111、最後に差し出す物
――もうカレンの側にいることはできない。
その事実をロウラントは重々しく噛み締める。
「ランディス、このままゼルダと共にレブラッドの屋敷に帰れ。しばらく登城は禁止する」
「お待ちください、父上」
「何だ?」
ロウラントは父の冷ややかな視線を受けながら、肝心な話を切りだす。
「……イヴとスウェンはどうなりますか?」
ディオスはかすかに眉を寄せると、机の上で苛立ったように指を叩く。
「――あの二人には相応の責任を取らせる。お前には関係のないことだ」
「関係はあります。あの二人は私の……――大切な姉と弟です」
「ほう? お前の口から出たとは思えん殊勝な言葉だな。だが本当の姉弟ではなかろう。イヴリーズはまだしも、グリスウェンとお前は一滴の血の繋がりもない」
ロウラントはきっぱりと首を振る。
「血の繋がりなどどうでもいいのです。それに不貞の件はスウェンに責任はありません」
「だから今回の件を見逃せと?」
「あいつがどれほど実直で正義感に溢れた人間か、父上が一番よくご存じでしょう? 今までの皇家への貢献を汲んでやることはできませんか?」
「それとこれとは話が別だ。血統の問題はともかく、皇族の地位にある者が外国の賓客もいる場で、あのような失態を犯したのだ。しかも選帝前の身でにありながら、密通の罪を犯したことは明白。どのみち、あの二人からは皇位継承権を剥奪せざるを得ない」
もはや致し方ないとは思っていたが、改めて父の口から二人の処分について聞くと、気が重くなる。それでも命があるのなら必ず自分が――そしてカレンが、いつか助けになれる日は来る。
だが気がかりはもう一つある。ただ一人――この件で、何の罪もない小さな命を救えなければ、もはやカレンに合わせる顔がない。
「では、イヴの腹の子はどうなりますか?」
「むろん適切な処置が必要であろうな」
あっさりと放たれた父の言葉に、目の前が真っ暗になる。怒りと絶望に駆られながら、ロウラントは父を睨む。
「ご慈悲はないのですか……!? イヴは父上の娘なのですよ。それがどれほどイヴの心と体を傷つけるかおわかりでしょう!?」
「当然想定できた結末のはずだ。皇帝の慈悲とは、愚かな人間に目こぼしするための物ではない」
取り付く島もない言葉に、ロウラントは声を失う。
(……駄目だ。父上は口先の言葉などで心を動かされる人ではない)
ロウラントは必死で思考を巡らせる。何とかイヴリーズだけでも宮廷から救い出せないか、あらゆる手立てを考えるが、やはりどう考えても無理だ。衛兵や騎士に守られた宮殿の奥にいる人間を、一人で脱出させる手筈などあるはずがない。
(いっそ人質に取るか……?)
ちらりと、父の側にたたずむ母イゼルダに目をやる。父もさすがに長年連れ添った妻を見捨てられまい。
だが上手くいったところで、脱出後の伝手がないわけではないが、ほぼユイルヴェルトに把握されている。あの気が狂ったとしか思えない弟も、おそらく宮殿のどこかに幽閉されているだろう。彼に口を割られればお終いだ。
ロウラントは己の不甲斐なさを痛感しながら、目を強く閉じる。
(どうあがいても、もう無理だ……)
敗北を悟った瞬間、ロウラントは床に片膝を付いていた。
少し前まで、自分がこんなに無力な人間だとは思ってもいなかった。ロウラントは幼い頃から、環境、血筋、才能とあらゆる物に恵まれた子供だった。本当の出自を知った後も、それでも自分の才覚だけは損なわれないと慢心していた。
それは大人になっても変わらぬままで、カレンと出会い、この世には自分の想像を超える器の持ち主がいるのだと初めて思い知らされた。
彼女の元で自分の才覚を生かそうと誓ったが、結局はこの様だ。カレンを守ることも、父と交渉することも失敗した。もはやロウラントが天秤に差し出せる物は何もない。
(カレンならどうするだろう……)
同じ宮殿で眠り続ける主のことを思う。彼女さえ隣にいてくれれば、もう少しましな真似ができただろうと根拠もなく思う。今ここに、側にいてくれたなら、それだけでと――。
ロウラントは床に跪き、深々と頭を下げた。交渉や駆け引きなら、幾度となく行ってきたし、誰にも後れを取らぬ自信はあった。たが父といえど、他人に頭を垂れ慈悲にすがるなど生まれて初めてのことだった。
「父上……何卒お願い申し上げます。どうかイヴとスウェンの子供をお救いください」
もう差し出せるものは、己の矜持しか残っていなかった。
弱々しい声で赦しを乞う息子に、父は唾棄するように言った。
「……誰もかれも芸のない。自分勝手な真似をしながら、責任を取るのは嫌だと駄々をこね、最後はみっともなく跪いて泣き落としとは……。従者の真似事をしている間に、皇子としての誇りまで失ったようだな」
返す言葉もなく、ロウラントは己の力の無さと恥辱に歯噛みするばかりだった。
父と息子の間に長い沈黙が落ちる。
それを破ったのは、母イゼルダのわざとらしいため息だった。
「――ああ、もうっ……二人ともいい加減になさいませっ!」
イゼルダが突然叫んだ。
「……ゼルダ、話はまだ終わっていない」
「陛下! そろそろ、その悪役気取りはおやめください」
ロウラントが目を丸くして顔を上げると、少し鼻白んだディオスと、怒りに頬を紅潮させたイゼルダの姿があった。
「それから、ラン! あなたも自分の親を何だと思っているのです!? 父上がそんな非道な真似をすると、本気で考えていたのですか!?」
普段の明るい口調が鳴りを潜めている。こういう時の母は本気で怒っていると、ロウラントは知っていた。
「あの……つまりイヴは……?」
「ゆっくり休ませているわ。安静に過ごさせるのが、母子共に一番『適切な』処置でしょう。先日といい今日の舞踏会といい、どうもイヴリーズ皇女の様子はおかしいと思っていたのよ。まったく……大切にしないといけない時期に、あの子も無謀すぎるわ」
母の台詞に脱力し、ロウラントは思わず床に座り込む。
「この痴れ者が」
ディオスは床にうずくまる息子に、呆れた視線を向ける。
「お前たちは、揃いも揃って子供の頃からまったく成長しとらん。小賢しさが増しただけで、傲慢で独りよがりな性格はまるで変わっていない。……ランディス、お前今年でいくつだ? いい大人になって、まだ父にこのような説教をさせるとは情けないと思わないか?」
「……おっしゃる通りです」
自分の間抜けさがほとほと嫌になり、ロウラントは伏せた顔を上げられなかった。
「――もういい。いつまでそこで呆けているつもりだ。さっさと母と共に帰れ」
話は済んだとばかりに、ディオスは執務に戻り始める。寄ってきたイゼルダに、音高く頭を叩かれ、ロウラントはのろのろと立ち上がった。
扉の前で一度振り向いた。
「私の謹慎はいつまでになりますか?」
「……選帝会議まで大人しくしていろ」
その言葉に、これ以上の譲歩は見込めないと諦めて、ロウラントは深々と頭を下げると退室した。
父の執務室を出ると、もう一度イゼルダに平手で背中を叩かれた。
「……さっきから痛いんですが、母上」
「とんだ愚息を押し付けてしまって、カレンディア殿下に申し訳ないわ」
カレンの名を出されると、心がまた重くなった。選帝会議まであと二週間を、彼女一人で戦わせることになる。
そういえば、事件の直前にひどい喧嘩になったことを思い出す。カレンには散々手厳しいことを言ってきたし、言い争いもあったが、泣かせてしまったのは初めてだった。
(普段あれだけうるさいくせに、泣くときは静かに泣くんだな……)
泣き濡れて一際鮮やかな、あの夜明けの色の双眸が頭から離れなかった。