114、父たるもの2
安産だったグリスウェンの時とは違い、ルテアの第二子の出産は二日がかりとなった。ようやく小さな女児を産み落とした後、ルテアは酷く体力を消耗し、意識が朦朧としていた。
ベッドから起き上がることもできぬまま、やがて高熱を出した。どんどん衰弱していくルテアにディオスは何もしてやれなかった。熱に浮かされ、普段のルテアの姿からは想像もつかない、低い唸り声を発する姿に恐怖するばかりだった。
これは自分の罪だと思った。人の道理にもとる形でルテアと婚姻を結んだ報いだと。この不条理な世界では時に、罰とは自分に下るのではなく大切な者に向かうことは知っていた。知っていたはずなのに、覚悟が足らなかった。
出産から一週間後、もはや手の施し様がないと告げられた。医官や侍女が気遣い、ディオスを残しルテアの部屋から去って行った。いよいよ最後の時が迫っていることを否応なく思い知らされた。
枕元で愕然と立ち尽くしていると、荒く息をつくルテアが、ぼんやりと自分を見つめていることに気づいた。嵐の前の静けさのように、その瞳が自我を取り戻しているのがわかった。ルテアは最後の力を振り絞り、フレイに自分の形見を渡すことと、子供たちを守ることをディオスに懇願した。
フレイのことは少しだけルテアから聞いていた。政変で故郷を追われ、自らの身を偽って修道院で暮らす、ルテアの憐れな恋人の青年だ。最後の時に思いを馳せるのは、やはり一番大切な者のことなのかと落胆しつつも、ディオスはルテアの手を握り、願いは必ず叶えることを誓った。
ルテアは安堵したように微笑み、ディオスの耳元で何かをささやいた。その言葉が何だったのかはわからなかった。すぐさま苦痛の悲鳴がそれにとって代わり、再びルテアの意識が混濁し始めた。
医官たちは何とか最後の苦痛だけでもやわらげようと尽力したが、結局ルテアは苦悶に身をよじりながら「……怖い、死にたくない……」と涙を流しながら息絶えた。それは純粋無垢で誰からも愛される善良な少女だったルテアの、あまりにも理不尽過ぎる最後だった。
ディオスは体の奥底から湧き上がる、叫びを堪えることができなかった。侍従たちに止められ、気づいた時には壁を殴り続けた拳が真っ赤に染まっていた。
抜け殻のようになったディオスは、椅子に無理やり座らされた。耐え難い苦痛に、目を見開いたままま亡くなったルテアの瞼を侍女がそっと閉じさせていた。ディオスは夜明けの光が永遠に失われる様を、まじろぎもせず眺めていた。
どのくらい時間が経ったか、気づいた時にはルテアが生前の頃のような姿で横たわっていた。主を愛する侍女たちが、最後の仕事を果たしてくれたのだろう。死に化粧を施され、衣装を整えられたその姿は眠っているようだった。
やがてかすかに聞こえてくる声に気づき、ディオスははっと立ち上がった。赤子の声だった。
ルテアが生んだ女児は、なかなか産声が上げられず一時は生死も危ぶまれたが、少しずつ様子が落ち着き、乳母から乳を飲めるようになったと聞いていた。生まれてすぐに少し顔を見ただけで、まだ抱き上げてもいなかったことを思い出す。
声に導かれるように、ディオスは回廊へと出た。少し離れた子供部屋から、思いのほか大きな泣き声が聞こえてくる。部屋の扉を開けると、なぜか乳母や侍女たちの姿はなかった。
夕日の差し込む部屋には赤子用のベッドがあり、泣き声はそこから響いていた。そして傍らには、背伸びしてベッドの中をのぞき込む小さな男の子がいた。三歳のグリスウェンだ。
その姿にディオスは胸が締め付けられる。グリスウェンは母の死を完璧に理解できずとも、いなくなってしまったことを誤魔化せる歳ではない。生まれてすぐ母を亡くした赤子も憐れだが、記憶が残る分グリスウェンも不憫だ。
泣きじゃくる妹の頭を撫でながら、グリスウェンは舌足らずな声で話しかけていた。
「さびしくないよ……ぼくがずっとおまえのそばにいるからね」
その姿にディオスは頭を殴られたような衝撃を受けた。ディオスが自暴自棄になっている間、幼子がすでに自分のすべきことしていたからだ。一番大切な者を亡くしながら、悲しみに打ちひしがれるのではなく、守るべき者の元へやって来た。本来ならば父である自分が、真っ先にしなければならないことだった。
ディオスは強く目を閉じると、やがて静かに覚悟を決めた。
「――カレンディアだ」
ディオスの言葉に、はっとしたようにグリスウェンが振り向いた。湖水に映る夕日のように、その瞳が潤んでいた。
「その子の名前はカレンディアだ。スウェンと同じ母から生まれた妹だ。大きくなるまでお前が守ってやりなさい」
「カレンディア……?」
グリスウェンが妹の名をつぶやいて頭を撫でた。不思議なことに、兄に名を呼ばれたカレンディアは小さく嗚咽しながら泣き止んだ。
「――スウェン」
グリスウェンの前で膝を付くと、小さな手がディオスの服をつかんだ。
「ちちうえ……ははうえに、もうあえないってほんと?」
「……そうだ。お前の母は最期までとてもがんばったが、女神の元へ召されてしまった」
幼い心を傷つけないようにとは思ったが、結局気の利いた言葉は思いつかなかった。それでも敏いグリスウェンはその言葉だけで、母とは永遠に会えないことを察したのか、目に涙を溜め始めた。
皇子たる者は大声で泣きわめくものではないと、乳母に言い含められているのだろう。その教えを忠実に守り、歯を食いしばり声を立てまいと、静かに涙を零す面差しは母のルテアにそっくりだった。
思わず小さな体を抱きしめると、グリスウェンはディオスの首筋にすがりついた。その背をあやすように優しく叩くと、しゃくり上げて小さな声で泣き始めた。子供特有の高い体温が、壊れかけていたディオスの心に力を与え始める。
――ここで自分が膝を屈する訳にはいかないと。
魂に刻み込まれた後悔と絶望は生涯消えることはないだろう。それでも傷と共に前に進まなければならない。ルテアに子供たちの未来を必ず守ると誓ったのだ。
この歪んだ世界の中でも、揺るがない物は確かにあると、ルテアと彼女が残したグリスウェンが教えてくれた。残酷な世界に屈せずに、自分が成すべきことのため立ち上がろうとする者を守ることこそ、子供たちの父としての――そして国家の父たる皇帝の役割なのだと、ようやくわかった。