148、鎮魂の祈り
二週間前、ベルディ―タが横たわっていた地下の一室にダリウスの亡骸も安置された。
死者の前にひざまずき聖句を唱える人物がいた。東方の竹笛の音を思わせる、低く滑らかな耳障りの良い声だ。ディオスもその声に聞き入り、静かにダリウスの冥福を祈った。
やがて祈りを終えた彼が立ち上がる。イクス教の黒い修道服は男女共に同じ物だ。喉元を覆う高襟で、ゆったりとした布地は裾が床を引きずるほど長い。
遠目からドレス姿の彼を幾度か見たことがあるが、こうしていざ向き合うと、長いこと性別を偽っていただけあって男には見えない。しかし女とも何かが違う。
フレイ・ニース――ルテアの想い人であった彼と初めて正面から顔を合わせたが、まるで性別がない樹木でも前にしているような、不思議な気分だった。
フレイを伴い執務室へと場を移したディオスは、改めて彼と向き合う。
「すまなかったな。そなたを呼び出しておきながら、なかなか時間を取れず、頼み事まで引き受けさせてしまった」
「いいえ、ご多忙だったと聞いております。私ごときにお気遣いなど不要です」
カレンの教育係であり、ルテアの幼馴染にして恋人であり、そしてグリスウェンの実父であるフレイ。彼とは一度話がしたいと以前から思っていた。
ちょうどグリスウェンの件が露見してしまったこともあり、万が一責任を感じたフレイが間違いを起こさぬよう、念のため正宮殿に呼び寄せてあった。しかし結局今日まで時間を取ることができなかった。
ダリウスの処刑執行が早まったこともあり、司祭が到着するまで時間がかかると知ると、試しにかつて修道女になるべく修練を積んでいたフレイに声をかけてみた。
本来なら司祭など呼ばずとも、今この宮殿には最高位の聖職者が滞在している。しかし破戒僧として名高い彼のことだ。酩酊状態で顔を出されても困る。まして寝所に女を引きずり込んでいる所になど出くわしては、目も当てられない。ダリウスも大司教にだけは祈られたくないはずだ。
「レブラッド公爵のことを、そなたに頼む筋ではないのはわかっている」
「いいえ、彼は命により罪を償いました。後はただ魂が女神の御許へ向かわれることを願うばかりです」
その声を聞けば確かに男だとわかる。普段は一段高い声で話すよう心掛けていると言っていたが、慣れているので特に苦ではないらしい。
「恨みはないのか? レブラッド公爵はルテアの死にも関わっているのだぞ」
「まったくないと申し上げれば嘘になります。ですが本来のレブラッド公爵は多くの人々から信頼され、人格も優れた方と聞いております。その方でも誰かを殺したいほど、憎しみに心を支配されてしまったのなら――この宮廷の毒にあてられ、そのように歪んでしまったことを気の毒に思います」
「……そうか」
ディオスの短い返答をどう思ったのか、フレイが慌てて頭を垂れる。宮廷への批判は、皇帝への批判に繋がると気づいたのだろう。
「申し訳ありません、つい出過ぎたことを……」
「いや、構わん」
フレイがこの宮廷や貴族社会の在り方に辛辣なのは当然だ。彼が最愛のルテアと引き離された要因でもある。
「……すまなかった、フレイ。そなたにはずっと謝罪したいと思っていた」
その言葉にフレイが目を見開く。
「おやめください、陛下。グリスウェン殿下の件といい、本来命をもって償わなければならないのは私の方です」
「いや、せめて私がルテアを見初めなければ、彼女は修道院に戻れたかもしれない。……少なくともあのような、気の毒な最後にはならなかったはずだ」
フレイが沈痛な表情で唇を噛み締める。
「皇妃にならなかったとしても、駒として価値のあるルテアを先代のアーシェント伯爵が手放すことはなかったでしょう。……幸せな人生を送れたとは思えません。それに陛下以外の方に嫁いでいれば、私と彼女は再会することすら叶いませんでした」
皇帝に対する配慮抜きで、本心からそう思っているらしいフレイをディオスは不思議そうに見やる。
「そなたは私を憎んでいないのか?」
「そのような権利、私にはございません」
「純粋にルテアを巡る恋敵として憎くはないのかと聞いている」
「……恋敵、ですか」
心の底から意表を突かれたような顔で、フレイは戸惑っていた。
「私はそなたが妬ましかったぞ。だからルテアには私との約束を、誰にも口外しないよう言い含めたのだ」
ルテアに想い人と情を交わすことを許したのは、純粋に彼女のためだ。せめてその相手であるフレイは、皇妃に手を出した罪悪感に苛まれればいいと、あの頃の自分は本気で考えていた。
「そなたとて、この数日はさぞ気を揉んだであろう。その無用な心配も、私のせいとは思わんのか?」
「私が覚悟して選んだ道です。自分たちの境遇を嘆いたことはあっても、人のせいにすることではございません。失礼ながら、人生がままならないのは皇帝陛下も元流民である私も同じことかと。そうであれば、陛下をお恨みするなど筋違いです」
フレイが真摯に考えながら紡いだ言葉に、ディオスは思わずうなだれた。なぜルテアがフレイという人間に心惹かれたのか、少しわかったような気がした。人間としての在り方の違いを、まざまざと見せつけられた。
いつも朗らかで笑顔を絶やさないルテアだったが、少女時代の環境は恵まれていたとは言えない。本人の口から語られたことはなかったが、両親を亡くした貧しい下級貴族の娘がどのような扱いを受けたかなど聞かずともわかる。
その傷ついた心を、フレイという存在にどれほど救われたかは想像がつく。どんな運命が待ち受けていようと、フレイならば変わらずに待っていてくれると思える信頼は、遠く離れた場所でもルテアを支え続けたのだ。
「……これは敵わんな」
ある種の諦観と共に、ディオスは独りごちた。