても石とまでは言わないが、ランディスのことは同じ兄弟姉妹の一員とは思えなかった。
完璧過ぎて近寄りがたいという理由ではない。その点だけなら姉であるイヴお姉様も同じだ。聖女と誉めそやされるイヴお姉様は、できそこないの妹にも優しかった。姉のことは敬愛しているが、時々彼女が他人に向ける蔑みの眼差しが苦手で、いつの日かその目が私にも向けられるのではと思うと、少し近寄りがたかった。
しかしランディスと違い、イヴお姉様は父と性格が似ているので、私の姉妹と言われても納得できた。他の兄弟姉妹にも、皆それぞれ重なる部分は違うが、確かに共通する何かがある。しかしランディスにはその取っ掛かりがどこにもないのだ。私にとって、ランディスは美しいがどこか異質な存在だった。
ランディスのための祝いの席には、当然妹の私も招待されていた。出席するからにはランディスに祝いの言葉の一つもかけなければ、無作法と言われてしまう。
宴が始まると同時にランディスはたくさんの貴族に囲まれた。なかなか近づける機会がなかった私は、ひたすら飲みたくもないジュースのグラスを傾けながら、こそこそと様子を伺うばかりだった。
長い間待ち続け、ようやく人の輪が途切れたところで、私が意を決してランディスに近寄った。その時だった、私は誰かの肩にぶつかった。ランディスに挨拶を終えた、自分より少し年上のどこかの子弟らしき少年だった。
少年は一瞬ぎくりとした顔をしたが、相手が私と見ると、鼻を鳴らすように笑い立ち去った。宮廷での立場が弱い私の周りではよくあることで、腹立てようとも悲しいとも思わなかったが、問題はそこではなかった。
私の前には、珍しく呆気にとられたように目を丸くするランディスがいた。その視線につられ、恐る恐る下を見ると、ランディスの白い上着の裾が赤く染まっていた。私が手にしたグラスの中身がこぼれたのだ。
見惚れるほど美しい衣服を、それも話すことも恐れ多いランディの物を汚してしまったことに、私は青ざめて立ち尽くした。ランディスはそんな私に何も言わず、ただ静かに一瞥した。
「ランディス殿下、どうなさいました!?」
近づいて来た従僕が、無残に汚れたランディスの上着と、空のグラスを手にした私を見て事態を察する。私も皇女とはいえ、あからさまな失態とランディスとの立場の違いから、その若い従僕は見下すような表情を浮かべ、口を開きかけた。それを遮ったのはランディスだった。
「――すまなかった、ディア」
家族だけが使う愛称で初めてランディスに呼ばれ、私は驚いた。
「し、しかし殿下――」
「騒ぐな。私が妹にぶつかったのだ。服が汚れたから、少し席を外す」
慌てふためく従僕を制し、ランディスはさっと身を翻して立ち去っていった。その後ろを慌てたように従僕が追って行く。
その後私がどう過ごしたかは覚えていない。いつの間にか自分の部屋に戻っていた。
宴の席で状況に気づいていたはずなのに、助け船の一つも出さなかった、当時の世話役だった女官に、面倒くさそうに寝室に追いやられ、そこでようやく我に返った。そして込み上げてくる感情のまま、枕に顔を押し当てて私は泣いた。
あの当時はわからなかったが、あの腹の底から沸き立つような感情は、ぞんざいに扱われた悲しみでも、自分への不甲斐なさでもなく、ランディスへの怒りだった。
もしランディスの衣装を汚したのが、彼と仲のいいイヴお姉様やスウェンお兄様なら、遠慮なしに嫌味の一つでも言っただろう。弟であるユールお兄様相手なら、よく注意するようたしなめたはずだ。失態をしたのが私だったから、彼はなかったことにしたのだ。
改めて、彼に取るに足らない存在と突きつけられたことは、まだ幼い私の矜持をひどく傷つけた。あの美しく強い少年の心の片隅にいることすら許されないのが、悲しく辛かったのだ。
その後、私はますますランディスを避けるようになった。顔を背け、視界にも入れようとしない態度にイヴお姉様は苦笑し、スウェンお兄様からは叱られた。それでも私は頑なな態度を貫いた。
そして当のランディスは、私の無礼な態度にも特に何も言わず、相変わらず何の感情も映さないガラスのような紺色の瞳で、ただ一瞥するだけだった。
2023年1月26日
いつもお読みいただきありがとうございます。
ここからエピローグのエピローグ的な最後の種明かし編になります。予定通りに行けば、あと三、四話ほどで今週末に完結する予定です。
まだ書きたいなと思うエピソードはたくさんあるのですが、あまりあれこれ付け足すと風呂敷を畳めない危険があるので、悩みましたがここで一旦完結させようと思います。
とはいえ、私の中でまだ付き合いを続けたいお話ではあるので、今後の予定としてまず確実にできそうなこととして、短編を一本上げたいなと思っています。本編の補足的な話になります。
また完結後の後書きなどで、今後のことについてお知らせしたいと思います。完結までもうしばらくお付き合いいただければ幸いです。