104、グリスウェンの決断
ロウラントの濃紺の瞳が狼狽で揺れていた。カレンの腕を掴む手も震えている。これほど動揺しながら、ほとんど反射的にカレンを止めたのだろう。
カレンを引きずるように、ロウラントは人々の間を縫って、玉座とは反対の方向へ動き出す。
「……ロウ!」
カレンはロウラントの手を振りほどこうとしたが、その手は石のようにまったく弛まない。従者が皇女を力尽くで引きずるという異常な行動は、ユイルヴェルトが起こした騒ぎのせいで、誰も気づいていなかった。
人だかりの間を歩く中、カレンの仮面はいつの間にか剥がれ落ちていた。人目のつかぬ扉の前まで連れてこられ、ようやくロウラントの手を振り解く。
「何してるの!? このままじゃ姉上たちが!」
「もう無理です。この状況は誤魔化し切れない。下手に口を挟めば、殿下まで加担していたと思われます」
「だから何!? あの二人を見捨てるわけにいかないでしょ! ロウだって――」
「わかってる!!」
苦渋と焦りに満ちた、見たこともないロウレントの表情にカレンは言葉を失う。
幼い頃からずっと共に育ったイヴリーズとグリスウェンのことを、ロウラントは誰よりも案じ続けてきた。そしてこれまで秘密を共有し、信頼していたはずの弟に、もっとも手痛い盤面で裏切られてしまった。この状況に、自分の不甲斐なさを痛感していない訳がなかった。
「……ごめん」
「こちらこそ失礼しました。まず落ち着きましょう……」
ロウラントが自分に言い聞かせるように、低くつぶやく。
「妊娠の件は医官に調べられればすぐにわかる。二人の関係も追及されるでしょうが、これに関しては証拠はない。……イヴは何があっても、子供の父親について口を割らないはずです」
「でも無理だよ……当の兄上が黙ってると思う?」
「――俺はこの後、スウェンと接触して正体を明かします。必ず説得してみせます」
「待って、待って――」
カレンはロウラントの服を掴み、すがるように問う。
「それで、姉上のお腹の子はどうなるの?」
「……殿下はまずご自身をお守りください。こんな状況でも――いえ、こんな状況だからこそ、選帝会議は予定通り開かれるでしょう。あの二人とご自分の立場を、天秤にかけるような真似は絶対しないでください」
「そんな話、今してないでしょ!?」
ロウラントが故意に質問を無視したことに、カレンは慌てる。
「だから二人の子はどうなるの!?」
「それは――」
ロウラントは感情の抜け落ちた声で言った。
「……俺の天秤には入っていません」
考える前に体が動いていた。乾いた音が響き、手の平がじんじんと痺れる。
カレンの平手打ちなど、避けようと思えばたやすく避けられたはずなのに、ロウラントは身じろぎもせず頬を打たれた。
憐れむようにカレン見つめるその顔が、視界の中で徐々に歪む。頬を伝う涙をぬぐうこともせず、それでもカレンはロウラントに睨み続けた。互いに視線を外すことができなかった。
「――イヴリーズ、ユイルヴェルト」
子供たちのやり取りを、それまでただ静かに見下ろしてた皇帝が、初めて声を発した。その言葉を聞き逃さまいと、周囲が静まり返る。
カレンはロウラントから顔を背け、踵を返す。再び大広間の中央へと早足で戻り、人々の間から玉座をのぞき見る。
「――二人とも、今すぐに退出せよ」
皇帝の命令に、人々が大きくどよめいた。
四年間も生死を偽り、外国の賓客もいる中で兄姉の不祥事を告発するという、ルスキエ宮廷の権威に泥を塗ったユイルヴェルトは当然として、イヴリーズまでこの場からの退出を命じられた。つまり皇帝が、イヴリーズの挙動に不審な点があると判断したということだ。
「父上……?」
うめくようにつぶやいたイヴリーズが、よろよろと玉座へと数歩足を動かしたが、すぐに床に崩れかけた。
傾ぐ体を受け止めたのはグリスウェンだった。その場にゆっくりとイヴリーズを座らせると、耳元で何かをささやいている。はっとしたように顔を上げるイヴリーズに、いつもと変らぬ明るい笑みを向けるのが見えた。
「――皇帝陛下!」
グリスウェンが立ち上がり、大きく声を張り上げた。
「二人を退出させる前に、私からも申し上げたい儀がございます」
「下がれ、グリスウェン。これ以上、一族の醜態をさらすな」
「その件で、陛下にお詫び申し上げなければなりません」
冷徹な皇帝の言葉にも、グリスウェンはまったく臆していなかった。
「私は皇帝陛下の子ではございません。――母ルテア皇妃の不義により生まれた人間なのです」
場違いなくらい、曇りのない晴れやか声で告げられた告白に、息を呑む気配がいくつもあった。最初に聞こえたのは、グリスウェンに執心していた令嬢たちの含み笑いだった。
「ま、まあ殿下ったらご冗談を……」
「きっと混乱されているのね」
そう言っている、自分たちの言葉すら白々しく聞こえるのだろう。かすれた笑い声がむなしく響いた。
奇妙な空気の中、グリスウェンは落ち着き払った態度で話を続ける。
「ユイルヴェルトの訴えを半分は認めます。ですがイヴリーズ皇女と私の関係は、神の教えに背くものではありません。そしてすべての責任は、卑しき身でありながら皇女に無理を強いたこの私にございます」
ついにイヴリーズとの関係を認める言葉に、今度こそ令嬢たちから嘆きの声が漏れる。
カレンは泣き濡れた瞳で兄姉たちを見つめながら、ようやくグリスウェンの真意を悟った。
(きっと最初から、兄上はこうするって決めてたんだ……)
イヴリーズが身籠っていることが露見した場合、彼女の立場と名誉を守るため、自分が皇家の血を持たぬことを告白し、無理やり関係を強いたことにすると。カレンを急に突き放したのも、陰謀に同母の妹が加担していることを疑わせないためだ。
罪を犯し、陰謀に手を染めようと、結局彼は誰よりも優しいグリスウェンのままだった。
次は明日更新予定です。