116、二十年前の借り
声を失った二人を、ディオスは静かに見据える。
動揺も無理はない。皇子皇女にとって、継承法は運命と同義だ。その絶対的な物が崩れるなど想像もしていなかったはずだ。
「すべてを私の代で変えることはできないが、まずは皇太子になれなかった者を、皇籍から除籍するという文言については確実に削除する。これは今回のお前たちの件とは一切関係はない。私が兼ねてから考えていたことだ。その準備も密かに進めていた」
「……父上がそんなことをお考えとは、夢にも思いませんでした」
「枢密院の者や他の貴族もそう思っているだろう。私自身は唯一の皇子だったゆえ、選帝会議を受けていないからな」
歴史上でも苛烈な戦いを生き残り、皇太子に選ばれた者ほど継承法の改正を訴えている。例えばかつて、皇太子に選ばれなかった皇子は全員処刑される運命にあった。その改正を行ったのは、最も陰惨だった継承争いを生き残った皇子であり、彼が兄弟たちの死を無駄にしてはならぬと働きかけた結果だ。
何の苦労もせずに皇太子となったディオスが、あえて継承法の改正に動くなど夢にも思っていないだろう。
「貴族にとって、自分より上位である皇族が増えることに旨味は少ない。私がそんなことを考えていると知れば、確実に反対材料を揃えてくるだろう。これは私の治世だからこその好機であり、密かにことを進める必要があった。……その隙にお前たちは、ずいぶんと状況ややこしくしてくれたものだ」
ディオスの言葉に二人が気まずそうに視線を逸らす。
「……が、成り行きとはいえ、発言力の強い七家門出身の皇女が脱落するという状況は、改正を推し進める点では悪くはない。彼らとて身内への情がないわけではないからな」
「確かに……デ・ヴェクスタ家はイヴリーズの救済のためであれば、折れる可能性は高いでしょう」
グリスウェンの言葉に、イヴリーズは眉根を寄せる。
「……子供の件といい、私はデ・ヴェクスタに大きな借りを作ることになるわね」
「うまくいけば、むしろ貸しを作れるかもしれんぞ」
「どういう意味ですか?」
ディオスの言葉に、イヴリーズは不思議そうな顔をする。
「だが、その前にはっきりさせておきたい。――ミリーの従者の手紙を偽造したのはお前だな、イヴ」
青い瞳がかすかに狼狽したように揺れる。
「父上、お待ちください。それは俺のために――」
「……スウェン。理由はどうあれ、これは私の問題よ」
イヴリーズは覚悟を決めた顔ではっきりと言う。
「父上……おっしゃる通り、ミリーを謀ったのはこの私です」
「言っておくが、その件に私は手を貸さない」
「わかっています。あの子にはどんなに罵られても、仕方のないことをしてしまいました。許してもらえるまで詫び続けます」
「そうか」
イヴリーズが覚悟を決めているのなら、もう言うべきことはなかった。
ディオスは話を進めるために、机の引き出しから一枚の紙を取り出す。
「イヴ、この紙に書いてある通りに筆跡を真似てほしい」
「これは――」
イヴリーズの青い瞳が驚きに見開かれる。
「お待ちください! なぜあの方にこのような真似を!?」
「……そこに名前のある者はラドニア紛争の最中、我が軍の進軍経路をアトス共和国に流した可能性がある」
「では戦時中に、その……父上が……」
イヴリーズが少し口ごもる。
それはイヴリーズがまだ赤子で、グリスウェンは生まれる前の話だ。ディオスは戦時中に敵国の捕虜にされるという失態を犯した。霧にけぶる森の中を進軍の最中、気づいた時には味方と引き離され、わずかな近衛騎士と共に敵軍に囲まれていた。
この件を周囲の者たちは気遣いからか、話題に上げないようしているが、ディオス本人はそこまで気にしていなかった。確かに大国の皇帝が敵国の捕虜になるなど、歴史上でもなかなか例を見ないが、共和国側は礼節を弁えていて待遇は悪くなかった。何なら帰国できると聞いた時の方が、よほど気が重かった。
失態に対する非難は覚悟していたが、いざ帰国してみれば、思いのほか同情的な声も多かった。どう世間に弁明するか悶々と悩んでいる間に、「陛下は捕虜にされたせいで、人間不信になった」と噂されるようになった。腫れ物に触るような扱いを受ける中、これはこれで人に気遣いをせずに済むという利点に気づいた。そして周囲の誤解をそのままに、今に至る。
「……心配せずとも、その件はお前たちが思うほど気にしてはいない。ただし、そのせいで私が推し進めようとした貴族の特権を削ぐ計画は頓挫した。その借りは返させてもらう」
「父上は俺たちが子供の頃から、そんなことをお考えだったのですか……」
「招いてしまった失態は取り返せない、ならば状況を利用するしかなかろう」
「ええ。まったくもっておっしゃる通りですわ、父上」
自分と思考が似ている娘のしたり顔に、ディオスは苦い表情を浮かべた。
「そういうことでしたら、もう一点提案があります。――この作戦を確実にするなら、あの人の協力を得るべきです」
いつもの調子が戻って来たのか、イヴリーズは不敵な笑みを浮かべている。娘の意見を聞き終えると、ディオスはその提案に承諾した。