166、カレンとロウラント2
ロウラントから今までにないほどの怒りを向けられ、カレンは息を飲む。
「今まで……んだと……」
悔し気に歪んだ唇から何か言葉がこぼれたが、よく聞き取れなかった。
「え、何?」
「余裕に決まってるだろう!」
「!?」
突然怒鳴られて、カレンはびくりと仰け反る。同時に彼の言う『余裕』の意味を察し、頬がかっと熱くなった。
「どうしてそこに心配する余地があるんです! 今まで何を見てきたんですか!?」
何がそこまで彼の逆鱗に触れたのか、本気で激怒するロウラントを前にカレンは焦る。
「だ、だって前に友情は感じてるって……」
「あれから何か月経ってると思ってるんですか! ……どうも妙な質問ばかりでおかしいと思いました。こっちがどれほど、あなたに心身を捧げ尽くしてきたかわかってますよね? 殿下は俺が酔狂で人生を投げ打ったとでも思ってたんですか!?」
「そんなことは……」
「俺は聖人君子でも木石でもありません! あなたの側でずっと尽くしてきて、男として何の欲求も湧かないと思われていたなら、侮るにもほどがある!」
カレンはとんでもない地雷を踏んだことを思い知る。気恥ずかしさに顔は熱いのに、背筋は恐怖で凍っていた。
「それは……もちろんこれだけずっと一緒にいるんだし、考えはしたよ。ロウも多少は私のこと、女性として好きになってくれてるかなあとか――」
「疑問を挟む余地があること自体おかしいんです!」
思わずカレンは遠い目になる。答えを急くあまり、引き返せない場所に足を踏み入れてしまったことを悟った。
(ダメだ……全方向に地雷が埋まってる……)
今更ながらロウラントが表面上は冷静だが、いったん火がつくとやっかいな激情家だったことを思い出す。
ロウラントがカレンへと向き直り、距離を詰めようとする。嫌な予感に、じりじりと後ろに下がるカレンの背が東屋の柱にぶつかった。逃げ場を失ったカレンの頭の脇に音高く両手を付かれ、腕の中に完全に閉じ込められる。ロウラントの目は完全に据わっていた。
「ロ、ロウ……? ちょっと落ち着こ――」
珍しく優位に立てていることに勢いづいたのか、ロウラントは酷薄な笑みを浮かべ、カレンの耳元に顔を寄せる。
「ああ……もしかして殿下のご心配は寝室での機能の方でしたか?」
「きっ……!?」
いつもの淡々とした口調とは違う、低くしっとりとした声でささやかれ、カレンの喉から声にならない引きつった音が漏れる。顔を背けようとしたが、手袋に包まれた大きな手に頬を撫でられ、阻まれた。
「世継ぎが必要な段階で、務めを果たせないようでは困ると? もちろん、先に証明しろというご用命があれば――」
「もういいよ! 私が悪かったから、本当に黙って……!!」
カレンは真っ赤になりながら、涙目でロウラントの肩をぐいぐいと押し返す。その子供じみた反応に我に返ったのか、ロウラントは少しばつの悪そうな顔であっさりと身を引いた。
静寂が戻ると、フクロウか何かの鳥の声が聞こえる。
正気に返ったカレンは慌てて周りを見渡す。いくら皇太子になり、多少のことをは目こぼしされるとはいえ、今の会話を他人に聞かれるのはまずい。
「心配しなくても誰もいませんよ」
ロウラントは周囲に人の気配がないことを知っていたらしい。いつもの口調に戻ってカレンに言う。
「だからといって、今ここで『証明』するつもりはありませんから――」
警戒心をあらわに再び柱に張り付くカレンを、ロウラントは呆れたように見やる。
「この際、きちんと話をしましょう」
ロウラントは小さくため息をついて言う。
「……というか、今まで散々人に思わせ振りなことをしてきたのは殿下の方でしょう? こちらが距離を詰めた途端、あからさまに動揺しないでください」
返す言葉もなく、カレンは赤くなったままうつむく。確かに、そう言われても仕方ない真似をした自覚はある。
ロウラントに以前恋人がいたことは知っていたが、その執着心の欠片も感じられない話しぶりから、恋愛方面に関しては関心が薄い、もしくは重きを置かない人間だと思い込んでいた。からかっても危険な空気にはなるまいと、見くびっていたのが本音だ。
今考えればそれはとんでもない思い違いで、しれっと冷静な顔の裏に情欲を隠していた相手に、挑発行為を繰り返していたことになる。
少し悩んだ後、カレンは恐る恐る会話ができる距離まで近づく。
「……そこまで思ってくれてたなら、何でロウは私に求婚しようって発想がないわけ?」
「殿下は『元の世界』では、未成年とおっしゃっていましたよね?」
「うん……って言ってもあと四ヶ月で十八歳だから、あっちでも成人扱いになるけど」
ロウラントの唐突な質問に、これはまた緩やかに話が逸れていくパターンではないかといぶかしむ。
「言葉を出し惜しみしたわけでも、からかっていたわけでもありません。ただ――」
ロウラントが気まずそうな顔で言う。
「いくら俺でも、未成年を相手に求婚するのは憚られます」
「……はあ?」
想定外の言葉にカレンは愕然とする。
(そこなの!? もう手遅れ……どころか、もっとアウトなこと言ってなかった!?)
カレンとロウラントの歳の差は四つ。建前上は健全なお付き合いなら、『元の世界』でも問題はなかったはずだ。周囲にだって、高校生と大学生のカップルなど珍しくなかった。
「だってこっちでは成人年齢って特に決まってないんでしょ? 十七歳なら結婚してて、子供がいてもおかしくないって言ってたじゃない」
「もし殿下がこの国の人間と同じ価値観をお持ちなら、別に遠慮はしませんよ。でもそこまで、こちらの流儀に割り切っているようには見えませんでした。『元の世界』で暮らしていた頃は、結婚など遠い未来のことだと思っていたのでしょう?」
「それは確かに……」
結婚できるかできないかともかく、本気でそういう心構えをするのは、後十年後くらいでいいだろうと漠然とは思っていた。
「少なくとも俺はあなたより大人です。そしてこの世界の常識を教えたのも俺です。逃げ道を塞いだ上で、大人が少女に結婚を迫る構図は倫理としてどうかと思います」
倫理から一番遠い人間のくせによくまあ…、と思いつつ、さすがに黙っていられなくなって、カレンはつい口を挟む。
「……ねえ。そこまで言ったら、もう求婚しちゃったも同然にならない?」
「個人としての好意を伝えるなら問題はないでしょう。でも形式に乗っ取った求婚や、『本気』で男女の行為を求めるのは話が別です。……言っておきますが、あの犬に舐められたようなやつは範疇に入りませんよ」
ぎくり、とカレンは言葉を失う。挨拶程度のものとはいえ、ロウラントとは二度ほどキスをしている。ただし仕掛けたのはどちらもカレンからで、不意打ちのようなやり方だが。案の定、根に持っていたらしい。
「これは殿下の生涯に関わる話です。少なくともあなたが自分を成人と認識するまで、結婚に関して俺から決定的な言葉を告げるつもりはありませんよ」
「だからもうそれ……」
変なところ律儀だなあ、と呆れつつも、うれしさで思わずにやけそうになるのを堪えられなかった。