147、私の皇子様
「……そろそろ戻るね」
カレンの方からそう切り出し、ソファーから立ち上がった。これ以上会話をしても、余計に墓穴を掘りそうなので少しほっとした。
「部屋まで送ります」
「いいよ。同じ宮殿の中だし、それこそ一緒にいる所を人に見つかったらまずいでしょ?」
確かに宮殿の中でも、ここは外部の人間が立ち入れない一画だ。部屋に戻るだけなら、危険が及ぶこともあるまい。
カレンが立ち上がり、ロウラントに背を向ける。白いショールに覆われたその細い肩が、ランプの明かりに照らされ淡く浮かび上がる。あまり意識したことはなかったが、こうして見ると華奢な体つきだ。
カレンはダンスや乗馬に取り組む内に、最初の頃よりは筋力がついたと言っていたが、元来骨格からして細いのかもしれない。成長期にあまり日の光に当たることなく過ごし、食が細かったせいもあるだろう。
――この小さな双肩に帝国の未来がかかる。
そう考えれば、今更ながら自分が仕組んだことの残酷さを思い知らされる。本当にこれでよかったのだろうかと、ふいに不安が込み上げてきた。
ロウラントはえも言われぬ焦燥に囚われ、気づいた時には暗がりへと進みゆくその手を掴み、引き留めていた。
「どうし――」
振り返りかけたカレンの肩を後ろから抱きすくめると、息を呑む気配が伝わってきた。一瞬身を固くしたカレンだったが、抵抗はしなかった。
「……カレン、これが最後の機会です」
薄い布越しに伝わるほのかな体温と、洗い立ての髪から漂う花の香り中で、思わず言葉がついて出た。
「前にも言った通り、ここから先に待っているのは地獄です。……もし今からでも、玉座から逃げたいのであれば俺が逃がします」
「今更それ言う?」
背中を預けるようにロウラントを仰ぎ見て、カレンはくすくすと笑う。
「今だから言うんです。もうこの先は何があっても引き返せません」
「ふーん。で、どうやって逃げるの?」
カレンは動じた様子もなく、面白がっている表情で尋ねた。
「この段階であなたが逃げるなど、誰も警戒していません。国を出るのは難しくないでしょう。縁もゆかりもない土地に行ってしまえば、騎士団やディラーン商会であろうと追跡しようがありません」
「そう言われてもなー。この世界で仕事見つけて、生活する自信もないし」
「元歌手でしょう。それにあなた一人くらい俺が養いますよ」
カレンが腕の中で急に身をよじり振り返ると、ぎょっとしたようにロウラントを見上げる。しかし瞬時に、呆れたようなため息をついた。
「そこまで言うならさあー……意味わかってるのかな、この人。……そこんとこ天然とか、もうどうすればいいわけ?」
「え、何ですか?」
ブツブツとつぶやかれる言葉の意味を図りかねていると、ふいに爪先立ったカレンが振り返り、ロウラントのうなじに両手を回した。
驚く間もなく顔を引き寄せられ、頬に吐息がかかる距離で視線がぶつかった。暁の瞳――夜と朝の狭間を映すその瞳はまじろぎもしない。その口唇には挑発的な笑みが刻まれる。普段の子供っぽい雰囲気とは違う、手練手管に長けた大人の女のような表情にロウラントは目が離せなくなった。
「ねえ、ロウ。私はお姫様だけど、皇子様にさらって欲しいとは思わないの。みんなを愛し愛される、皇帝っていうこの国の偶像になるって決めてるから」
「……そうでしょうね」
カレンは最初から一貫してこうだった。大切な物を何度も失いそうになり、打ちのめされながらも、『皇帝になる』という言葉は覆さなかった。衝動的に『逃がす』などと言ってみたものの、ロウラントとしても本気でカレンが考えを改めるとは思ってはいない。特に驚きも落胆もしなかった。
カレンもあっさりとロウラントから手を離し、腰に手を当てる。
「だからね、ロウはやり口があざといの! あからさま過ぎるの! これでほだされると思ってたなら、私を見くびり過ぎ!」
手痛い指摘に、ロウラントはむっとして横を向く。
ディラーン商会の諜報活動に携わる内に、人の心の内に潜り込む手法を教わった。人間関係を築くことに関しては、ユイルヴェルトほど器用になれなかったが、それでも異性を篭絡する方法は一通り心得ているつもりだったし、それなりに自信もあった。しかしカレン相手だと、どうも調子を崩される。
「殿下こそ、こういうやり口をどこで覚えてきたんですか? ……男性と付き合ったことはないんですよね?」
「あれれー? 私、そんなこと言ったかなあ?」
ふふんと、顎に手を当てて笑う余裕の表情に、ロウラントは小さく舌打ちした。
「これだから博愛主義者はっ!」
「確かに私は皆を愛したいけど、誰も彼も平等ってわけじゃないからね。序列はあるんだよ、これでも」
「はいはい。そうですか」
旗色が悪くなってきたことに気づき、ロウラントはわざと不機嫌そうに言う。カレンの過去の遍歴にこだわる気はないが、主導権を握られるのは流儀ではない。
「そろそろ戻られた方がいいのでは、殿下?」
「引き留めたのそっちじゃん! でも明日も早いみたいだし、そろそろ帰るね」
カレン大きく伸びをすると、再びロウラントに近寄る。何事かと思っていると、背伸びして耳元でささやかれた。
「いい? 絶対に何があっても私の所に戻って来てね。私はロウにどこかに連れ出してほしいとは思わないけど、ロウのことは私がどこまでも連れて行くから。――覚悟しててね、『元』皇子様」
はっと意識を取られている隙に、唇に柔らかく押し当てられたものがあった。情欲など欠片も感じさせない、寝る前に幼子が親にするようなキスだ。
「じゃあ、おやすみ。また明日ねー」
そう言ってヒラヒラと手を振りながら、あっさりと部屋を出て行くカレンを見送る。嵐の後のような静けさが部屋に戻った。
ロウラントは茫然としたまま、ぼそりとつぶやく。
「……どっちがあざといんだ」