133、兄弟喧嘩1
「何ですか、今の音?」
「……ちょっと待って」
後ろにいるミリエルには見せぬよう、カレンはドアの隙間からもう一度、中の様子をうかがう。
ロウラントが上半身を起こしかけたところを、大股で歩み寄ってきたグリスウェンがその胸ぐらをつかみ上げ、間髪入れず顔に拳を叩き込む。部屋の奥では優雅に椅子に座り、お菓子をつまむイヴリーズが、冷めた眼差しで二人の様子を眺めていた。
(何コレ……)
その光景に、カレンの思考がしばらく停止する。
「よくも騙してくれたな……!」
地を這うような怒気を孕んだ声は、カレンも一度聞いたことがある。普段の陽気で温厚な振る舞いとの落差が恐ろしい。据わった目つきで、機械的に拳を振り続けるグリスウェンの姿は悪鬼の様だった。
一方、ひたすら殴られ続けていたロウラントが、一瞬の隙をついて頭をのけぞらせると、グリスウェンの額に渾身の頭突きを見舞う。そのまま流れるような動作で立ち上がり、脳を揺さぶられるよろめくグリスウェンの鳩尾に、回し蹴りを喰らわせた。
形勢を逆転させたロウラントは肩で息をしながら、床で腹を抑えてうめくグリスウェンへ見下ろす。
「お前こそ、人の苦労も知らないで墓穴掘りやがって! どう血迷えば、この世で一番面倒な女に手を出すことになるんだよ!?」
「大きなお世話だ、クズ野郎!!」
「ああ!?」
鼻血を拭いながら意味のわからぬことを叫ぶロウラントを、頭からダラダラ血を流すグリスウェンが罵倒する。
カレンは目も当てられなくなり、そっと視線をそらした。
「ちょっと! 今のお兄様方の声ですよね!?」
中の状況が見えず、後ろからミリエルが叫んでいる。カレンはドアの隙間から身を滑らせるようにさっと中に入ると、すぐに鍵をかけた。
「何で閉めるのですか!?」
「……うん、何て言うか……ちょっと」
ミリエルがドア越しに叫んでいるが、妹にこの暴力沙汰は絶対に見せられない。
この部屋で何があったかは、聞かなくても大体わかる。今思えば、これまでの兄弟姉妹間のすれ違いなど可愛いものだった。我を忘れて壮絶な乱闘を繰り広げる、己の従者と兄の姿にカレンは頭を抱えた。
罵りながら殴り合いを続ける二人を横目で見つつ、カレンは壁伝いにこそこそと移動する。
「あら、カレンも来たのね?」
二週間ほど顔を合わせていなかったというのに、まるで昨日会ったばかりのような気軽さで、イヴリーズが声をかけてきた。
「姉上、体調は大丈夫なの?」
「驚いたのと呆れたので、それどころじゃなかったわ」
ドアからは死角になっていたが、テーブルの側で背中を丸めて横たわる人物を見つけ、カレンはぎょっとする。
「え、ユール兄上!?」
低くうめいているので、ユイルヴェルトが生きていることに、ひとまず胸を撫で下ろす。
「お菓子あるわよ。食べる?」
弟が倒れ込む傍らで、イヴリーズは呑気にクッキーの乗った皿を押しやる。
「食べるけど、あの姉上……ユール兄上が……あと、ケンカ止めようよ」
「ユールは自業自得だからいいのよ。スウェンとランには一応声をかけたけど、全然人の話を聞いてないから、もう諦めたわ」
肩をすくめる横顔には、まったく焦りはなかった。
「滅茶苦茶やっているように見えるけど、あれでも最低限の超えてはいけない一線は弁えてるみたいだから、心配いらないわよ」
「最低限?」
「武器は使ってないし、急所は狙ってないでしょ?」
「ああ……なるほど」
あれでも理性を残していることに、カレンは半ば感心する。
(姉上でダメなら、私も無理だよね……)
自分が止めてもどうせ無駄だろうと、カレンもあっさり諦める。本音を言えば、あんな猛獣同士の頂上決戦のようなものに巻き込まれたくない。
「それでね、姉上。ミリーが怪我してるんだけど……」
「今度は何したのよ?」
うろんげな視線を向けられ、カレンははっと思い出す。腹を刺され、イヴリーズに窮地を救ってもらったのが、もうずいぶん昔のことのようだ。
「そうだった姉上! その節はありがとう」
「ありがとう、じゃないわよ。こっちはどれほど肝が冷えたと思ってるの!」
「……ごめんなさい」
カレンは素直に頭を下げる。おそらくイヴリーズにも相当負担を掛けたはずだ。身重の体であるのに、申し訳ないことをしてしまった。
「あと、今回のミリーは事件じゃなくて、自分の簪でわざと手を突いたの。二人で選帝会議に押しかけて、ミリーは皇位継承権を放棄して、私に皇族の血を証明させてくれたの」
ざっくりとした説明だったが、イヴリーズはすべて解したらしい。渋い顔で額を抑える。
「……仕方ない子たちね。ミリーにこの騒ぎを見せるわけにいかないから、私が行くわ。今ドアの外にいるのよね? カレンは念のため、あの二人を見張ってて」
まったくもう、とブツブツ文句を言いながら、席を立つイヴリーズを見送り、カレンは派手に殴り合いを続ける二人に目を向ける。
こうなるだろうなとは、薄々感じていた。
互いに十年に及ぶ募る想いがあり、相手のそれを裏切る行為をしたのだ。手に手を取り合って感動の再会を喜び合う光景など、楽観的なカレンでもまずないだろうとは思っていた。思っていたが――。
「……ここまで普通やる?」