105、暁の瞳と黄昏の瞳
「……違うっ……違う……嘘です、父上っ……」
少女のように泣きじゃくるイヴリーズの声に、皇帝の忌々しそうな長いため息が重なった。
「――衛兵。ここにいる三人を拘束し連行せよ」
怒気を孕んだ皇帝の命に、ついに衛兵たちが動いた。
形ばかりとはいえ、両側から腕を押さえられた皇子たちの姿に、悲鳴が漏れ聞こえる。舞踏会の最中に、皇族が拘束されるなど前代未聞の事件だ。
もはや舞踏会は打ち切りと思われたが、皇帝は立ち上がり楽団の方に声をかける。
「――演奏を続けよ」
そして自身も壇上を降り、扉の方へと歩きだす。その後ろを慌てたように皇妃のイゼルダが追いかける。
困惑のざわめきは収まらなかったが、曲が奏で始められると、数組がおずおずと中央に出て踊り始める。
カレンが扉の方へと先回ると、衛兵に誘導されるように三人の兄姉たちがやってきた。先頭を歩くユイルヴェルトはカレンに気づくと苦笑し、肩をすくめた。イヴリーズは青ざめたままうつむき目も合わない。そしてグリスウェンはカレンの前で足を止めた。
「殿下……」
「すぐ済む」
グリスウェンは諫めようとした衛兵を制し、カレンに向き直る。その涙の跡に何を思ったのか、痛ましそうな表情を浮かべた。
(ああ、そっか……)
周囲の視線がこちらに集まっていた。グリスウェンがルテア皇妃の不貞により、皇帝の血を引いていないなら、同母の妹であるカレンも同様と考えられるのが当然だ。近い内にカレンも取り調べを受けるかもしれない。
カレンは涙をぬぐい、毅然とした表情をグリスウェンに向ける。せめて兄から、一つだけでも不安を拭ってあげたかった。
母から受けついだ、暁の瞳と黄昏の瞳が互いを映し出す。
「兄上……――私は皇帝陛下が第五子にして、第二皇女カレンディアです」
それを周囲で聞いていた人々の中には、『同じ母から生まれようと、もう立場が違う』という意味に解釈した者もいただろう。卑賎の生まれを隠していた兄と、最後まで皇太子の座を争った、実の妹からの決別の言葉と。
他人が何を思おうがどうでもいい。グリスウェンも今さら馴れ合い、カレンの嫌疑が深まることなど望まないはずだ。だが彼なら、カレンの真意をわかってくれると信じていた。
「……そうか」
グリスウェンはまるで落胆したように顔を伏せたが、その一瞬、口元に笑みが広がるのをカレンは見逃さなかった。
――自分が皇帝の子であることは、既に把握しているから心配はいらない。そして血の繋がりはどうあれ、カレンの中で兄弟姉妹の存在も順番も変わらない。
その思いさえ伝われば、それ以上の言葉は互いに必要なかった。グリスウェンはもうカレンには目もくれず、素直に衛兵に従い去って行った。
「――皇帝陛下」
大広間から退出するために、扉へと向かっていた皇帝ディオスにカレンは声をかける。
「姉上方が心配です。わたくしも退出のお許しいただけないでしょうか?」
ディオスはそんなカレンに冷ややかな視線を向けた。
「――ならん。そなたは皇族の責務として賓客の相手をせよ」
娘の嘆願を切り捨てて、父は扉の奥へと消えていく。残されたカレンは自分の無力にただ立ち尽くしていた。
「――皇女殿下」
視線を上げると、形の良い髭をたくわえた中背の男性の姿があった。
「ダリウス卿……」
以前ディラーン商会で出会った七家門の当主の一人、レブラッド公爵ダリウス。ロウラントの出自がはっきりしない今となっては、真実かは不明だが、少なくとも公にはランディス皇子の伯父とされている人物だ。
「大変なことになりました。何と申し上げてよいか……」
「……ええ」
カレンは視線を下げ憂いの表情を作る。
今ここに大勢の人の視線が集まっている。カレンディア皇女に不審な点はないかと。少しでも動揺する様子があれば、死肉をあさる獣のように喰らいついてくるだろう。カレンは努めて表情を繕う。
「このような時に恐縮ですが、しばしロウラントをお借りしたいのです。お許しいただけますか?」
「今はそれどころじゃ――」
ロウラントの言葉を遮るようにカレンは答える。
「もちろん、かまいません。どうぞ、わたくしのことはお気遣いなく。ゆっくりお話しなさってください」
「殿下!?」
「……ロウラント、下がっていいわ」
ロウラントに視線を合わせずに、カレンは言った。
「殿下! 今はそれどころではありません」
「ロウラント、私の話を聞きなさい!」
食い下がろうとするロウラントと、彼を引き留めるレブラッド公爵に背を向け、カレンは自らその場を後にした。今はロウラントの側にいたくなかった。
カレンはできるだけ離れた場所まで歩くと、給仕からワインを受け取る。苦い味とむせ返るような芳香は今も慣れないが、気分は少し紛れた。
大広間を見れば、先ほどの出来事が嘘のように、再びダンスに興じる男女であふれている。なんて美しく、そして歪な世界なのか。
「カレンお姉様……」
少女の声に振り向けば、頬を紅潮させたミリエルがいた。引き留めようとする侍女を振り払い、カレンに近づいて来る。
「あれは……さっきのあれはいったい何なのですか!?」
いまだに混乱した様子のミリエルにカレンも言葉を失う。一番可哀想なのは、この何も知らなかった末の妹かもしれない。
「お兄様方の言葉は嘘ですよね?」
「……ごめんね、ミリー」
その一言で敏い少女は、すべてを察したようだった。
「カレンお姉様は全部ご存じだったのですね……」
無言のまま否定しないカレンに、ミリエルは口の端を歪める。
「……そう。みんなでわたくしを欺いていたのですね。大切な兄弟姉妹などと綺麗事を言いながら……」
思わずカレンが差し出した手を、ミリエルが払い落とす。
「触らないで!」
「ミリー……」
「気安く呼ばないで! こうなった以上、あなただって本当の姉かわかったものじゃないでしょう!?」
(違う! 私たちは血の繋がった本当の姉妹――)
そう言いたかった。けれどこの状況で、言葉など何の意味もなさないことはわかっていた。それに、この言葉はグリスウェンを否定してしまう。血の繋がりはなくとも、心の底からミリエルを妹として愛していたはずだ。
言葉を返せないカレンに、ミリエルは泣き出しそうに顔を歪め、踵を返し去っていく。カレンに侮蔑の視線を向けながら、侍女たちが主の後を追う。
ミリエルに向かって伸ばした腕を、カレンはゆっくりと下した。
明日か明後日にもう一話更新できそうです。