113、父たるもの1
ディオスがルテアと出会ったのは、まだ皇太子であった頃だ。
ルテアは第一皇妃イゼルダの侍女となってまだ日が浅かった。イゼルダは第一皇妃としてよく心得た妻で、自分の侍女を未来の皇妃候補としてディオスに目通りさせた。
初対面のルテアは、明るく素直だが子供っぽい印象で、正直ディオスの好みからは外れていた。しかし貴族令嬢としての礼儀を弁えつつも、物怖じせず皇子である自分に接する少女に、いつしか興味を引かれるようになっていた。
辺境の修道院で育ったルテアは、幼子のように宮廷のしきたりや慣習について、不思議そうにディオスに質問してくる。駆け引きに慣れた、手練手管の女たちばかり相手にしてきたディオスにとって、その素朴さや純粋さは、ひと時の癒しとなった。おそらく妹を相手するような感覚だったのだろう。
やがてイゼルダから、「そんなに気に入っているのなら、ルテアを皇妃になさいませ」と言われた。ちょうど第二皇妃セシリアの懐妊がわかった時期だった。
結婚から二年になるイゼルダには、子ができる気配がないこともあり、手持ち無沙汰ならしかるべき家門から令嬢を娶りもっと子を成すようにと、周囲から進言されていたときだった。馬の繁殖でもあるまいしと興ざめしたが、それも帝位を継ぐ者の責務であることは理解していた。
女性として意識はしていなかったものの、ルテアの人柄は気に入っていた。彼女ならば信頼がおけると、イゼルダの提案を飲むことにした。
ルテアに皇妃になってほしいと告げた時、彼女は茫然としていた。ディオスもそんな素振りは、微塵も見せていなかったので、彼女にとって青天の霹靂であることは予想していた。しかしルテアの表情が明らかに曇ったことに、ディオスは思いがけず動揺した。男として意識はされていなくても、互いに身分の垣根を越えた親愛はあると、それまで信じていた。
凍りつくディオスに、ルテアは青ざめた顔で「……謹んでお受けいたします」と震える声で応えた。本心はどうあれ、下級貴族の娘でしかないルテアの立場からすれば、それ以外の返答などしようがないのは当然だった。
無理強いする形となってしまったことにディオスは衝撃を受け、その場は適当に言葉を濁し、彼女の元を後にした。
その後再び場を設け、ルテアに改めて本音を教えて欲しいと告げた。ルテアはディオスの前で声もなく静かに涙を流した。いつも明るい彼女らしからぬ、雨に打ちひしがれる花のような姿に、心が痛んだ。
「……子供の頃から想う人がいます」とルテアは告げた。
宮廷に上がる直前まで意識したことはなかったが、突然愛を告白され、動揺し喧嘩別れしたままになった人がいると。離ればなれになって、ようやく自分が本当に愛していたのは誰か気づいたと、ルテア泣いた。その愁いを帯びた表情は少女のものではなかった。
その姿を見て、自分の中にたぎる感情があることに気づいた。自分ではない誰かが、天真爛漫なルテアとは違う、一面を引き出しているのだと思った時、込み上げたのは嫉妬だった。情けないことに、失いかけて初めて真に想う者が誰か気づいたのは、ディオスもまた同じだった。
ルテアを自分の物だけにしたいという独占欲と、幸せになってほしいという憐みを天秤にかけた結果、ある決断を出した。それが新たな歪みを生み出すとわかっていたが、どうしようもできなかった。
ディオスは時々なら想い人の元に行っていいと、ルテアに告げた。愛を交わすことも、そうしたいのならば子を成すことも許すと。その代わり自分の元へ留まり、ただ一人だけもいいから、自分とルテアの血を繋ぐ縁が欲しいと頼んだ。我ながら、いずれ帝国の太陽と呼ばれる人間とは思えぬ、情けない懇願だった。
ルテアは戸惑い怯えながらも、やがてその提案を承諾した。少々変わった所があるとはいえ、清らかな貞操観念を持ち合わせるルテアにとって、こんな歪な関係を受け入れるのは耐え難いことだったはずだ。
しかし、どこまでも優しく真っ直ぐなルテアなら、その恐怖を超えても自分の願いを受け入れ、また愛する者を選ぶことからも逃げないと信じていた。
ルテアを第三皇妃に任じてすぐ、ディオスは父の急な崩御により皇帝となった。そしてすぐにルテアが身籠ったことがわかった。
それまでルテアを寝所に呼んだことはあったが、共寝をしたことはなかった。子供の父親が自分ではないことは明らかだった。かすかな寂しさと同時に、ディオスは自分に課された約束が果たせたことに胸を撫で下ろした。
十月十日後に生まれた子供は男児だった。ルテアの夜明け色の瞳から、茜色だけを受け継いだ赤子は、幸いなことに面差しも母親そっくりだった。これなら出自を疑われることないと安堵した。ディオスはその一月前に、第一皇子の称号を与えたランディスに続き、ルテアの子を第二皇子とした。
グリスウェンと名付けた子は、病気一つしない大変元気な子供に成長した。ルテアとその想い人との間に生まれた子を、我が子として他の子供と平等に愛せるか正直懸念はあった。しかし小さなルテアそのものの、明るく人懐こいグリスウェンにそれは杞憂だった。
出産から一年後、いつものように形ばかりに寝所に呼んだつもりが、ルテアは自ら寝台に上がった。彼女は約束を忘れてはいなかった。その律儀な正直さに付け込んだことに、罪悪感を覚えながらもうれしかった。
やがてルテアは第二子を身ごもった。もはや自分の血を継いでいようが、そうでなかろうが関係はなかったが、「この子はきっと誰よりも心の強い子になります――陛下の御子なのですから」とルテアは告げた。
この歪な関係を結んでからも、彼女から朗らかな笑顔とひた向きさは、まったく損なわれていなかった。証拠などなくても、その言葉だけで十分だった。
新たな子を得た喜びの中、悲劇の足音がすぐそこまで迫っていることなど、この時のディオスは想像もしていなかった。