120、目覚め
――薔薇の香りだ。
母は初夏になると、庭で咲いた薔薇を出窓の花瓶に飾った。学校から帰ると、リビングで宿題をしながら、薔薇の棘を切り落とす母の手元を見ていた。揺れるカーテンから入りこむ日差しと花の香り。微睡みそうになるあの午後の光景は、カレンにとって幸せの象徴だった。
最初に目に入ったは淡いピンク色のドレスだった。こちらに背を向けた小柄な人物が、大輪の薔薇を花瓶に生けている。
(あのドレスの色……)
お茶会のとき、その辺に生えていた花を指して「ああいう色の方が似合うと思う」とカレンは言った。彼女は大人びた濃い紫や青を好むが、どちらかと言えば淡い色調の方が可愛さを引き立てる。そう言ったら、「子供っぽく見えるから嫌です」とそっぽを向かれた。
「……やっぱり……似合ってるじゃない」
その声にミリエルが振り向いた
「カレンお姉様……」
「だから……私言ったよね。……そういう方がカワイイって」
声がかすれてガラガラだった。まともに歌えるようになるまで時間かかりそうだ。
「まったく……他に言うことはないのですか?」
ミリエルの声は震えていた。
「だって……大切なことは早く言いたいじゃない」
「大変な目に会ったというのに、相変わらずのようですね、カレンお姉様」
その言葉にカレンは少し安心する。
「またお姉様って呼んでくれるんだ」
「ただの習慣と言うか、便宜上呼ばざるを得ないだけです」
「それでもいい。……ありがとう」
カレンは半身を起そうと身をよじるが、体がこわばって腕に力が入らなかった。ミリエルがカレンの背に手を添える。
「まだ無理をしないでください」
「……ミリー、お願い。少し血をちょうだい。この場で飲んで見せるから。そしたら私が本当の姉妹かわかるでしょう?」
はっとしたミリエルが眉尻を下げた。少し考え込むようにしてから首を振る。
「嫌です。どうしてわたくしが痛い思いをしなければいけないのですか」
「……それもそうだね」
「はい、そんな真似は必要ありません」
ミリエルがきっぱりと答える。
二人の間に沈黙が落ちる。くすぐったくはあるが、気まずくはなかった。
「……ここは正宮殿?」
見慣れぬ壁紙や調度品を見渡しながら尋ねると、ミリエルが頷く。
「そうですよ。しばらくこちらで療養するようにと、お父様が言っていました。お姉様の侍女もこちらに呼んであります」
フレイのことだ。人の出入りが多い、正宮殿にはあまり足を踏み入れたくはなかっただろう。悪いことをした。
「わたくしは医官を呼んできます。……どうぞ無理はせず、ゆっくりご自愛ください」
「ミリー、もう帰っちゃうの?」
「ええ。これでもいろいろ忙しい身なので」
そういえば選帝会議まで日がなかったことを思い出す。
「私何日くらい寝てたの?」
「丸二日近く……お姉様が刺されたのは一昨日の夜です」
カレンは刺されたはずの脇腹に触れる。少し皮膚が痺れるような感覚はあるが、痛みはない。
「イヴ姉上が治してくれたんだね……」
「そうでなければ、今ここにいませんよ。本当に悪運が強くていらっしゃいますね」
ミリエルが肩をすくめ、ドアへと向かう
「では……ご機嫌よう、お姉様」
「うん。ありがとう、ミリー」
ドアが閉まり一人きりになると、カレンはベッドの上で膝を抱えて顔を埋める。
自分を刺したのは第六皇妃ベルディ―タだった。なぜあのタイミングで、他の兄弟姉妹はなく自分が標的になったのかはわからないが、彼女はディオス皇帝の子供たちを憎んでいた。その本心がすべて明かされることはないのだろう。カレンは意識を失う寸前、彼女が絶命する所を見ている。
ベルディ―タの凶行を止めたのはロウラントだった。ベルディ―タの背にナイフを投擲し、とどめに首筋を掻き切った後、その体を冷ややかに睥睨する彼は、まるで別の人間の様だった。
彼の剣は見かけ倒しではない。いざとなればロウラントが他者の命を摘むことを、ためらわない側の人間だということはわかっていた。わかっていたが――。
(怖かったとか……情けな……)
あの時、体の自由が効けば悲鳴を上げていたかもしれない。自分の覚悟の甘さにカレンは自己嫌悪に陥る。恐怖していることを、ロウラントに悟られたかもしれない。意識が朦朧としていたので自制できた自信がない。助けた相手に怖がられたのでは、ロウラントが気の毒過ぎる。
その上、直前には彼に手を上げてしまった。
(ロウは何も悪くなかったのに……)
ロウラントはあの誰も想定していない最悪の状況下で、可能な限りの最善の道を探っていた。イヴリーズとグリスウェンを救い、カレンの立場を損なわないための。
たとえ忠誠を誓った臣下とはいえ、彼の心の内にある優先順位は、カレンの口が出せることではない。ましてその先頭にいるカレンがその場に胡坐をかきながら、ロウラントを批判するなど、おこがましいにもほどがある。
そういえばミリエルはロウラントのことを何も言わなかった。イヴリーズやグリスウェンのこともだ。カレンに尋ねられれば、嘘をつくわけにはいかない。賢明で、そして優しい妹のことだ、それを避けるためにさっさと部屋を去ったのだろう。
カレンを刺したとはいえ、皇妃を堂々と手に掛けたロウラントは、お咎めなしとはいかないはずだ。彼の表向きの立場は皇女の従者、一介の騎士にしか過ぎない。今は皇帝である父の監視下に置かれているだろう。
恐らくロウラントは、イヴリーズたちを密かに宮廷から連れ出すことも算段していたはずだ。しかし、その線もこれで潰えた。二人にどんな処分が下されるかはわからないが、皇位継承権の剥奪は免れないだろう。
特にグリスウェンの方は皇帝の子でなかったばかりか、皇女と密通していたのだ。状況を考えれば、命を守れれば御の字だ。考えたくはないが、二人の子供を助けるにはもう遅いかもしれない。
(これで終わり……私にできることはもうないの……?)
頭を抱えていると、ふいにドアがノックされた。ミリエルが呼んだ医官かと思い、声をかけると、顔を出したのはフレイだった。目の下に大きく隈を作った、憔悴しきった顔にカレンは罪悪感を覚える。
「……カレン様っ」
フレイはおぼつかない足取りで、カレンのベッドに歩み寄るとその両手を握り、跪く。
「よかった……あなたを失ったら、私は――」
「ごめんね、ごめんね……心配かけて」
フレイからすれば血の繋がった我が子と、我が子同然の子の命の危機だ。どれほどこの二日間心を痛めたことだろう。
「カレン様が謝ることではありません。あなたは巻き込まれただけではないですか」
「違うの! 私はあの人が、皇帝の子供を憎んでいることに気づいていた。……もっと私が警戒するべきだった」
例えば馬上槍試合大会の日に盗み聞いた、ベルディ―タとイゼルダの会話について、ロウラントに相談しておけば結果は違ったはずだ。
少なくともロウラントを危機に追い込み、フレイを絶望させた原因は自分にある。そしてロウラントが自由の身であれば、イヴリーズたちを救う手立ても講じられただろう。
自分の愚かしい判断ミスに、腹の底が怒りが込み上げてくる。
「情けないね……私は皆に助けてもらってばっかりなのに、足引っ張って――本当、悔しいよっ……」
「カレン様……」
カレンの両手を包むフレイの手の力が強くなる。その温かさに泣きたくなるが、唇を噛み締めて堪えた。