103、黄泉がえりの皇子
玉座に無造作に近づく青年に、まず最初に反応したのは、階段下で両脇を固める衛兵だった。彼らが槍を手に一歩前に進み出ると、その緊張をはらんだ気配に、近くで談笑していた人々の視線が集まる。ユイルヴェルトは穂先を向けられても動じた様子はない。かるく微笑んだまま、敵意がないことを示すように両手を上げた。
カレンの知る世界には『天使が通る』という、理由もなく急な静けさが訪れる現象に名前があった。この世界にも名があるかはわからない。だが少なくとも、今この瞬間それは起きた。
――曲の合間、人々が移動をするその時、一瞬だけ大広間を支配した静寂。
むろん、ユイルヴェルト本人すら意図した訳ではないだろう。だが彼もまた、非凡な才能を持つ皇家の一員であることは間違いなかった。何か神がかったものが、ユイルヴェルトの舞台を後押しするように、驚異的な運が彼を味方していた。
「父上、久方ぶりにお目通り叶いましたこと、恐悦至極に存じます!」
静寂の中、両手を広げて高らかな声でユイルヴェルトは叫んだ。その言葉に大広間中から視線が集まる。
皇帝を父と呼べる人間は限られている。今の宮廷にいる男子で、その呼びかけが許されるのは、第二皇子のグリスウェンだけだ。しかし明らかに第二皇子ではない背格好の、仮面を着けた青年に人々が不審な視線を向ける。
青年は玉座に背を向け、大広間に向き直ると、仮面を外し投げ捨てた。その顔が観衆の面前で露わになる。灰褐色の癖のある髪、空色の瞳。柔和ともいえる中性的で美しい顔立ちだが、眼差しに冷ややかな危うさがある。
その顔を見た、大広間の人々の間にざわめきが広がる。なぜなら青年の顔立ちは、壇上の玉座にいる皇帝の時を巻き戻したかのように、あまりによく似通っていた。
彼の正体に感づいた人々の口から、その名が上がり始める。反応に気を良くしたように、ユイルヴェルは悠然と笑った。そして再び皇帝へと向き直り、改めて礼を取る。
「今宵は精霊祭……にぎやかな音楽に釣られ、皇帝陛下が第四子ユイルヴェルトは幽世より戻って参りました」
ユイルヴェルトの言葉に、驚愕の声と悲鳴で大広間は騒然となった。無理はない。四年前、火事で惨たらしく焼け死んだはずの皇子が、生前の姿で再び宮廷に現れたのだ。
皇帝と皇子を名乗る青年を、せわしなく交互に見つめるイゼルダとは対照的に、隣に座すディオスは身じろぎ一つしなかった。玉座に肘をつき、無言のまま青年を見つめている。
「ユール!!」
錯乱状態陥る人々の中でも、その張りのある声はよく響いた。玉座へと近づいてきたのはグリスウェンだった。その後ろを、青ざめたイヴリーズが追いかけて来る。
「ユール! 本当にユイルヴェルトなのか!?」
まだ信じられぬように目を見開く兄に向かい、ユイルヴェルトは優雅に微笑む。
「おひさしぶりです、スウェン兄上。……兄上にはよく釣りを教えてもらいましたね。今も宮殿の西の森にある湖にはよく行かれるのですが?」
弟だからこそ知っている言葉に、グリスウェンの顔に笑みが広がる。
「ユール……生きていたのか……!」
「はい、この通り」
「どうして、どうして……!?」
今にも泣きだしそうなイヴリーズに、ユイルヴェルトが苦笑しながら肩をすくめる。
「イヴ姉上もお元気そうで……と、言いたいところですが、いささか顔色が悪いようですね」
そんなことはどうでもいい、という風にイヴリーズは首を振る。そしてユイルヴェルトの存在を確かめるように、勢いよく抱きしめた。
「ユール……どうして皆を騙すような真似をしたの……? 何があったかわからないけれど、まず家族で話をしましょう」
イヴリーズはユイルヴェルトから身を離し、玉座へと向き直ると皇帝に頭を下げる。
「――陛下、ユイルヴェルトは混乱しております。一緒に退出することをお許しください」
「待ってください、姉上。せっかくの舞踏会だというのに、まだカレンとしか踊っていないのですよ。――そうだ! せっかくだから姉上も私と踊っていただけませんか?」
「こんなときに何を言っているの!?」
姉の剣幕に、ユイルヴェルトがわざとらしく身を竦める。その口元に浮かぶ冷酷な笑みに、少し離れた場所で見守っていたカレンはひやりとする。
「ああ……これは失礼をいたしました。身重の姉上をダンスに誘うなど、僕の配慮が足りませんでしたね」
その言葉にざわめきが吸い込まれるように、周囲がしんと静まり返る。
イヴリーズはしばし言葉を失った後、やがて青ざめた唇をわななかせる。
「あなた……何を言っているの……?」
「ですから、姉上のお腹には御子がいるのでしょう?」
息を飲む気配や驚きの声が広がる中、ユイルヴェルトは動揺する姉に構うことなく、世間話のように会話を続ける。
「今は何か月ですか? 僕はよく知りませんが、初期ほどおとなしく過ごされた方がいいものなのでしょう?」
「――ユイルヴェルト」
地を這うような声で呼んだのは、グリスウェンだった。
「今すぐにこの場から立ち去れ! 宮廷を離れている間に、姉上への礼節も忘れたか? 今のは冗談で済まされる言葉ではないぞ」
「ははっ、冗談で済まされない真似をしたのは兄上たちでしょう?」
ユイルヴェルトが嘲りに唇を歪ませ、両手を広げる。
「まさか姉弟で子を成すなど、前代未聞の醜聞ですよ。それとも何か? お二人にはこの不始末に対して言い訳でもあるので――」
「黙りなさいっ!!」
淑やかなイヴリーズからは想像もつかない、甲高い悲鳴のような声にカレンの足がすくむ。
「……いくら血を分けた弟とはいえ、これ以上の侮辱は許しません」
扇を握る手を震えさせ、イヴリーズは青い瞳に激しい怒りをたたえていた。ユイルヴェルトはそんな姉に、平然と言い放つ。
「いいえ、姉上。最初から許しなど必要ありませんよ。――だってほら、僕は暗い土の底からよみがえった死人ですから。輝かしい未来を生きる生者を、同じ場所に引きずり落としたくて仕方ないんです」
「世迷言はもう結構! ――衛兵、ユイルヴェルトは乱心しています。今すぐに連れ出しなさいっ!」
上擦ったイヴリーズの声が響くが、すぐ側の衛兵たちは事態に困惑し、互いの顔を見合わせるばかりで動こうとしない。
「何をしているのですっ!? 早く――」
焦れたイヴリーズが後ろを振り向いた。そして観衆の声の中に混ざる、冷ややかな視線や嘲笑に気づき、声を失う。
――ある時から突然体調を崩したこと。体型を隠すようなドレス。グリスウェンとの親密な関係。それまでの、ありとあらゆる要素がイヴリーズの仇となっていた。
自分が置かれている立場に気づき、イヴリーズは血の気の失った顔でガタガタと震えだす。
(駄目……姉上!)
観衆はユイルヴェルトの告発を真に受け始めている。このまま何も反論しなければ、この流れは変えられない。ただでさえ人は自分たちが面白く、都合のいいことを信じ込もうとするのだから。
カレンは決意を固め、一歩踏み出した。――しかし、その腕が強い力で引っ張られる。痛いほどの力で、カレンの二の腕をつかんだのはロウラントだった。
「ロウ……?」
「行ってはなりません、殿下」
ロウラントは険しい表情で首を振った。