151、皇帝と大司教2
「大司教殿の話を聞いて安心した。――率直に言うが、ここから先は取引だ。協力してくれるのであれば、立太子式の采配は今まで通り大司教殿にお任せしよう」
ディオスは一枚の書面を取り出して、レスカーに見せる。
「それは婚姻許可書ですか? 陛下とルテア皇妃の物のようですね」
「大司教殿に頼みたいことは二つある。まずこれの日付を変えた物を作成してほしい。そしてさらにもう一通、別の婚姻許可書の作成もだ」
「……話がまるで見えませんな」
「つまり、私とルテアが正式な婚姻を結んだ日付をこの二年後としてほしい」
「二年後、ということはグリスウェン殿下は……」
「婚外子ではなく、ルテアの連れ子とする。私との婚姻を結んだ時点で、ルテアは前夫と死に別れていたことにする。だから結婚許可書はもう一通必要なのだ」
厳密にはイクス教の教えに反するが、既婚者が配偶者以外と恋愛に興じることは、ルスキエの貴族社会では珍しいことではない。家名に傷を付けなければ、目こぼしされることがほとんどだ。
先々帝である自分の祖父には、正式な夫がありながら皇帝の側に侍ることを許された、公妾や愛人と呼ばれる既婚女性が大勢いた。ランディスの実母であるリーゼラーナもそういった女性の娘だ。
「陛下の側にお仕えするようになった時点では、実はルテア皇妃は他の男性と婚姻関係にあり、後に夫が亡くなったため正式に皇妃にした――そういう筋書きですね?」
「その通りだ」
「無茶苦茶ですよ。ルテア皇妃の息子に皇子を名乗らせておいて、今更それは通りません」
「わかっている。すべての責任は私が取る。夫の子を身籠っていた女性を、愛人ではなく皇妃としたいがために、周囲を欺いたということにする」
レスカーが腕を組み天井を仰ぐ。
「……いやいや、ちょっと待ってください。それでも無理でしょう。陛下の若い頃の素行を考えれば、ありそうな話ではありますが、証明書を偽造しても、ルテア皇妃が宮殿入りした後に妊娠した事実は変えられません。婚姻状況に関係なく、結局グリスウェン殿下は陛下の種だと噂されます。どうせ泥を被るおつもりなら、真実を告白した方が遥かにましなのでは?」
「それではグリスウェンは庶子となる。できれば避けたい」
ルスキエでは婚外子の待遇は良いとは言えない。父親が家督の相続を望めば、正式な嫡子にもなれるが、そうでなければ父親の姓を名乗ることは許されず、むろん一切の相続権もない。たとえ貴族の血を引くことが明らかであろうと、蔑んで見られる存在だ。
「それにルテアが身籠ったのが、正式に正宮殿に入り『皇妃の間』で暮らすより前であることは事実だ」
レスカーは少し首をひねった後、はっと思い至ったように声を上げる。
「……そうか。あの時は先帝陛下が身まかられて……」
「ルテアとの婚姻許可が降りた直後に父が突然崩御した。喪に服すため、婚姻式と正宮殿入りは先送りになり、ルテアはその間、離邸に『客人』として留め置かれていた」
広大なベスラ宮殿には、貴族たちが滞在するための部屋や離邸がいくつもある。身分と財力の証となるため、宮殿に居住区を持てることは貴族たちにとって誉れとされている。通常なら宮殿内に住めば、それなりの維持費がかかるが、皇族の親しい友人として招かれていれば話は別だ。
「離邸に居たとあれば、陛下の通いがなかった証明にはなりませんが、『前夫』とやらの接触がなかった証明にもならない……ギリギリ言い訳は立つか、苦しい所ではありますが」
「だから形式は馬鹿にできないのだ。体裁が整っていなければ、言い訳すらもできない。それにどう転んでも、悪く言われるのは覚悟している」
「……確実にルテア皇妃の気の毒な『前夫』とやらは、横恋慕した陛下に消されたと噂されるでしょうね」
「それならそれで構わん。グリスウェンは実父を殺され、皇家に飼い殺しにされた挙句、仇の娘と惹かれ合った悲劇の主人公と祭り上げられるだろう。……世間が好きそうな物語だと思わんか?」
「素晴らしい。さっそく吟遊詩人を呼んで詠わせましょう」
レスカーの皮肉をディオスは鼻で笑った。
「イヴリーズに婚姻許可書を偽造をさせなかったのは、賢明なご判断でしたね」
その考えが頭を過らなかったわけではないが、大司教は皇家と同様、面子を潰されることを何よりも嫌う。一線を超えれば、彼は確実に敵に回るだろう。
「少なくともこの件に関しては、我々は若者の未来を憂う同志であろう?」
「……しらじらしい。大司教たる私に偽証行為を迫っておいて、よくおっしゃいます」
レスカーが顎に手を当てて考え込んでいる。勘のいい彼なら、この会話の一連の意味がわかっているはずだ。――しらを切られるのが明らかであるのに、あえて最初にダリウスの告白について問い質した意味が。
立太子式はあくまで建前の話。本当の交換条件は、互いの体面のため口にはできないが、最初に持ち出したダリウスとの関りだ。今回の提案をレスカーが飲みさえすれば、当時の背信行為については二度と追及するつもりはなかった。この話はディオスが怒りを抑え、目をつぶりさえすればそれで済む。
ラドニアの件にしろ、皇妃たちの件にしろ、仮にレスカーが関わっていたとしても、その根底にあるのは教団から特権を奪った皇帝に対する嫌がらせだ。それ以上でもそれ以下でもなく、追及してもさほど意味はない。
彼の望みは、あくまで大司教という立場でうまい汁を吸うことにある。ある意味絶対的な信頼をもって、彼が玉座の簒奪や国家転覆を計ることはない断言できた。『寄生虫』は宿主がいなければ、生きられないのだから。
「迷うことなかろう。どうせ大司教殿も同じようなことを考えていたはずだ。これでイヴリーズは堂々と……まではいかないが、夫と子を持てる」
「法に触れずとも、姉弟として育った事実まで取り消せませんがね。……私には今どきの若者が何を考えているかわかりませんよ。それとも皇家の人間ならではの価値観なのですかね。この件に関して、陛下はずいぶん物分かりがよろしいようですが、父親として思う所はないのですか?」
「なぜだ? 市井では跡継ぎがいない商家などが、よそからもらい受けた有望な男児を手元で教育して、将来娘と娶せるなどよくあることだろう。同じことではないか」
今回の件がもし起こらなければ、イヴリーズが皇太子になるにしろ、ならないにしろ、その夫となる人物の選定に難儀したはずだ。継承権を持った子供の父親やその実家が野心家であれば、新たな争いの元となる。
さらにイヴリーズは十代後半が結婚適齢期とされる貴族社会では、いささか歳が過ぎている。生半可な男ではあの気位の高い娘が納得するはずなく、せっかく皇籍を残しながら行かず後家などということもあり得ただろう。結果としてイヴリーズ本人にとっても皇家にとっても、信頼できる夫を迎えられるのなら、この苦労は無駄ではない。
「……まったく、陛下は昔から屁理屈だけは達者でいらっしゃる」
「だが屁理屈も理屈には違いない」
レスカーが小さく舌打ちするのが聞こえた。
「……ルテア皇妃の『前夫』とやらは、こちらで適当にでっち上げますからね」
それは、ついに大司教が陥落した瞬間だった。
「肩書や家名はどうでもいいが、名前だけは『フランセオ』としてくれ」
「フランセオ? ルスキエの名前ではありませんね。ドーレキアかタルタス辺りの北方諸国の響きに聞こえますが」
「気にするな。……もうこの世のどこにも存在しない人間だ」
素っ気なく言った後、ディオスは密かに微笑んだ。
2023/10/19 誤字修正