160、新レブラッド公爵
「ご機嫌麗しく存じます、カレンディア皇女殿下」
「エスラム卿、ご無沙汰しております。あなたにはいずれ、きちんとお礼を伝えなければと思っていたのですが……」
礼状こそ早々にしたためたが、皇太子に決定して以来、エスラムと直接言葉を交わすのは初めてだ。
エスラムは後ろ頭を掻いて苦笑する。その気さくな仕草は、商会を隠れ蓑にした諜報機関の長にはとても見えない。しかしその一見平凡そうに見える所が、ディオスに見出された理由なのだろう。
「私が名ばかりの後見役にあることは、殿下が一番よくご存じでしょう。すべては殿下の才覚があってこそのこと。改めて皇太子になられることを、お祝い申し上げます」
「そう言っていただけると、うれしいです。ありがとうございます」
カレンは礼を言うと、皇女の顔をを引っ込めて、扇の影からささやきかける。
「――ところで、私の従者について何か聞いてはいませんか?」
ロウラントはカレンの従者になる前、エスラムの下でディラーン商会の仕事に携わっていた。宮廷から姿を消した以上、彼がまた商会に身を寄せている可能性についてはずっと考えていた。
しかしカレンの問いに、エスラムは眉尻を下げて首を振る。
「いいえ、残念ながら何も……」
彼からの情報が唯一の希望だったので、カレンは意気消沈するのをどうにか堪え笑みを作る。
「……それならいいのです。気にしないで」
「お役に立てず、申し訳ありません」
その時、周囲のざわめきが大きくなったような気がした。広間の大扉の方へ皆の視線が集まっている。
「あれは……?」
「そういえば、新たなレブラッド公爵がお披露目されるという話ですよ」
「選出に難航していると聞いていましたけど、いよいよ後継者が決まったのですね」
「なんでも先代公爵が、万が一に備えあらかじめ指名されていたとか……」
人だかりの間から、皇帝がいる玉座へと進む背の高い男の後姿がちらりと見えた。喪服と見紛うような、ほとんど黒に近い地味な色合いの礼装だ。まっすぐに伸びた背や颯爽とした足取りから、年齢はさほどいってなさそうだ。
「―-ずいぶんと若いな」
「傍系と聞いていますが、先代公爵とはほぼ他人なのでしょう?」
「噂では中流出の法律家だか銀行屋だとか……」
「いくら血を継ぐとはいえ、下々の職に従事しているような方を貴族と呼べるのかしら?」
あちこちから聞こえる噂話や嘲笑に、新たなレブラッド公爵の立場の難しさを思い知る。
レブラッド公爵は外務大臣を兼任することになる重役だ。その上、先代であるダリウスの犯した罪は既に宮廷中が知っている。―-売国奴にして皇族暗殺未遂。新公爵はただでさえ慣れぬ宮廷で、まず家門の汚名をそそぐことから始めなければならない。
その時、まるで靄を一閃するように、わずらわしいざわめきを打ち消す玲瓏な声が響いた。
「――我らが帝国の太陽にして偉大なる守護者、皇帝陛下におかれましてはご機嫌麗しく存じ奉ります」
低すぎず高すぎない、一分の乱れもない澄んだ響きの完璧な口上。それはカレンが初めての舞踏会で、父たる皇帝の前で捧げた文言と同じだ。何度も練習したことが今では少し懐かしい。あの時にエスコートをしてくれたのは、今隣に立つエスラムで、初めてこの大広間に足を踏み入れた時の緊張感と高揚感が思い出される。
短い口上だけで、新レブラッド公爵が非凡な人間であることはわかった。この大勢の、それも彼にとって好意的ではない視線に晒されながら、その声には微塵の動揺も感じられなかった。自分を目踏みし、粗探しをする人々の前に立つことが、どれほど心を苛むか経験した身だからこそよくわかる。
「――レブラッド公爵、ここへ。皆に目通りせよ」
玉座に座ったディオスは、相変わらず感情の読めない淡々とした声音で、新公爵を傍に呼び寄せる。
跪いていた新レブラッド公爵はすっと立ち上がり、毅然とした足取りで歩きだす。少しずつ露わになるその後ろ姿に、カレンは大きく目を見開く。
(うそ……)
公爵は玉座の下で足を止めると、ゆっくりと振り向いた。
黒色の地に鈍色の刺繍という、地味な色合いの礼服でありながら、貧相どころかむしろ荘厳に見せる長身の引き締まった体躯と長い手足。整った精悍な顔立ちに漆黒の髪。双眸の色は暗く、カレンの距離からはよく見えなかったが、それが夜空を想起させる深い紺色であることは、もうわかっていた。
若き公爵はざわめく観衆にまるで動じる様子もなく、冷ややかなほど静かな眼差しで周囲を睥睨する。夜の化身の如き、堂々たるその姿に大勢の者が息を飲む。そして記憶がいい者は、彼が宮廷に以前からいた人物であったと気づき始めていた。ちらちらと、カレンへも興味深そうな視線が向けられる。
一緒に過ごしたのは半年ほど、離れ離れになったのはほんの一か月。考えてみれば自分と彼が共有した時間は、今までの人生からすればほんの一瞬でしかなかった。それなのに何年も別離を経ていたように、胸がしめつけられる。
「ロウ……」
己の従者であったはずの青年は、新レブラッド公爵として宮廷に舞い戻った来た。
隣にいたエスラムを見ると、彼は含み笑いを堪えているように見えた。この光景を最初から予想していたことは明らかだった。
「ご存じだったのですね?」
子供のように唇を突き出すカレンに、エスラムは悪戯が成功した子供のように吹き出す。
「あなたはロウのこと、知らないっておっしゃったじゃないですか!?」
「殿下は『私の従者は』とおっしゃったので、てっきり新たな従者の選考について、お尋ねになりたかったのかと……。あそこにいる方はレブラッド公爵ですから」
「私をからかったの?」
「まさか! 今日まで秘匿にしておくことは、レブラッド公爵のご指示です」
「どうしてそんなこと……」
ロウラントはこれまでレブラッド公爵の庶子と身元を偽っていた。しかし本当のところは、先代と一滴の血の繋がりもないはずだ。何がどうしてこうなったのか、まったく訳がわからなかった。カレンは軽いめまいを覚えながら、玉座の近くに立つレブラッド公爵ことロウラントを見やる。
新公爵は卑賎の出身と聞いて、粗でもあればさっそく笑い物にしようと思っていたのだろう。意地悪く待ち構えていた人々は、どんな貴族よりも堂々とたたずむ彼の姿に、むしろ圧倒されているようだった。
(そんなの当り前じゃない……)
人の前に――いや、上に立つことにかけては、皇帝を除けば、この宮廷でロウラントの右に出る者はいない。かつて非の打ち所のない、完全無欠な皇子と言われた男だ。
「レブラッド公爵ロウラントだ。先代公爵の庶子であったが、正当な手続きを経て正嫡となり、先日叙爵した。カレンディア皇女の従者として見知った者も少なくはなかろう。――レブラッド公爵」
ディオスの紹介を受けると、ロウラントは言葉を発する。
「まず方々には、わが父にして先代レブラッド公爵の愚行をお詫び申し上げます。これよりは未熟な身ながら、偉大なる帝国の僕として、この身、この忠誠のすべてを捧げることを宣誓いたします」
宣言と共にその視線が上げられ、まっすぐにカレンを捉える。彼の言葉が帝国の象徴たる偶像になると豪語した、自分に捧げられた物であることはすぐにわかった。胸の中に熱い物が込み上げ、思わず目頭が潤む。
ロウラントは確かにカレンとの約束通り、宮廷に戻って来た。だがこんな方法で、正面突破を図るとは誰が想像できるものか。
ロウラントの口元に、かすかな笑みが乗るのを見た。「どうだ」と言わんばかりの不敵な態度に、カレンは脱帽からしゃがみ込みたくなるのを堪え、力なく笑い返した。