102、仮面舞踏会
宮廷では毎年秋の終わりを飾るように、仮面舞踏会が開かれる。この日は現世と幽世の境がなくなり、妖精や悪鬼がさまよう精霊祭でもある。
仮面舞踏会といっても、最近はだいぶ簡素化し、実際には仮面をつけず、化粧や装飾に少々工夫を凝らす程度の人も多いらしい。カレンは初めての仮面舞踏会だからと、白と金のレース地に、大きな羽飾りがついた仮面を用意してもらった。
黄金の妖精に扮したカレンは、今日の舞踏会でも注目の的だった。持ち手のついた、黒猫の仮面を眼前に掲げたミリエルの側に並び立つと、一層周囲の視線が突き刺さる。
「……最近はわたくしが、お姉様にへりくだったなどと噂されていますの。あまり近づかないでもらえます?」
可愛い格好をした妹が、実に可愛げのないことを言う。
「だって、姉上と兄上にはもっと近寄りにくいし……」
「知りませんよっ!」
ミリエルがぷいと横を向いた。
イヴリーズは馬上槍試合大会の引き続き、今晩も舞踏会に現れた。ようやく病が治ったかと、期待する声も上がっていたが、積極的に参加しているとは言い難い。イヴリーズはずっと大広間の隅で、静かに椅子に座って過ごしている。その周りを侍女たちが囲んでいるので、他の人々もやたらと近づけない。
イヴリーズの今日の装いは、東部領でよく見られる前合わせのドレスだ。腰の高い位置に帯のようなリボンが配されている。仮装をうまく利用し、下腹部を隠しているのだろう。
「イヴお姉様はやはり体調が悪いようですね……。お兄様と踊ったきり、あそこにずっと座ったままです」
さすがに舞踏会で、一切踊らないわけにもいかなかったのだろう。今日はグリスウェンがイヴリーズのエスコート役を務めている。ダンスの最中も始終イヴリーズを気遣う様子が見えた。
通常であれば、グリスウェンはイヴリーズの次にカレンをダンスに誘うが、今は目も合わせてくれない。おかげで慣例通り、賓客で最も身分の高いバルゼルトとたくさん踊る羽目になった。
「もう私にはミリーだけが癒しなのっ! 少しは相手してよ」
「わたくしは忙しいのです。お姉様こそ遊んでいる場合ではないでしょう? 選帝会議までもう半月もないのですよ。言っておきますけど、わたくしもまだ諦めていませんからね。そんなことではまた《ひきこもり姫》に逆戻りですよ!」
妹に整然と諭されて、カレンは頬を膨らませるが、返す言葉がない。
「まったく……子供みたいな顔しないでください。――ほら、あちらの男性がさっきからお姉様を見ていますよ」
ミリーの視線に誘われると、悪鬼の角を模した仮面の青年がこちらに向かってやって来るところだった。
今日は仮面舞踏会。実際は仮面を着けていない者も多く、その素性はだいたい見ればわかるのだが、あえてそ知らぬ振りで、普段はダンスに誘えない立場の者に声をかける無礼講が許される日だ。
青年がカレンの目の前で足を止めた、すらりとした体型でどこか中性的な印象だ。もしかするとまだ若く、十代かもしれない。
黒と金の派手な装飾の仮面は、人よっては仰々しく見えるかもしれないが、目の前の人物の華やかな雰囲気には合っていると思った。仮面を着けていても、その下は秀麗な顔立ちなのだろうと想像できる。
「麗しの女王陛下……私と踊っていただけますか?」
青年が胸に手を当てて、妖精の女王に仮装したカレンに礼を取る。灰褐色の少し癖のある髪が目についたが、記憶にない人物だ。
「わたくしでよければ、喜んで」
カレンは好奇心を押さえられず、青年が差し出した手の上に自分の指先をそっと重ねた。
大広間の中央に進み出て、青年と構えを組む。着かず離れずの位置取りが滑らかで、すぐにダンスが上手い人だとわかった。案の定曲が始まると、主張し過ぎず、けれどわかりやすい巧みなリードでカレンを踊らせてくれた。
「実は宮廷での舞踏会はひさしぶりでして……無作法があればお許しください」
青年に耳元でささやかれ、カレンはくすりと笑う。
「いいえ、とても踊りやすくて楽しいです。――実はわたくし、ダンスは大好きなのにいつも背の高い殿方の相手ばかりだから、心置きなく踊れる機会が少ないのです」
「ああ……なるほど」
青年が心得たように笑う。その様子から、やはりカレンの正体がわかっていてダンスに誘い出したようだ。
カレンディア皇女が立場上、宮廷の中でもかなり長身の部類に入るグリスウェン皇子や、バルゼルト王子らと踊る機会が多いことは周知の事実だ。幼少期から宮廷にいる彼らとて、ダンスの技量は高いが、身長の差ばかりはどうしようもない。
次の曲に入ったあとも、カレンは青年と密かなおしゃべりを続ける。
「正直、背が高過ぎる方は疲れます。だってお話するにも、ずっと見上げなくてはならないんですよ」
一番身近な従者を相手していると特にそう思う。ターンの時さりげなく壁際を見やると、その『頭の高い』従者がこちらを見ながら、面食らった顔をしていた。カレンは自分の予想が当たっていることを確信する。
「私は子供の頃から、背の高い兄たちが羨ましくて仕方ありませんでした。しかしそういうことなら、人並みの身長もむしろ役得ですね」
「気になさることはありませんよ。二番目の兄君が高過ぎるだけです」
「え?」
青年が虚を突かれた声を出す。リードがわずかに遅れた。
「でも一番目の兄君も、態度の方は規格外ですね」
ターンに合わせいたずらっぽく微笑むと、呆気に取られていた青年が喉の奥で小さく笑った。
「……さすが、その規格外が絶賛するだけある」
「わたくしのことを、よくご存じのようですね」
「ロウラントから色々話を聞いていたからね」
「どうせ悪口でしょう? ――改めまして、初めましてユール兄上」
声をひそめてその名を呼ぶと、六人兄弟姉妹の最後の一人、ユイルヴェルトは取り繕っていた表情を脱ぎ捨て、晴れやかな笑みを浮かべた。
「初めまして――というのも変な感じだけどね。でも本当に以前のカレンディアとは違うんだね……」
「私も何でこうなったのかはわからないの」
「……そう。では君を必要としたのは運命かもしれないね」
不思議な言葉に、カレンはまじまじとユイルヴェルトを見つめる。仮面の奥に空色の瞳が見えた。春の昼下がりを想わせる、穏やかで淡い空の色だ。しかし今はかすかな憂いに陰っている。
やがて曲が終わり、ユイルヴェルトが深々と礼を取った。
「――君はラン兄上のことを守ってくれ」
小さな声であったが、その声音は緊張感に満ちていた。
離れていくユイルヴェルトをカレンは茫然と見送る。何か張り詰めた空気をまとうその背中に、危険な予感を覚える。
「――殿下!」
ぼうっとしている間に、ロウラントが側に来ていた。
「今の相手はユールですよね? あいつがどうして……何か言っていましたか!?」
「ロウのこと、守ってくれって――」
ロウラントが弾かれたように、ユイルヴェルトの方を見る。
彼が向かう先には、壇上の玉座があった。皇帝ディオスはダンス嫌いで知られていて、今日も二人の皇妃と形ばかり踊った後、そうそうに玉座へと引き上げていた。今もいつものごとく、何の感慨もなさそうな表情で大広間を眺めている。
その両隣には二人の皇妃の椅子があった。壇上にいるのは第一皇妃イゼルダだけで、第六皇妃ベルディ―タの椅子は空席だ。
夫とは対照的に、ダンスやおしゃべりが好きなイゼルダが椅子に座ったままなど、少し珍しい光景だ。イゼルダは扇の影で何か語りかけているようで、ときおり皇帝が小さく相槌を打っている。
「あのバカ何をっ……!」
ロウラントが毒づいたが、ユイルヴェルトの背ははすでに手の届かぬところにあった。