110、父の執務室
――カレンがベルディ―タ皇妃に刺された。
それに気づいた瞬間ロウラントは駆け出し、近くにいた給仕からハムを切り分けるナイフを奪った。
投擲したナイフはベルディ―タの背中に命中した。ほぼ急所に命中したはずなのに、その怨念がなせる業なのか彼女にまだ息があった。ナイフを引き抜きベルディ―タに止めを刺し、振り返るとミリエルが甲高い悲鳴を上げた。
横たわったカレンの腹部には、深々とナイフが突き刺さっていた。おびただしい出血量に背筋が凍る。すでにカレンの意識は朦朧としていて、呼びかけにも応えがなかった。目の前の光景に、ただ愕然とするばかりのロウラントを叱咤したのはミリエルだった。
「しっかりしてください! 急いで、イヴお姉様の所に運びましょう!」
その言葉でロウラントは、ようやく思考を巡らし始める。出血と共に体温を失い始めていたカレンの体を抱え上げ、皇帝の執務室がある北の対へと移動した。父は重要な話を必ずそこですると知っていた。おそらくイヴリーズも執務室にいるだろうと辺りを付けて向かうと、騒ぎを聞いたらしく、皇帝と共に戻って来た彼女と途中で合流することができた。
妹の惨状にイヴリーズは一瞬息を飲んだが、さすがに誰よりもこういった状況に慣れていた。先ほどまで、泣いて打ちひしがれていた様子が嘘のように、イヴリーズはてきぱきと周囲に指示を出し、近く空き部屋にカレンを運ぶようにロウラントに告げた。
カレンをソファに寝かせると、ドレスを脱がせると言われ、イヴリーズと女官のみが室内に残った。こうなればロウラントにできることはなく、イヴリーズの『祝福』に賭けるしかなかった。
閉ざされた扉を見つめながら、ロウラントは自分の不甲斐なさを痛感していた。カレンを危険な目に合わせたばかりか、ミリエルの言葉がなければ的確な判断すらできなかったかもしれない。自分のこれほどに脆い面など知らなかった。
カレンの存在は、いつの間にかロウラントに深く喰い込み過ぎていた。彼女を失うことは、もはや自分の半身を失うも同義だった。
数時間後、扉から出てきたイヴリーズが青ざめた顔で微笑んだ。「兄妹そろって生命力が強いのね」と言い残し、衛兵と共に去って行く後姿は、皇女としての毅然とした振る舞いを取り戻していた。
今更ながら、イヴリーズも人を気遣える状態ではなかったことを思い出す。それでも「妹を助けるためなら当たり前でしょう」と彼女は事も無げに言うだろう。ロウラントとしても、この恩に報いなければならなかった。
カレンが起き上れるようになるまでに、自分がしなければならないことはわかっていた。
※※※※※※※※※※
すでに深夜を回っていたが、ロウラントは皇帝の執務室に呼び出されていた。浮彫りの装飾が施された扉の前に、沈痛な面持ちで立ち尽くす。
皇帝の執務室の扉。子供の時は、イヴリーズたちと悪さをするたびこの部屋に呼び出され、雷が落ちるような説教を受けた。幼い頃に身についた習慣なのか、情けないことに大人になった今でも緊張する。
イヴリーズとグリスウェン。
カレンがこの二人に対し、特に強い思い入れがある理由は薄々気づいていた。
妹や胎の子を守るためなら、自らの手を汚すことも躊躇しない、確固たる信念を持つイヴリーズ。母が亡くなった要因でもある妹に、ただ一度も恨み言をぶつけることなく、兄として常に妹の身を守ろうとしてきたグリスウェン。
儚さと無縁の何にも怯まない、強靭な愛。
どんな苦難にも揺るぐことのない、実直な愛。
カレンは事故で母を喪い、そのせいで父から疎まれた。欲しても得られなかった物を与えてくれたあの二人に、母性と父性を見出すのは道理だった。
それならば両親の愛と共に失った、生まれてくることのできなかった妹を、二人の子供に重ねるのも当然のことだ。
カレンの願いを守るためにも、時間は無駄にできない。ロウラントは皇帝の詰問を受けるという形で、今呼び出しを受けている。最悪『ロウラント・バスティス』という名は失うだろうと、覚悟はしていた。
皇女を刺した張本人とはいえ、一介の騎士が皇妃を公の場で手に掛けたのだ。非常事態だったことは考慮されるにしろ、宮廷追放辺りが妥当だろう。
『ランディス皇子』を捨てた時は、子供から大人に成長する時期だったので、誰にも気づかれることなく宮廷に戻れたが、今回はさすがに難しい。
たかが従者とはいえ、その主が目立つのだ。自分の顔もそれなりに宮廷に知られているだろう。ほとぼりが冷めるまで、年単位でカレンの元へは帰れないかもしれない。
ロウラントは一息ついてから、ドアを叩く。中から「――入れ」という声がした。
「失礼いたします」
ドアを開けると、中央に据えてある机に父はいた。
四十代半ばになるディオスは、歴代皇帝でも珍しく選帝会議を受けずに十四で皇太子になった。数名いたきょうだいは皆夭折していて、本来なら選帝会議が始まる十四の歳に健在だった皇帝の子は彼だけだった。
今の無口な父からは想像がつかないが、若い頃は美貌の皇太子として持てはやされ、やや傲慢なところはあったものの、人好きする性格だったらしい。即位間もない頃、皇帝自らが紛争地帯で捕虜になるという失態を犯し、それ以降すっかり性格が変わってしまったと言われている。
ディオスは息子が入ってきても、まるで気に留めていなかった。まだ執務中だったのだろう、書類をめくる手を止めない。なぜか机の傍らには、第一皇妃である母イゼルダがたたずんでいた。彼女はロウラントの顔を見ると、かすかに眉をひそめる。
しばらく待ったが、父が何も言わないのでロウラントから話しかける。
「――父上、この度は大変なご迷惑をおかけすることになってしまい、申し訳ございませんでした」
頭を下げるロウラントに、ディオスがようやく視線を移す。
「カレンを危険な目に合わせた責任は私にあります」
「そうであろうな」
にべもない言葉に、さすがにロウラントも口ごもった。
「私はお前にあれの面倒を託した。結果あの娘は宮廷で目立つことになり、ベルディ―タの恨みを買う羽目になった」
ディオスの言葉通り、ロウラントをカレンディアの元へ送り込んだのは父当人だ。本来なら皇帝が、選帝会議前に一人の子供に肩入れするなどあってはならないが、兄弟姉妹の中で唯一何の取柄もない《ひきこもり姫》があまりにも不憫だったのだろう。
「ランディス、そもそもベルディ―タの乱心はお前が原因でもある」
「私の……?」
ベルディ―タ皇妃のことは、さすがにそこまで予見できる要素はなかったはずだ。
不満が顔に出ていたのか、イゼルダが口を開く。
「ディータは以前言っていたわ。……ランディス皇子たちに言われた言葉がずっと許せないって」
「何の話ですか?」
「覚えていないのね。さすがにあれはわたくしも腹が立ったわ。……本当にしょうのない子」
母にあからさまに落胆され、ロウラントは戸惑う。
「起きてしまったことは取り返しがつかない。そして理由はどうあれ、皇女を殺害しようとしたベルディ―タの罪は死に値する。カレンの命を救うため、お前がベルディ―タを手に掛けたことは罪に問わない。……だが今まで通り、お前をカレンの側に置いておくことはもうできない」
父の言葉は予想していたが、落胆の感情は抑えられなかった。