139、記された名前
「――時間だ」
宣告通り、三時間後ぴったりに皇帝は静かに告げた。
ようやくこの重圧から解放されると、円卓のあちらこちらからため息が漏れる。
「では陛下から、ラドニア紛争における真の戦犯を教えていただけますか? そして、早く本題の皇太子選出を進めましょう。……まあそちらの方は議論のしようがないですがね」
レスカーの言葉に数名が目配せをし合い、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる。この状況でも大司教が動揺を見せないのであれば、さすがに彼が犯人の線はないのかと考え始めたのだ。
レスカーが突然姪のイヴリーズ皇女から、カレンディア皇女に鞍替えしたことは大いに世間を驚かせた。しかしその先見の目は確かだった。今の彼は皇太子候補筆頭の最も強力な支援者だ。結局このふてぶてしい男を引きずり落とす材料はなく、彼の思惑通りに選帝が終わるのかと、皆から落胆の色が浮かぶ。
「――コレル男爵。ここへ」
「はい」
皇帝から名を呼ばれ、大臣らとは遠い座席から一人の男が心得たように立ち上がると、皇帝の元へと歩み寄った。
コレル男爵は地方領主の代表として、枢密院に選出されている。本人も肩書も、取り立て特徴がなかったはずのこの男は、最近になり宮廷で名を馳せるようになった。理由はカレンディア皇女の後見人であるからだ。
普通皇太子候補の後見人には母方の親族がなるものだが、カレンディア皇女の母方の親族アーシェント伯爵は、すでに同母の兄であるグリスウェン皇子の後見人となっている。
そこで指名されたのがこのコレル男爵だった。どの派閥とも縁のない、毒にも薬にもならぬ立場だからこその人選が明らかな男だ。しかしカレンディア皇女の予想外の台頭により、その後見人であるコレル男爵の名も知られるようになっていた。
「まずこれをご覧ください」
コレル男爵は一枚の書状を円卓の上に置いた。
皇帝の隣に座す、この場では最年長である宮内大臣カロン公爵が、白い顎ひげを撫でながら目をすがめて書状を読む。
「ふむ……これはラドニアにおける、帝国軍の進軍経路についての詳細に読めますな」
「この署名! 大司教猊下の御名ではないですか!?」
皇帝を挟み宮内大臣の反対側に座る、グリーデン侯爵の一言に室内がざわつく。
そこで初めてレスカーの余裕の表情が崩れた。驚きに目を見張った後、レスカーは半笑いを浮かべる。
「ご冗談を……見せていただけますか?」
数人の手により回されてきた書状に目を通した瞬間、レスカーの目が鋭く細められた。
先に書状を目にした、法務大臣シュクラ侯爵とノア伯爵がささやき合う。
「あの筆跡見覚えが……」
「確かに一見した所、猊下の直筆とよく似ている」
二人がうろんげな視線を大司教に向ける。
不穏な空気に支配されつつある中、まじまじと手の中にある紙を見つめていたレスカーが、やがて鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しいっ!」
「猊下……!」
持っていた書状を円卓に叩きつけ、声を荒げる大司教に、その弟でありデ・ヴェクスタ家当主である宗教大臣が顔をしかめる。
「確かに私の筆跡とよく似せています。ですがね、この『紙』はあり得ませんよ」
わざとらしく掲げた書状を、レスカーはひらひらと顔の前で振る。
「ラドニア紛争の前年、夏に長雨が続いたことを皆様方は覚えていますか?」
その言葉にある程度年かさの者たちが、思い出したかのように相槌を打つ。
「あの当時、我が国でも飢饉となり餓死者が出た地域もあった。若い方も話を聞いたことくらいあるでしょう? そして不作となったのは食料だけではない。……例えば亜麻もそうだ」
亜麻から作られる物として布や油が知られているが、ルスキエでは紙の原材料としても需要がある。
「亜麻が不作だったせいで、紛争時には良質な紙も不足していた。当時羊皮紙を代用していた方も多いのではないですか? 長く保持すべき記録などならまだしも、書簡に当時貴重だった紙を使用するとは思えませんね。ましてこの紙――うまく古い物のように加工されていますが、それでも表面が大変滑らかな上質な物です。例えば……宮廷の御用工房で作られている物に匹敵するのではないですか?」
レスカーが皮肉めいた笑みを浮かべる。
「だが、筆跡が――」と、誰かが言いかけた言葉を遮るように熱弁は続く。
「筆跡など真似する気になれば、それほど難しいものではありません。私の身内にも人物像から他人の文字まで、写し取ったように描写するのが得意な者がおりますよ。――ああ、そういえば陛下、イヴリーズ殿下は正宮殿でお過ごしのようですが、ご息災でしょうか?」
あからさまな当て擦りにも、ディオスは表情一つ動かさなかった。
「一体この書状が、どのような経緯で陛下のお手元にあるのか、世俗の事情に疎い私には想像もつきません。しかし万が一、何者かが私を陥れたかったのなら、羊皮紙か木簡を用意すべきでしたね」
大道芸人のような大仰な手ぶりと共に、レスカーは弁舌を終えた。誰もがその勢いに唖然とし、反論することができなかった。
しかしディオスは平然とした様子でうなずいた。
「――大司教殿、本題へ入る前に懇切丁寧な解説感謝する」
「……は?」
「コレル男爵」
眉根を寄せるレスカーを無視して、ディオスはコレル男爵に視線を送る。男爵が卓上に置いたのは、半分炭化した木片だった。
「先ほどの大司教殿の『解説』を元に聞いて欲しい。これは過日、守衛騎士団によって貧民窟で捕縛された、人身売買組織の幹部が持っていた物だ」
ディオスが親指くらいの大きさの木片を、皆に見せるように眼前に掲げる。
「その男は二十年前、アトス共和国の執政官の元で私兵として雇われていたそうだ。そしてラドニア紛争の最中、雇い主が進軍経路が記された木簡を暖炉にくべた際に、これをくすねたと供述した。……いざとなれば、脅迫する材料になるとでもなると考えたのだろう」
木片の表面は焼け焦げて黒ずんでいるものの、かすかに文字が見えた。近くにいた宮内大臣や内務大臣がそれを見て息を呑む。
「これは――!」
「数奇な運命と言うべきか……いくつもの偶然が重なった結果だ。これが紙の書状であれば、人の手に渡る前に燃え尽きていただろう。その傭兵崩れの男が二十年間、いつ役に立つともわからない木片を持ち続ける、周到な人間であったこともだ」
ディオスは木片を卓上に置くと、指で弾き滑らせた。
それはこの数時間、一言も発しなかった一人の男の目の前で止まる。
「貴殿らには、私情に駆られることを先に詫びておく」
ディオスは円卓に座る全員を見渡し、前置きした上で言った。
「――そなたの署名だ。心の底から残念だ、従兄弟殿」
ディオスの母方の従兄弟にして、皇妃イゼルダの実兄。そして、かつてランディス皇子の後見人であった男――レブラッド公爵ダリウスは短く嘆息した後、かすれた笑いをこぼした。