125、狩場の獲物
正宮殿の大広間に足を踏み入れると、思った以上の人だかりに、カレンは呆気にとられる。有志による演奏や歌唱など、気軽な音楽会が催されていると聞いたが、ピアノの周りに集まっているのはほんの一部だけだ。ほとんどの人間はあちらこちらで、知己を見つけては挨拶を交わし、お茶やお菓子をつまみながら会話を楽しんでいる。彼らの目的もまたカレンと同じだった。
カレンは選定会議当日の朝を、ほとんど寝つけぬまま迎えた。半年以上も前からこの日が来ることは覚悟していた。しかし選帝会議当日だというのに、頼りにできるロウラントとフレイは側にいない。結局二人は行方知れずだ。
そして自分以外の皇太子候補者が、ほとんどその体を成さないなど、予想できるはずもなかった。三人の皇子皇女の処断はまだ下されていない。今日まで何の動きもなかったと言うことは、選帝会議の中で議論される可能性が高いだろう。
皇太子決定に関し、意思表示ができるのは国内の爵位持ちの貴族と、成人年齢に達しているその後継者、さらに高位聖職者や一部の有力者だ。
彼らは昨日の朝から今日の午前中までに、次代皇帝にふさわしいと思う、皇太子候補の名を記した書状を携えて登城している。これは選挙制ではなく、あくまで誰がどの皇子皇女を支持するかを表明するための物だ。
これらを参考に、七家門の当主や大司教らに構成される枢密院と、皇帝により選帝会議が正午より始まっている。
貴族の意思表示も枢密院の意見も、皇帝の一存で覆すことは理屈上可能だが、貴族の意向を無視した皇太子を立てれば、諍いを産むのはわかり切っている。選帝会議での結論が宮廷としての意向であり、皇帝の下知はほぼ形式的な物だ。早ければ当日の夕刻に、遅くても二、三日以内に皇太子となる者の名が発表されるはずだ。
ここ最近、宮廷では様々な噂や憶測が飛び交っている。襲撃事件への関与が疑われていたミリエルは数日前に、正式に嫌疑が晴れたと発表されていた。そのミリエルが急激に支持を集めているだの、選帝期間が延長されるだの、根拠のない噂話ばかりだ。そうかと思えば気の早い者たちが、カレンの姿を見かけ祝辞を述べてくる。さすがにカレンもわずらわしさに辟易し、ここ数日は正宮殿の付近には近づいていなかった。
昨日から帝国中の貴族が一堂に会する機会とあって、正宮殿の大広間や応接の間では、様々な催しが開かれている。それらに興味はないが、正宮殿にいれば選帝会議についての速報が入ってくるかもしれない。今更結果は変わらないが、自分の離邸でただ呆けて、その時を待つ気分にはならなかった。
人目を引く、深紅のドレスをまとったカレンは、すぐに様々な人から声をかけられた。朝の挨拶に訪れた女官に、今日の装いについて相談され、カレンはすぐにこのドレスを選んだ。肩とデコルテを広く見せるシンプルな胸元。大輪の薔薇を模したドレープが目を引くが、それ以外の装飾がほとんどない潔いデザインが気に入っていた。――最後は小細工抜きで、堂々と在りたい。そんな心境にも合っていると思った。
遠くの方にトランドン家の親族に付き添われた、ミリエルの姿を見つけた。ミリエルもカレンと同じく、自分の離宮でその瞬間を待つつもりはなかったらしい。カレンは周囲の人々との会話を切り上げ妹の元へ向かう。
ふと少女たちの声が耳に留まった。
「――ねえ、グリスウェン殿下は処刑されるって本当?」
「もうあの方を『殿下』とは、お呼びできないのではなくて?」
「どうかしら? 実の姉弟で通じた罪から、逃れるための嘘かもしれないわよ」
聞き捨てならない内容に、カレンは思わず足を止める。こちらに背を向けて、おしゃべりに夢中になっている令嬢たちの声だ。
眦を釣り上げて一団を見つめる皇女の姿に、周囲の人々がさっと距離を取る。令嬢の一人が辺りの異変に振り向くと、さっと顔色を変えて友人たちに耳打ちした。
カレンの存在にようやく気づいた少女たちは、小動物群れのように身を寄せ合い、青ざめた顔を扇の影に伏せたまま押し黙る。カレンはその様子を一瞥すると、無言のままスカートをひるがえし、場に背を向けた。
歩きながらよくよく耳をすませれば、あらゆる所からイヴリーズやグリスウェンなど、よく見知った人々の名前が聞こえてくる。あの令嬢たちなど氷山の一角でしかなかった。皇女と皇子の処遇、皇妃たちの確執、人の生死が関わっているというのに、それを娯楽の種に笑い合う人々。カレンは悔しさに歯噛みする。
そういう人がいることを、今まで知らなかったわけではない。バッシングもプライバシーの侵害も有名税だろうと、うそぶく人間は『元の世界』にも少なくなかった。彼らが画面の向こう側にいる人間に、血が通っていることを忘れてしまうように、違う階級の者を同じ人間と見なせない人々が、この世界にもたくさんいる。
その無理解は、下級身分の者だけに向けられるとは限らない。身分によって課せられた義務や不自由な立場から目をそらし、数多の特権を享受し、贅沢を貪っていると決めつける。そういった不満は、相手が手傷を負ったとわかった瞬間、死肉を狙う獣のように、ここぞとばかりに噴出する。
つい数か月前までは、イヴリーズに取り入ろうとしていた青年貴族や、グリスウェンに執心していた令嬢たちが、嘲笑を浮かべ彼らへの侮蔑の言葉吐き捨てる。そのあまりにも醜い言葉に歩くことができなくなり、辺りの光景がぐらりと傾ぐ。
確かにあの二人は、皇太子候補としてあるまじき失態を犯した。だからといって尊厳まで踏みにじられなければいけないのだろうか。腹の底に熱いものが堕ちて渦巻くのを感じる。
うつむき震えながら立ち尽くす皇女の姿に、誰も声をかけなかった。
(……私も狙われてるんだ)
ここは宮廷という名の狩場で、今の自分は獲物だ。皇女が心無い言葉に取り乱し激高するか、もしくは泣き出す姿を待っているのだ。そしてその姿はまた、彼らに娯楽を提供するのだろう。
今一人きりであることをまざまざと思い知らされる。
(ロウがここにいたら、何ていうかな……)
彼が側にいたなら、絶対に甘い言葉で慰めたりなどしない。こんなことで動揺するな、無理やりにでも背筋を伸ばして笑えと叱咤しただろう。
今考えれば、この宮廷の恐ろしさを誰よりもよく知るからこそ、ロウラントはいつも厳しかった。自分が悪役になってでも、カレンを守ろうとする断固たる意志。その存在にどれほど救われてきたか、今更思い知らされる。