109、化け物になった皇妃3
イヴリーズがはっと口元を両手で覆うが遅かった。グリスウェンが唇を噛み締め、肩を震わせていた。
かつてベルディータが仕えていた、第三皇妃ルテアはグリスウェンの母であり、三年前にカレンディア皇女を産んだ後亡くなっていた。
イヴリーズは顔をこわばらせたまま、弟の側に寄るとぎゅっと抱きしめた。ランディスは気まずい空気の中、明後日の方向を見ている。
「ごめんね、ごめんね……そんなつもりじゃなかったの……」
グリスウェンは乱暴に袖口で目元を拭い、泣き出してしまった姉の肩に手をかける。
「……泣かないでイヴ。怒ってないよ」
そして何事もなかったかのようにグリスウェンは姉の手を取り、笑顔を向ける。
「そんなことより向こう岸に行こうよ。あっちの鳥の巣に卵があるのを見つけたんだ!」
「何の卵!? 見たい!」
「スウェン、まず靴を履け! 足を切るぞ!」
先に走っていく姉弟を、ランディスが慌てて追いかける。先ほどの陰惨な会話が嘘のように、無邪気な笑い声をあげながら子供たちは去って行った。
その場に残ったベルディ―タは、へなへなと木の幹にすがるようにその場に崩れた。
――出産の役目を果たしていない皇妃は敬意を払う価値もない。ベルディ―タに向けられたかのような言葉だった。
いや、あの皇女たちにとってベルディ―タはアンフィリーネ以下の存在だ。むしろ認識されているかすら怪しい。ベルディ―タの中に仄暗い感情が広がり始める。
清らかで無垢な、傲慢で残酷な子供たち。アンフィリーネ皇妃の生む子が皇帝の最後の子であれば彼らは二十代前半で、遅くとも二十代後半で選帝会議を迎えることになる。
次の皇帝は、心身共に最盛期の時に選帝を受ける、あの三人の中から生まれる可能性が高い。今は寝食を共にし、無邪気に一緒に遊んでいる関係性もいずれ終わりがやって来る。
三人の内、少なくとも二人は修道院で幽閉生活か、もう少しましであっても一生家族も恋人も持てない。子を産めない者に価値なしと言った彼らは、その時に今の発言を覚えているだろうか。自分がどれほど非情なことを言ったかを思い知るだろうか。
皇帝になる一人とて、無事に子を成せるかはわからない。自分のように子を喪う悲劇に見舞われかもしれない。子を産めない女を冒涜し、子を産む母を呪った彼らが、いつかその報いを受ける日が来るかと思うと、少しは溜飲が下がった。
ベルディ―タは喉の奥から、乾いた笑いが漏れるのを止められなかった。いつからこんな風になってしまったのだろう。運命に逆らえぬ女たちを憎み、その夫をかすめとるような真似をし、道理もわからぬ子供を呪うような人間に。
どれほど後悔したところで、もう清浄な世界には戻れない。すでにこの手は汚れている。人間として生を受けたはずの自分を、この宮廷にはこびる悪意たちが、伏魔殿の怪物へと変えてしまった。
せめて、あの太陽なように眩いあの人が、そのことに気づいてくれる日が来るだろうか――。
※※※※※※※※※※
気がつけば、きらびやかに輝くシャンデリアの光を背に、一人の男の影が自分の前に立ちはだかっていた。
まるで獲物をさばくような無駄のない手つきで、自分の喉元にナイフを滑らせた青年を、もはや瞼を閉じる力も残っていないベルディ―タは、ただぼんやりと見つめていた。
こうしてすぐ眼前で見れば、その冷ややかな光をたたえた濃紺の瞳には確かに覚えがあった。思っていた通り彼は生粋の化け物だ。ずっとその恐るべき正体を隠し、この宮廷に潜んでいたのだとベルディ―タはようやく悟る。
自覚はなかったとはいえ、子を喪ったばかりの若き日の自分に残酷な言葉を浴びせた少年。だが彼は、皇妃の中で唯一皇帝に心から尽くしてきた第一皇妃イゼルダの息子だった。
その敬意と恩義にゆえに彼には手を出すまいと決めていたが、憎しみの重さで言えば、イヴリーズたちと同じだった。自分を虫けら程度にしか認識していなかった少年が、炎にその身を焼かれ再起不能となったと聞いた時は、天罰はあるのだと密かに笑った。
だが彼は傷一つない美しい青年として成長し、虫の命を潰すがごとく、今まさにベルディ―タの命を断とうとしていた。
やはりこの宮廷は伏魔殿。化け物となった自分は、より強大な化け物の糧として喰われるのだ。かつて自分がそうしてきたように。
――ランディス皇子……!
せめてその化け物の正体を暴こうと、最後の力を振り絞り叫んだ名は血泡となり、濁った音を立て零れた。