127、狂乱の女王のアリア
――『狂乱の女王の独唱』
帝都レギアでも人気の歌劇の中で、最高潮の見せ場で歌われる、悪の女王の独唱だ。
若くして一国の主となった女王は、臣下の裏切りで国を追われる。彼女は怒りと絶望の中で復讐を誓う。泥水をすすって命を繋ぎ、奴隷に身を落とし、有力な男たちを篭絡してのし上がっていく。
いくつもの戦いを生き抜いた女王は、かつて愛しあった主人公が将軍として守護する都の前に、大軍を率いて現れる。国を追われた哀れな少女は純粋さを激情に、聡明さを冷徹に変え、愛した恋人と故郷を攻め落とすため、悪の女王として舞い戻る。
朝靄にけぶる湖を想わせる穏やかな旋律を、古代語の歌詞で丁寧に紡ぐように歌い出す。
――どうかどうか、安らかに
喪われし者たちはやがてとこしえの安らぎへと還るでしょう
女神よ、慈母よ、傷つきし魂をその腕に導きたまえ
世の儚さ虚しさを憂い、過去に、そしてこれから喪われる命を悼む詩。鎮魂の聖句のように、あるいは母の子守歌のように、哀しみに慈愛をにじませて丁寧に歌いあげる。
最初は呆気に取られていた人々が、いつしか歌の世界観に引き込まれ始める。カレンはその様子を、視界の端で冷静に確認する。
穏やかだった旋律は突如、落雷を思わせるピアノの重音と共に激変する。激しい曲調に、荒れ狂う波を思わせる高低差。顫音多用するこの曲は、職業歌手でも難曲とされている。
皇女の嗜みとして声楽を学べたおかげで、元の癖は大分修正できるようになったが、それでも今の自分の声量や技量では、完璧に歌い切ることはできないとカレンもわかっていた。そもそも歌の内容が暗く陰惨過ぎて、気軽な音楽会で披露するような曲ではない。それでもこれでなければと思った。
生まれ育った故郷を、無辜の民ごと焼き払おうとした狂乱の女王。
今ならわかる。故郷に凱旋者ではなく、侵略者として舞い戻った彼女の気持ちが。女王が本当に復讐したかったのは、国や臣下ではない。自分を純粋無垢な少女のままでいさせてくれなかった『世界』だ。
圧倒される聴衆を睨むように、カレンは腹の底から湧き上がる奔流に身を任せるままに歌う。その意図があったわけではないが、深紅のドレスを選んでよかった。流血と炎の女王を演出するのに、これほどふさわしい衣装はない。
――我が戦士たちよ、時は来たり! 殺せ、奪え、踏みにじれ!
裏切者よ、その身に焼き付けるがいい、我が怒りと絶望の炎を!
贖いは流血だけと知るがいい!
ずっとずっと、悔しくてたまらなかった。
愛情深く誇り高い姉と兄は、大切な家族と互いの存在を守るため、陰謀に手を染めた。強く優しい妹は幼くして母を奪われ、その罪を贖うために己の自我を殺し、重い責務を負う道を選んだ。カレンを娘のように慈しんでくれた先生は、愛した人と無理やり引き離され運命を歪められた。そして不遜で強情だが誰よりも頼れる従者は、自ら卑怯者の汚名を被り、陰ながら大切な人を守るため一人で奮闘してきた。
こんな世界に生まれなければ――例えばカレンの『元の世界』のような場所に生まれていれば、彼らは少し変わった、でも普通の人間として生きられただろう。愛情をただひた向きに大切な人に向け、騒がしくとも、平穏な日々を過ごせたはずだ。
濁った水に適応できなければ、死んでしまう魚のように、歪んだ世界の中では、自分もまた歪まなければ生き残れなかった。優しい人が優しいままでいることを許さなかった世界が、憎たらしくてならなかった。
ずっと腹の底にあった気持ちを声に乗せて開放する。
――我はすべてを取り戻し、すべてを打ち砕く!
今ここに清浄なる世界は訪れる! 称えるがいい! 我は女王にして破壊者、そして創造主!!
絶叫の如き高音域に、大広間の空気が震えた。
肌が痺れるような余韻の中で、カレンは荒く息をつきそうになるのを堪え、周囲をゆっくりと睥睨する。誰もが言葉を発さず、血の気の引いた顔で視線を伏せている。だが言わんとしていることは伝わったようだ。
それさえ確認できれば、カレンにはもうこの場に用はなかった。シレナへと向き直り、にっこりと笑う。
「ありがとう、シレナ様」
「……お供に預かり光栄に存じます、皇女殿下」
カレンが好き勝手に即興の抑揚や間を入れるので、ひどく神経を使ったはずだ。シレナは疲弊したように力のない笑みを返す。
カレンはすっと顎を上げ、改めて観衆を見渡すと悠然と笑う。そして音を立てる勢いで深紅のドレスをひるがえし、堂々たる足取りでその場を後にした。