106、凶行
R15に該当しそうな流血シーンがあります。
――違う、こんなはずではなかった。
女は扇の陰で、わななく紅唇を歪ませた。
正義の告発をするのは自分だったはずだ。
皇妃たちは誰もかれもが、ただ一人の夫であるはずの皇帝をないがしろにし、心の拠り所を他に求めた。その淫婦共はもういないが、彼女たちがこの宮廷という名の伏魔殿に産み落とした、生粋の化け物たちは残っている。
その中でも特に忌々しい、イヴリーズとグリスウェン。彼らの汚らわしい所業を暴き、正義の執行者として人々に賞賛される。そうすれば、皇帝ディオスも再び自分に目をかけてくれるはずと信じていた。それをあのユイルヴェルトが邪魔をした。
彼の母親も皇妃という立場でありながら、決して与えられることのない、父親の愛情を死ぬまで欲し続けた、憐れで愚かな女だ。憎むべき淫婦の一人には違いないが、他の淫婦よりましな点は自ら死んでくれたことだ。
彼女の残した、縁のない皇子を憐れんで側においてやったのに。よもや自分の役を奪うとは……。しょせん彼も、淫婦が産み落とした薄汚い肉塊に過ぎなかった。
「――ねえ、見て。カレンディア皇女がレブラッド公爵と話されているわ」
「あのようなことがあったのに、堂々とされているのね」
「選帝会議はどうなるのでしょう……?」
耳に入る貴婦人たちのささやきに、女は視線を巡らせる。
――そうだ。まだこの場には、汚らわしい化け物が二匹も残っている。
今度こそ自分が正義の鉄槌を下し、この汚れてしまった宮廷を浄化させるのだ。
女は扇を畳み、その要から飾り紐をするりと引いた。
※※※※※※※※※※
気もそぞろのあまり、その後のどうやって過ごしたのか記憶があまりない。
あのような出来事があった後でも――いや、だからこそか、カレンへのダンスの誘いは絶えなかった。好奇心旺盛な人々の詮索をかわしつつ、何曲かを踊り終えるとカレンは壁際へと下がった。
喉が渇いたので、冷えたワインをあおる。体がなおさら火照ったが、何かで気分を紛らわせたかった。これがやけ酒というものかと、妙に冷静な頭で思う。
その時、名を呼ばれたような気がした。振り返った瞬間、誰かが勢いよく肩口へとぶつかった。カレンよりも背の低い、小柄な貴婦人だった。
(――あれ? この人……)
見覚えのある姿にカレンははっとする。つい先日の馬上槍試合大会でも顔を合わせていた。
あの時は何か張りつめた面持ちで、カレンやイヴリーズを見つめていたのが、妙に引っかかっていた。その後、偶然にも天幕で言い争う声を聞き、彼女の視線の意味が分かった。
――皇妃の中で唯一、子を成せなかった彼女は、カレンを含め他の皇妃たちが生んだ子供を憎んでいるのだと。
「……ベルディ―タ様?」
華やかなもう一人の皇妃の影に隠れるように、宮廷でずっと息を潜めていた皇妃。
その名を呼ぶと、第六皇妃ベルディ―タが口元を歪ませ、血走った目でカレンを睨め上げた。あからさまな敵意を向けられ、カレンは困惑する。
ぶつかったときの勢いで、カレンが持っていたワインがこぼれ、ベルディ―タのドレスの肩口を赤く染めていた。謝罪しようと口を開きかけた時――わき腹がじわりと熱くなるのを感じた。ベルディ―タがホットワインでも持っていたのだろうか。
確認しようと視線を下げた時、ベルディ―タがうめき声をこぼした。その体がカレンへとのしかかる。受け止めようとしたが、思うように力が入らず一緒に後ろへと倒れ込んだ。ドレスの下に仕込まれた大きなパニエのおかげで、後頭部を打たずに済んだ。
華奢なはずのベルディ―タの体が思ったよりも重く、カレンは立ち上がれなかった。息が苦しくなってくる。
ふと、ベルディ―タの肩越しにナイフの柄が見えた。視線をさらにたどれば、柄の部分が女の体に密着し、見る見る内に赤い染みが広がっていく。ナイフの刃が彼女の体に深く突き刺さっているのだとわかった。事態を察し、カレンは喉の奥で悲鳴を漏らす。
突然顔を上げたベルディ―タが腕を伸ばした。その爪がカレンの頬や首筋に突き立てられ、深く食い込む。
「――淫婦の娘があぁぁ!!」
血走った目に宿る本気の殺意に、カレンは縫い留められたように動けなかった。
ふいにベルディ―タの体が持ち上がるほど勢いで、その背から短剣が抜かれた。何者かの足が、小柄な体を容赦なく蹴り上げる。同時に、カレンの体を圧迫していた重さからようやく解放された。
視線だけでその動きを追うと、一人の男がカレンに背を向けて、仰向けに倒れたベルディ―タの元へ屈み込む。何か腕に力を込めてから、ゆっくりと立ち上がった。
その足の向こうに、目を見開いたまま、口から血泡を吐いたベルティータの姿があった。もうすでに、その魂がないことは明らかだった。
人の命を奪ったとは思えない、舞踏のように滑らかで無駄のない動きを見せた男が、カレンの元へと歩いてくる。
(誰……?)
悲鳴を上げ、卒倒する貴婦人たちの姿も、駆け付ける衛兵の姿もはっきりとわかるのに、その男の顔だけがぼやけて見えない。
「カレンお姉様……? いやあああ、お姉様!!」
視界いっぱいに青ざめたミリエルの顔が写る。
「ミリー?」
「しゃべらないで! お腹に刃物が――」
「……え?」
何の冗談かと思いつつ、恐る恐る片手を伸ばすと、右の脇腹に何か固い物が触れる。その下をたどると、お湯に触れたように、手袋がじっとりと生暖かく湿っていくのがわかった。
ドレス越しとはいえ、確かに触れているはずなのに、なぜか腹の皮膚にまるで感覚がない。もう体を圧迫する物はないのに、息がどんどん苦しくなってくる。それにひどく寒い。歯の根が音を立てるが、自分の意志で止めることができない。
「――殿下!!」
カレンの前にひざまずいた男が手を握った。ベルディ―タを殺害したあの男だ。人を殺した手――。その事実にカレンに再び恐怖が宿る。
感情を読まれたのだろうか、息を飲むような気配の後、するりと握られていた手が解かれる。
視界から徐々に色彩が失われ、やがて暗くなっていく。
「殿下、しっかりしてください! 殿下!!」
(……おっかしいなぁ)
上擦った声も、体にかけられた上着に残る糸杉と杜松の香りも、これまでずっと自分の側にいた従者のものだ。
それなのにわからない。イヴリーズとグリスウェンの子供を見殺しにしようとした男が。事もなげにベルディ―タの命を奪った男が。
もう誰なのか、わからなかった。