123、母になった日のこと
女官たちから少し距離を取り、カレンはイゼルダの後をついて薔薇園の中を歩く。
「多分色々聞きたいと思うけれど、ランディスや他の殿下方のことは口止めされているの。ごめんなさいね」
「いいえ、仕方のないことです」
答えながらもカレンは考える。皇妃であるイゼルダに命じられるのは皇帝しかいない。やはりロウラントも皇帝の監視下にあるのだろう。
「――愛には色々な形があるわ。色も形もたくさんの種類がある、薔薇に例えるなんて詩的ね」
ベルディ―タの凶行もまた、皇帝に対する愛の形ということだろうか。カレンとしてはそんな物を、自分の周りの人々が身を投げ打って、大切な人に捧げた物と同一視したくはない。
「愛は美しいわ……そして残酷よ。捧げた人と、それ以外をはっきりと線引きするんですもの。――わたくしがそれに気づいたのは、ランディスを育てるようになってからよ。あの子があなたの本当の兄でないことは、もう聞いたかしら?」
『育てるようなった』という言い回しに、カレンは違和感を覚える。自分が産んだ子供ではないということだろうか。
「私、母君はてっきりイゼルダ様だと――」
ロウラントはカレンの兄ではない。けれども、彼が皇族の血を継いでいることも間違いない。例えばルテアと同様イゼルダが他の皇族――特例として修道院送りを免れた、二代前辺りの皇帝の兄弟と通じてできた子か、もしくはイゼルダ自身がそうして産まれた子供かと思っていた。
イゼルダはカレンの考えを呼んだのか苦笑する。
「わたくしは間違いなくランディスの母親よ。でも確かに産んではいないわ」
「す、すみません……」
「いいのよ。元々わたくしは若い頃の大病が原因で、子供を産める可能性は低いと言われていたの。陛下はそれでもいいから自分を支えてほしいって、わたくしを皇妃にしたのよ。陛下の母君はわたくしの叔母で、わたくしたちは従兄妹なの。腐れ縁のわたくしは、気軽に側に置くのにちょうど良かったのね。わたくしも適当な年寄りに嫁がされるよりは、ずっとマシと思ってお受けしたわ」
「それは……陛下のことは、男性として興味がなかったということでしょうか?」
イゼルダはふくれっ面で、鼻に皺を寄せる。
「だってあの方、昔はすっごくワガママで偉そうだったのよ! しかも皇太子の座が十四歳で確定したから、若い頃からやりたい放題。女性関係も派手だったんだから」
「は、はあ……」
あの厳格そうな父親のそんな話を聞かされて、カレンはどんな顔をしていいかわからない。
「そんなわけで、陛下は絶対皇妃をたくさん持つのはわかっていたわ。子供はその人たちに産んでもらえばいいから、むしろ気楽って思ってたの……」
しかしイゼルダは表情を曇らせた。
「セシリア皇妃をお迎えして、すぐにイヴリーズ殿下が産まれたわ。あの身勝手な陛下がちゃんと父親の顔になるんだもの、びっくりしたわ。……そして寂しくなったわ。陛下とは子供の頃からの腐れ縁なのに、見知らぬ一面を見てしまったら、わたくしだけ置いて行かれてしまった気がしたの……」
他の皇妃や子供でなく、成長していく皇帝に。それもまた『嫉妬』だ。
「でも幸か不幸か、その後すぐに忙しくなってそんな感情は忘れていたわ。先代皇帝陛下が急に崩御されたり、陛下がラドニア紛争で人質にされたり……。今思えば、あれはいい感じに陛下の鼻っ柱を折ってくれたわね」
イゼルダはふふっといたずらっぽく笑う。自分の夫である皇帝が、他国の人質となるなど、相当の気苦労を背負ったはずだが、彼女はそんなことは微塵も感じさせない。
「その辺りの問題が落ち着いた頃、わたくしは陛下から、ある地方都市の城に同行するように言われたの。二ヶ月くらい軟禁されて意味が分からなかったけど、その後また別の城に連れて行かれたわ。そこにいたのは一人の若い女性とその人が産んだ赤ちゃんで、二人は皇族の血を汲むと言われたわ」
「……その女性は継承争いに敗れた、元皇女ということですか?」
「どうかしらねえ。少なくとも当時妙齢の元皇女はいなかったはずよ。でも歴史に闇に葬られた、皇族の子など珍しくないんじゃないかしら。その辺の事情には、深入りしたくなかったから聞かなかったわ」
カレンは呆れつつも、この適当さと聡明さが、イゼルダが健全な精神を保ったまま、生き延びた秘訣なのだろうと思った。
「陛下は女性から赤ちゃんを受け取って、わたくしに手渡したわ。この子の母親になってほしいって。――もうわかるわね。それがランディスよ」
「あの、大変失礼ですが――」
カレンは首をひねり、恐る恐る言う。
「その状況からして、やっぱりランディス皇子は陛下の御子なのでは……」
「わたくしも最初それ思ったわ!」
少女のように、手をひらひら振ってイゼルダは笑った。
「てっきり陛下は愛人に産ませた子を、わたくしに押し付ける気じゃないかしらって。でもあの女性は陛下のことを、『兄さま』と呼んでいたの。恋人同士のような関係には見えなかったわ」
「では陛下の妹君……?」
確か皇帝ディオスには夭折した兄弟はいたが、姉妹はいなかったはずだ。
「それも少し思ったけど、わたくしは女性の正体よりも、赤ちゃんの存在に夢中だったわ。小さくて温かくて、ふくふくしたほっぺをしてて、信じられないくらい小さな手でわたくしの指を握るのよ。……今じゃあんな風になってしまったけれど、あの子赤ちゃんの頃は本当に可愛かったのよねえ」
「……そ、そうですか」
まあライオンとか狼も小さい頃はカワイイしなあ、とカレンは無理やり自分を納得させる。
「きっと気づかない内に、自分の気持ちに蓋をしていたのね。決して得られないと思っていた存在を手にした瞬間、胸がいっぱいになったわ。赤ちゃんの正体が陛下の落とし胤だろうが、名もなき捨て子だろうが、何だっていいって思ったわ。この子の母親になれるんだって思ったら、泣きたくなるくらい嬉しかった。――だからその時目の前にいた、あの子を手放した母親が、どんな気持ちだったのかなんて想像もしなかった」
「……どうして、その女性はランディス皇子を手放したんでしょうか」
「病だったそうよ。自分の先がそう長くないことも、出産がさらに命を縮めることも承知で産んだのだと聞いたわ」
「だったら……少しでも最後の時間を共に過ごしたいと思うものじゃないんでしょうか?」
「わたくしも最初はそこがよくわからなかったわ。何でこんなに可愛い子を手放したんだろうって、あの女性に非難の気持ちすらあったわ。……でも小さなランディスと過ごす内にわかったの。あの人は子供に母親との死別という悲しみを与えないため、自分は身を切るような覚悟で、生まれて間もない子を手放したんだって」
ロウラントの母は、自分が我が子から愛を得ることよりも、我が子がたくさんの愛を得ることを望んだのだ。己すら切り捨てて、我が子のための最善を選ぶ壮絶な決意。一見非情だが誰よりも冷静な判断ができるロウラントと、その女性は確かに通じるものがある。
「――あの子の母親が最後にどんな顔をしていたか、私はろくに見もしなかった。名前も聞かなかったし、最後にもう一度抱かせてあげたのかとか、交わした言葉の内容すら覚えてない。何の気遣いもしなかったの。……我が子への愛情を知って、自分がどんなに残酷だったかようやく思い知ったわ」
陽気なイゼルダには似合わぬ、悔恨が刻まれた面差しに、先ほどの彼女の言葉を思い出す。愛は線引きなのだと。それ以外の物を切り捨てるための標ならば、確かにこれほど残酷なことはない。