117、諜報機関1
ディオスがイヴリーズたちとその後のため、いくつかの打ち合わせをしていると、慌てふためく侍従が、カレンディアがベルディ―タに刺されたという知らせを告げに来た。
イヴリーズが同じ正宮殿にいたことで、すぐに『祝福』により治療に取り掛かれたこともあり、カレンディアは数時間で命の危機から脱することができた。
その後ランディスを呼び出し、イゼルダと共に宮殿から下がらせた後、暗い部屋の中で虚空を見つめながらディオスは一人考え込んでいた。夕刻から始まった舞踏会以来、今晩がおそらくディオスの人生で一番長い夜になる。やるべきことはまだ残っていた。
しばらくすると、執務室にやって来た侍従の知らせで、ディオスは宮殿の地下へと向かった。
宮廷の地下階は十月だというのに、底冷えするような寒さに包まれていた。その一室は、他の石組みがむき出しの壁とは違いクリーム色の壁紙で覆われ、調度品もいくつか置かれている。窓がないことを除けば、階上の部屋と変わりがなかった。
宮廷には様々な部屋があるが、ここはめったに使われることはない。宮殿内で貴人が亡くなった時に、遺体が置かれる部屋だ。中央には寝台が置かれていて、今は白いドレスを着せられた女が、胸の前で指を組んで横たわっていた。
「……眠っているようだ」
「女官たちがよく尽力してくれました」
応じたのは、柔和な顔立ちではあるが、人に紛れれば溶け込んだしまいそうな、これといって特徴のない男だ。コレル男爵エスラム――半年前まで無名だった男だが、今はカレンディア皇女の後見人として宮廷で知られている。
寝台に横たわるベルディ―タ皇妃は、報告によればランディスの手で首を掻き切られたはずだが、その首周りには上質そうな布がふんわりと巻かれ、ドレスの装飾のようにしか見えない。
ひさしぶりにまじまじと見た彼女は、若い頃よりも頬がこけ痩せてはいるが、昔とそう変わっていないように思えた。穏やかなに眠る姿は、少し勝気な美貌の少女のようだった。
ディオスはそっとベルディ―タの頬に触れ、後れ毛を払ってやる。
「子を流して以来、特に気にかけていたつもりだった。それがかえって、責任感の強いディータには負担だったかもしれん」
夫婦というより、兄妹のように情を向けてくれたイゼルダやルテアらとは違い、ある意味まっとうに夫としての自分を愛してくれた女だった。その情愛の行先さえ間違えなければ、あるいは彼女だけを愛してくれる男と添っていれば、女としてこの上ない幸せを手にしていたはずだ。
「どんな気の毒な事情があろうと、犯罪に手を染めるのは、本人の理性や性格の問題です。陛下が気に病まれることではございません」
エスラムが部屋の隅を振り返って、言葉を付け加える。
「――あなたもですよ、ユイルヴェルト殿下」
数年ぶりに宮殿に現れたユイルヴェルトは、椅子に座ったまま頭を抱えうつむいている。
「最初からこの方に、同情の余地などなかったのです」
「……だけど、僕なら凶行を止める機会はあった」
ユイルヴェルトが憔悴し切った様子で青白い顔を上げ、ぽつりと言った。
「彼女は僕には気を許していた。寂しい人だったんだ……父上や宮廷への柵さえなければ、聡明で情の深い人だ。せめて事を起こす前に止めてあげたかった……」
「ディータが執着していたのはお前ではない。若かりし頃の私の面影だ。お前があえて重荷を背負う必要などなかったのだ」
ユイルヴェルトは子供たちの中で、誰よりも感受性が豊かで心優しい。だからこそ、愛する母ティアヌを自害に追い詰めたのが、祖父ハイゼン伯爵だと知った時、その深い愛情は激情へと変った。母の死の真相を知った彼はディオスの前で、もはや継承権も身分もいらない、母を追い詰めた祖父に報いを受けさせる、と宣言した。
復讐を決めたユイルヴェルトの意志は固く、ディオスにも止められなかった。黙認する代わりに、誰であろうと命だけは奪ってはならぬと約束させた。そうしてユイルヴェルトはランディスの助けを得て、ハイゼン伯爵の切り札である自らの存在を殺すという形で宮廷から出奔した。彼もまた、呪われた宮廷や貴族社会に運命を歪められた、憐れな皇子だ。
ユイルヴェルトがベルディ―タに関わっていると知っていればば、手を引かせただろう。情に脆いユイルヴェルトなら、ベルディ―タと自分の立場を重ね、彼女の凶行を止めると同時に救済しようと無理をするのは明白だった。