118、諜報機関2
「エスラム、ディラーン商会はどこまでこの件を把握していたのだ?」
『ディラーン商会』はディオスがエスラムの協力を得て創設した、貿易商を隠れ蓑にした諜報組織だ。内部の裏切りにより、敵国の捕虜に身を落とすという苦い経験から、武力とも権力とも違う情報戦の重要性は身に染みてわかっていた。
まだまだ小規模ではあるが、今は帝都のみならず国内外に諜報員がいる。そして皇帝である自分と直接の連絡経路を持ち、表舞台に出ない彼らは、世間から身を隠すランディスやユイルヴェルトを預けるのに丁度良かった。
エスラムは男爵位を持つ地方領主という、宮廷では珍しくない肩書の男だ。一見控えめで落ち着いた人間に見えるが、その実は恐ろしく慎重で冷静だ。欲望渦巻くこの宮廷の色に染まらず、凡庸を貫ける、ある意味非凡な男だ。出世欲も権威欲もなく、皇帝直轄の私設組織で長に据えるのに都合がよかった。
そもそもエスラムと知り合ったのは、皇太子時代に同じ未亡人に懸想してどちらも袖にされて意気投合したという、心底どうでもいいきっかけだ。宮廷で頻繁に会話を交わす姿を見られたとしても、彼と自分との間に重大な秘密があるなど、誰も想像しないだろう。
ディオスから犯罪者が出入りする場所を探るよう、密命を受けていたエスラムは、すでにいくつかの成果を挙げていた。数か月前の帝都守衛騎士団による人身売買組織の殲滅作戦も、彼が事前に入手した情報がなければ成せなかったことだ。
「今回はある上流階級向けの阿片窟で、怪しげな男たちと取引を交わす、宮廷の内部事情に詳しい女がいるとの情報を得ていました」
阿片の密売や喫煙自体が違法なのだが、この手の店はいくら潰しても虫のようにまた湧いて出る。こういった場所は、もっと大掛かりな犯罪の温床になりやすい。そのためにあえて一部を放置して、内部調査をさせていた。
「その阿片窟を、ユイルヴェルト殿下の協力を得て探っていたところ、殿下とベルディ―タ皇妃が接触してしまいました」
「阿片窟では顔を隠す決まりでしたが、ベルディ―タ様が先に僕の正体に気づきました」
「諜報員としては失格だな。お前はその時点で後をエスラムの采配に任せ、身を引くべきだった」
「わかっています。僕がエスラム卿に父上への報告を止めたんです。その時点ではまだ、僕なら彼女を懐柔できると思っていました。その後ベルディ―タ様は、イヴ姉上に仕えていた小間使いの少女を買収し、スウェン兄上との関係を知りました。姉上が身ごもっていることを、舞踏会で大々的に告発するつもりだったんです」
「……だから高慢だと言うのだ」
ここにはいない、小賢しい知恵が回る割には足元が甘い娘へ、ディオスは苦々しくつぶやく。
「しかし阿片窟への出入りを理由に、舞踏会より先にベルディ―タを拘束しておけば事は済んだだろう。……それとも秘密の内容から、もはや私やエスラムに協力は仰げぬと考えたか? 不義の子であったグリスウェンを私が処罰するとでも?」
「いえ、それは……でも父上はルテア皇妃に特に目をかけていたので……」
気まずそうに口ごもるユイルヴェルトに、ディオスは静かに目を閉ざす。『だから陛下は言葉が足らないのです!』という、イゼルダの日頃の苦言が脳裏にこだました。
「それともお前が情けをかけたのは、兄姉だけではなかったか?」
ユイルヴェルトは、はっとしたように空色の目を見開いた後、観念した様子で言った。
「……彼女が父上の命令で処断されるのは惨すぎます。ベルディ―タ様は薬の影響で正気を失っていましたが、ときおり昔のことを思い出して泣いてたんです。『もう誰も恨みたくない』と……。姉上たちを告発などしても彼女は救われません。今回のことをやり過ごし、その後は宮廷から離れて暮らせば、心静かにこれからの人生を過ごせると思ったんです」
「やはり諜報員としては下の下だな。その判断はお前がすべきことではない。しかも情に流されるなど愚の極みだ」
肩を落とすユイルヴェルトに、ディオスはもう一つの疑問を口にする。
「お前はスウェンが実の兄でないことに、いつ気づいていた?」
「確信を得たのは、姉上の小間使いから妊娠の話を聞いたときです。……ただ以前、少し不審に思うことがありました。……夏の初め頃にイヴ姉上たちが貧民街にお忍びで行った件です。事前に情報を聞いた僕は、念のため商会の用心棒をならず者に装わせて、姉上たちが現れた日より前から貧民街に潜伏させていたんです」
ディオスはかすかに眉を寄せる。
「……その情報とやらは、ランから聞いたのか?」
「はい、ラン兄上はカレンを通じて知ったそうです。――結果的に事は起きてしまいましたが、用心棒たちは二人が無事に宮殿に帰るのを見届けるため、追跡を試みたそうです。でも二人は近くの聖堂に立ち寄り、なぜか負傷した姉上ではなく、意識を失った兄上が担ぎ込まれたと聞いて……」
ディオスもまだ細かい事情は聞いてないが、イヴリーズたちが互いに血の繋がりがないことに気づいたのは、あの事件がきっかけであったことは想像がつく。
「……大方スウェンが手当の際にイヴの血を口にし、身動きが取れなくなったのであろう」
「おそらく……。結局二人は翌日無事に宮殿に帰ったようなので、その時はさほど気に掛けませんでした。でも後々の話と照らし合わせて合点が行きました」