150、皇帝と大司教1
選定会議の翌朝、ディオスはある男と対峙していた。
形式上は対等な関係とはいえ、皇帝の前で堂々と椅子にふんぞり返り、膝を組めるのはこの男くらいだろう。そう思えば親しみも湧く――などということは一切なく、正直顔も合わせたくはないが、ディオスは大司教を応接の間へと呼び入れていた。
「まったくこんな朝から何用ですか? 何やら深刻そうなお顔ですが、はて……なにせ寝起き間もないですから、頭が回らぬかもしれませんよ」
「それはすまない。てっきり大司教殿は朝が早いと思っていたのだが」
年寄りなら早起きだろうという皮肉を込めると、レスカーは口元をひくつかせた。
「それで本当に何の用ですか? これでも私は忙しい身なのですよ。選帝会議が終わった以上、大聖堂をむやみに空けるわけにはまいりません。とっとと帰りたいのですが」
「では単刀直入に言わせてもらおう。――昨日レブラッド公爵がラドニアの件について、協力者として大司教殿の名前を挙げた」
レスカーはその言葉に無表情を貫き通し、ディオスをまんじりともせず見つめている。彼は真実を話す時より、嘘をつく時の方が平静になれる類の人間だ。うかつに反応を返さないのは、鎌をかけられることを警戒しているのだろうか。――事実その通りだが。
「……さて、覚えがないことですな」
しばししてからレスカーは答えた。ディオスは視線を逸らさずレスカーの目をじっと見る。そこには動揺の色は見えない。この程度で狼狽するほど可愛げのある男ではないが、疑いをかけられているこの状況下であまりにも平然とし過ぎだ。あるいは証言以外の証拠はないと踏んで、強気に出ているのだろう。
「レブラッド公の最後の悪あがきか腹いせか……もしくは私か陛下に対する嫌がらせでしょう」
「なるほど。ではこの件は終いだ」
「は?」
あっさりとディオスが引き下がったので、レスカーが肩透かしを食らったように唖然としている。
「陛下は納得できるですか?」
「私が納得するしないの問題ではなかろう。ダリウスの言葉を証明する方法がない以上、これ以上話し合っても仕方ない」
じっと、いぶかしげな視線を向けるレスカーを無視して、ディオスは話を続ける。
「さて……話は変わるが、立太子式やそれに伴う宴について、経費をかけ過ぎるのはいかがなものかという意見が出ている」
「陛下の時は厳かでありながら、大変洗練された式典だったと記憶しております。特別華美とは思いませんでしたが? 大帝国の未来を担う、皇太子にふさわしい格という物がございます。諸外国からの賓客も大勢いらっしゃいますし、宮殿で行われる晩餐会の経費を削るわけにもいかないでしょう」
「さよう。形式とはあながち馬鹿にはできない。削るのは別の部分だ」
「……と、言いますと?」
「賓客が滞在する宮殿から、立太子式が行われるオルセナの大聖堂まで馬車で半日近くだ。その間の警備や休憩場所の確保にも膨大な費用が掛かる」
「それこそ削るわけにはいかないでしょう。祝い事の最中に賓客に万が一のことがあれば、それこそ国の汚点となります」
「だから移動を省くのだ。式典を宮殿で行えば余計な手間も経費も削れるであろう」
ディオスの言葉に、今日初めてレスカーの顔色が変わった。
「……地上の統治権とは、イクス女神の恩恵により皇家に授けられし物。むろん皇太子の地位もそれに準じます。その大原則を蔑ろにされると、陛下はおっしゃるのですか?」
「別に蔑ろにはしていない。貴殿が宮殿で式典を執り行えば済む話だ」
「女神の代行者として冠を授ける、この私自ら宮殿へ出向けと?」
「大司教殿がご不満ならば仕方ない。帝都の司教に依頼するしかないな」
帝都レギアの司教は、かねてからデ・ヴェクスタ家の世襲である大司教職に疑問を抱いている、反大司教派に属する人物だ。
「そもそも大司教の地位とは、皇族から古くに枝分かれしたデ・ヴェクスタ家に本家が与えた特権だ。貴殿の地位こそ、イクス女神とその末裔たる皇家の名において賜られた物であることを忘れてはいないか?」
その言葉にレスカーの目が据わる。
無言で立ち上がり、つかつかと歩み寄ると、椅子に座るディオスを睨めるように顔を覗き込む。
「……調子に乗るなよ、ひよっ子が」
「分を弁えろ、クソジジイ」
額に青筋を立て互いに睨み合う二人は、やがてどちらともなく視線を逸らせた。およそ二十年ぶりの罵り合いだった。若い頃のように胸倉を掴み合わなくなっただけ、互いに歳を取ったなと思う。
レスカーがひとつ鼻を鳴らすと、再び椅子戻ってどさりと腰かけた。
「だいたい何がジジイですか。考えてみたら、陛下こそ初孫ができる御年でしょう」
「貴殿の姪のせいだ」
「陛下の娘ですよ。わざわざ私が弁を振るうよう誘導させ、レブラッド公爵の尋問に信憑性を持たせるなど、いかにもイヴが考えそうなことだ。……彼女は今、安全な場所にいるのでしょうね?」
ディオスはかすかに目を見開く。
「……大司教殿でも身内のことを心配するのだな」
「当たり前でしょう、誰も彼も私を何だと思っているのですか!? 当人も含めて、誰も私が姪を本気で心配していることを信じようともしない」
どう考えても普段の行いのせいだろうと思うが、後の話し合いを円滑にするため、ディオスは黙っておいた。
「イヴの様子がおかしいことにはすぐに気づきましたよ。若者のしくじりなどだいたい男女関連でしょう。相手も想像はつく……というか消去法で一人しかいません」
面白くなさそうに、レスカーは短く息を吐いた。
「それでいて自分が皇太子になれぬのであれば、グリスウェン殿下を代わりに据え、秘密を守った上で妹たちも救済しようなど、無謀にもほどがある」
「……だから、大司教殿はカレンディアを推したのか?」
「イヴリーズの身を守るためには、前線から退かせるのが最善と判断しました。そのためにカレンディア殿下には少々強引にでも、矢面に立っていただく必要があったのです。それにイヴは稀有な『祝福』を持っています。皇太子になれずとも、彼女が修道院送りにされるなどまず有り得ないでしょう?」
「ならばイヴリーズが望むように、グリスウェンを皇太子として後押しすればよかったのでは?」
皇家の血を引くか否かなど、自分の利益に比べれば、この男にとっては些細なことだろう。
「それもむろん考えましたよ。私ならイヴごとグリスウェン殿下を御する自信もございます。ただグリスウェン殿下は人間としては真っ当な方ですが、どう見ても皇帝の器ではないでしょう。あれでは数年で壊れますよ。意のままに動く傀儡に仕立てたところで、それでは本末転倒だ」
眉をしかめるディオスに、レスカーは肩をすくめて笑った。
「彼は玉座に座るには優しく清すぎる。妻子を日陰者にしておくほど、割り切れもしないでしょう。現に舞踏会で、知らぬ存ぜぬを突き通すことができなかったじゃないですか」
舞踏会でのユイルヴェルトの告発に何の証拠もなかった。実際身籠っているイヴリーズはともかく、グリスウェンはしらを切り通すこともできた。冷静な判断をするなら、ひとまず自分の身の安全を確保し、イヴリーズを救う手筈を整えるのが最善だったはずだ。
「その点カレンディア殿下は豪胆でなかなか抜け目ない。いざとなれば冷徹な判断もできるが、兄弟姉妹を決して見捨てない、慈悲もあるとお見受けしました。あの辺りの絶妙な精神の均衡は、他の才覚に劣らぬくらい得難いものかと存じます」
「貴殿の目論見通りに動くほど、あの娘は容易くもないぞ」
「そこは長い目で見ますよ。……でもまあ、結局私も他人のことは言えませんね。最後の最後で、身内への情に流されたのだから」
口調の割には、大司教の表情に後悔の色はなく、どこか大仕事をやり遂げたような清々しさがあった。