144、かつての皇子と従者3
「ああ、そうでした陛下――最後に確認したいことがございます」
ダリウスが後ろから声をかける。
「どうした?」
「家督存続の件は、お目こぼしいただけるのですよね?」
「帝国屈指の名門のたるレブラッド公爵家を、一代の失態のために潰すわけにはいくまい。……とはいえ、お前には子がいないのだから家督は親族に行くことになるな。レブラッドの叔父上方にも子はないし、直近は大叔父上の孫あたりか……。レブラッド家も皇家に劣らず人員が不足しているな」
「いざという時のための取り決めは、当家の家令に託してあります。家門が取り潰しになどなれば、あの世で私は父祖に合わせる顔がありません。それが唯一の心残りでした」
「レブラッドは私の血筋でもある。……家門のことは心配するな」
「はい、陛下。それを聞いて心から安心いたしました」
ダリウスは何かを噛み締めるように笑みを深めた。
ディオスは小さなリキュール用の杯を目の前に置くと、親指にナイフの刃を添え滑らせる。赤い線がじわりと浮び、見る間に血の玉が膨らみ杯の中に落ちていく。
「……臣下たちは容易く私に血を流せと言うが、自らに傷を付けるのは何度やっても慣れない。正直怖気が走る」
「存じませんでした……陛下はいつも顔色一つ変えないので」
「他人に死ねと命じるのだ。私が傷一つでガタガタ言えるか」
少しずつ杯に溜まっていく血は砂時計のように、ダリウスとの最後の時を刻んでいた。
「……ミリエルはよくあの場でためらうことなく、潔く自分の手を突けたものだ」
「姉君を後押ししたい一心だったのでしょう。歳は幼くとも、あの方も確かに陛下の御子。見事なお振る舞いでした」
「しかしあれも結局、上の兄姉の影響か向こう見ずになってしまった」
公にされていないが、宮廷の慣例として血の試しは生まれた時に行われる。グリスウェンに関しては自分の血とすり替えて誤魔化したが、それ以外の全員は赤子の内に血統を証明されている。ミリエルに二度目を行ったのは、あまりにも母アンフィリーネの素行を疑う声が多かったため、黙らせるのに必要な処置だったからだ。
「馬鹿者共が……誰が私の実子であるかなど、最初から知っておるわ」
「六人も皇妃を迎えて、実の子は四人ですか。効率としてはいまいちでしたな。若い頃はあれほど浮名を流したのだから、もう少しがんばっていただきかったものです」
「そういうことを言われるから興が削がれるのだと、お前たちはなぜわからんのだ……」
「あなたは若い頃から、知的で色香のある女性がお好きでしたからね。本来の好みに沿っていたのは、イゼルダとティアヌ皇妃くらいでしょうか。……アンフィリーネ皇妃が初めて目通りしたときの、陛下の絶望的な顔は今思い出しても笑えますな」
くくっと喉の奥で笑うダリウスに、ディオスは小さく舌打ちする。
「……だから、どちらかといえば好みとは対極にありながら、それを超えて陛下を篭絡したルテア皇妃は本当に脅威でしたよ。ああいうのを傾国の女というのでしょうね」
「別にルテアは国政への関心はなかったし、ねだり事などもしなかったぞ」
「ですが陛下は皇家の血を引かぬ子供を皇子と称し、一人の女のために歴史ある帝国の法をあっさり覆されたではないですか。何ならグリスウェン皇子が他の兄弟姉妹よりも優れていれば、皇太子に据えることも考えたのでは? 陛下に自覚がないだけで、結果的にはルテア皇妃の都合よく行動させられていますよ。――そこが、ああいう手合いの怖い所です」
「……なるほどな。その意見に同意はしないが、後学のために覚えてはおこう。――さて、これだけあれば十分か」
グラスには一口分ほどの血が注がれた。致死量としては十分だ。苦しまず眠るように逝けるだろう。さらに赤ワインを注げば、見た目では血液とはわからなかった。アルコールの中に隠しきれない、鉄さびじみた臭いが混ざっているが、これも血族以外には甘い南国の果実のような芳香と感じるらしいのだから不思議なものだ。
ディオスは自分の杯にもワインを注ぐ。
「何に乾杯したい?」
ダリウスは至極当然といった顔で答える。
「もちろん、皇太子の誕生に」
「ほう……カレンはルテアの娘だ。お前にとってあれが皇太子になることは、業腹ではないのか?」
「そして陛下の娘でもあります。あの方に愛憎入り混じった感情があるのは認めますが、皇太子に選ばれたことに反対はいたしません。――なにせ陛下のふてぶてしいほどの不屈の精神と、ルテア皇妃の禍々しい魅力を受け継いだ方です。カレンディア殿下は民衆をたぶらかし、この国を破滅へと導く稀代の暴君となりうるでしょう」
嘲笑うような言い草に、ディオスは小さくため息をつく。
「ですが、もし……」
一転、ダリウスの表情が柔らかくなる。
「陛下と違い良い臣下や伴侶に恵まれれば、歴史に名を遺す名君となるかもしれませんな」
「……ならば問題ない」
ディオスは確信をこめて断じた。
過日、イヴリーズは言った。
『カレンが皇太子となるのなら、私やスウェンが彼女の至らぬ点を補います。臣下となり、一生涯のその治世を支えることを誓います』と。
あの傲慢で気位の高い娘が、無条件で頭を垂れてもいいと言い切るのはカレンディア以外にいないだろう。他の兄弟姉妹も意見はほぼ同じで、結局子供たち全員が彼女を推したことが決断への決め手だった。
「誰も彼も今一つ足らぬ子供たちだが、全員が協力するのなら、少なくとも私よりはましな治世を敷けるだろう」
「そうなることを私も祈りましょう」
ダリウスは満ち足りた表情でうなずいた。
ディオスが杯を取ると、ダリウスもそれに倣った。
「……世話になったな、ダリウス」
「こちらこそ、ディオス陛下」
最後の別れの挨拶は互いに素っ気なかったが、それでよいと思えた。飾り立てた言葉で礼を述べるほど水臭い関係ではないし、今際の際に恨み言をぶつけられるほど割り切れもしなかった。思えば、彼こそが兄弟姉妹のいないディオスにとって兄のような存在だった。
「――では、皇太子の誕生を祝して」
「皇太子に」
掲げられたグラスが、かちりと星のように瞬いた。