126、攻勢のカレンディア
(……顔、上げなきゃ)
ここで屈しては、ロウラントに申し訳が立たない。そう思ったとき、カレンの震える二の腕に何かが触れた。絹の手袋に包まれた、細い指先の感触に顔を上げると、そこにいたのはフィンシャー男爵夫人シレナだった。
「カレンディア殿下、ご気分は大丈夫ですか?」
シレナはこわばった笑顔を向け、カレンを支えるように壁際へと促す。
「貧血のようですわね。私も殿下くらいの年頃には悩まされました」
ただでさえ内気なシレナは、きっとこういう振る舞いに慣れていないのだろう。緊張に震える声を張って、わざと周囲に聞こえるように言う。若い娘にありがちな体調不良という形で、カレンをその場から助けてくれたのだ。
「シレナ様……」
「もう大丈夫ですわ。さあ、ゆっくりお進みください」
腕に触れる手袋越しのぬくもりに、堪えていたもの溢れるように瞳に涙がにじむ。
「殿下、よろしければこちらでお休みください」
静かな場所に行きつくと、一人の青年が椅子を運んできてカレンに勧めてくれた。騎士団でグリスウェンを訪ねた時に見た顔だ。
椅子に座ると、まだ小刻みに震える手を握るように老婦人が膝をついた。
「まあまあ、お可哀想にこんなに手が冷えて」
「ねえ、誰か暖かい飲み物をお持ちして」
婦人たちがあれよあれよと集まってきて、肩にショールを掛けたり、暖かいお茶を勧めたり、カレンの世話を焼いてくれる。周囲の視線から守るように、背の高い男性たちがカレンの前にさりげなく立つ。そこには知っている顔も、知らない顔もあった。
(……私、全然見えてなかった)
向けられる悪意にばかり気を取られ、この優しく勇気ある人々の存在に気づかぬところだった。数多ある美しい物から目を背け、人の粗や失態にばかり囚われているようでは、自分を攻撃する人々と同じだ。不甲斐なさを痛感し、カレンはうなだれる。
「あ、あの――」
愛らしい声に顔を上げれば、ミリエルよりも幼いくらいの十二、三歳くらいの少女たちがいた。まだ宮廷に上がって間もない娘たちなのだろう。ふっくらとした頬の、童女のような一人が緊張した面持ちで、必死に言葉を紡ごうとしているのがわかった。
「……わ、わたくしたちはカレンディア皇女殿下を尊敬申し上げております」
一緒にいた少女の友人たちも、同意するように懸命にうなずく。
この状況でそのたどたどしい一言を伝えるために、彼女たちがどれほどの勇気を振り絞ったかを想像し、カレンは胸を詰まらせる。目頭に込み上げる物を堪え、少女たちにとっておきの笑顔を向ける。
「……ありがとう。私もあなたたちのような、可愛くて勇敢な女の子が大好きよ」
その言葉に少女たちが顔を真っ赤にして手を取り合い、黄色い悲鳴を上げる。年上の婦人に、「皇女殿下の御前ですよ、静かになさい!」と叱責され、しゅんと縮こまる少女たちにカレンは苦笑して首を振る。
「いいんです。もうだいぶ落ち着きました。皆さんも……ありがとうございます」
辺りを見渡して言うと、近くに立っていた髭を貯えた男性が笑う。
「娘か妹くらいの若い女性がお困りなら、当然のことです。どうかお気遣いなさらないでください」
その言葉に、周囲の人々も「そうですよ」と、何ということもないように相槌を打つ。カレンはドレスの胸元をぎゅっと掴む。
この歪んだ宮廷にも、ごく当たり前でいて、そして強く優しい人々はたくさんいる。その姿に自分の中に再び火が灯るのを感じ始める。
この場にはこびる悪意にもう囚われるつもりはない。だが臆する姿をさらしたまま、終わるわけにもいかなかった。皇女なら目の前にいる少女たちの標であらなければならない。そして、自分を推してくれる人々に希望を与えるのが、帝国の偶像たる皇帝になるべき人間の役割だ。
つまらないことをして、とばかりに、助けに入った人々に冷ややかな視線を向ける一団を見やりながら、カレンは傍らにいたシレナ声をかける。
「シレナ様、お願いがあるのですが……確かピアノが得意でいらっしゃいましたね?」
「得意と言えるほどでは……」
内気で会話下手なシレナだが、音楽会や茶会でその腕を乞われれば、水を得た魚のように伸びやかに演奏するのを知っていた。
「少し私に付き合ってもらえませんか?」
「それは構いませんが……何をされるのですか?」
「ぶちかましに、です。シレナ様」
「……え?」
貴婦人であるシレナが到底聞いたこともない言葉で答え、カレンは優雅に微笑んだ。
音楽会という建前はすっかり忘れられているのか、広間の片隅にぽつんとピアノが置かれていた。力任せに鍵盤に両の指を叩きつけると、耳をつんざくような音が響いた。
その轟音に、辺りの人々は顔をしかめピアノの方を睨むが、無表情でたたずむ皇女の姿を見るや、気まずそうに視線を逸らす。
カレンは打って変わっていつもの朗らかな表情を作り、人々へ微笑みかける。
「嫌だわ……何か皆様にご披露をと思ったのに、わたくしピアノが弾けないことを今思い出しました」
一瞬の沈黙の後、白々しい笑いが周囲を包む。
「ま、まあ皇女殿下ったら……」
「ほほ、面白いご冗談を」
カレンの内から立ち上る剣呑な空気は隠しきれていないのか、人々の表情は硬い。
「皇女殿下、久方ぶりにお歌でも披露いただけませんか?」
「そ、そうですわ。今日は音楽会ですもの」
沈黙に耐え切れなくなった貴婦人たちが、愛想笑いを浮かべながらカレンに勧める。
「あら、そう?」
カレンが涼やかな表情で小首を傾げると、打ち合わせ通りにシレナが何食わぬ顔で進み出た。
「カレンディア殿下。よろしければ、わたくしが伴奏をいたします」
「そうね。せっかくの機会ですもの。ぜひお願いするわ」
シレナがピアノの前に座ると、カレンはその横に立ち高らかと告げる。
「――では、ギルデールの『狂乱の女王の独唱』を」
その曲名に周囲がざわめく。
腹の前で手を組んだカレンが、聴衆に向き直った。シレナの指が鍵盤上を滑るように動き、序奏が奏でられる。