100、求婚
イヴリーズの言葉にグリスウェンが目を見張る。
「いいのか?」
「考えがあるの。もう少しだけなら、ドレスの形次第で体型は誤魔化せる。あなたが皇太子になったら、すぐに私をコレートという街に送るように進言して」
「コレート……? 直轄領のか?」
「そうよ。コレートは皇家直轄領だけど、敬虔なイクス教徒が多く教団の力が強い土地よ」
今は先々代皇帝の弟であり、領主に任じられた元皇子アルガスという人物が治めている。
「領主のアルガス様がお年を召して、隠居を考えていると聞いたの。だからその代わりに私を据えたいと父上に進言して。教団との関係が難しい土地だから、デ・ヴェクスタ家の血を引く私を送り込むのは不自然ではないわ」
グリスウェンが難しい顔で考え込む。
「それなら宮廷からは離れられるが、秘密裏に子供を産むなどできるのか?」
「コレートには司教で私の叔母上に当たる方がいるわ。あの方なら大司教にも内緒で、私に力を貸してくれるはずよ。出産もその後のことも頼りにできるわ」
選択肢の一つとしてはずっと頭の中にあった。ただ帝都からそう距離のない場所で出産するなど、安易に選択できない手段だ。それでも今は最後の賭けに出るしかない。何も諦めず、大切な物をすべて守るために。
「……陛下は『祝福』を持ったお前を宮廷に残したがるだろう」
「コレートならここから馬を飛ばせば半日もかからないわ。将来は私を補佐官として登用したいと言えばいいわ。それなら地方領主の経験は無駄にならないから、父上も納得されると思う。――いずれ私も宮廷に戻れるわ」
その言葉にグリスウェンの心が動くのが分かった。
「戻ってきてくれるのか?」
「スウェンが必要としてくれるならね」
「当たり前だろう!」
イヴリーズは複雑に笑う。
「……でもその頃には、あなたにも妃や子供がいるかもしれないわよ」
「そんなものはいらない」
「そういう訳にはいかないでしょう」
「妃は持たない。世間には、男色家か何かだと思わせておけばいい」
「さすがにそれはちょっと……」
投げやりに言うグリスウェンを、イヴリーズは呆れたように見やる。
「……俺に跡継ぎができなければ、妹たちに結婚の許可が降りるだろう。そうして修道院送りになった皇女に、後から世俗に戻る許可が出た例もあると聞いた」
グリスウェンの思惑を知り、イヴリーズは苦笑する。
「あなたが妹のためなら苦難もいとわないのは知っているけど、男色家を公言するのはやめておきなさいね」
ただでさえ騎士団に、やたらと信奉者が多いグリスウェンだ。別の問題が発生しそうだ。
「その子をいずれ宮廷に呼ぶことはできるだろうか?」
グリスウェンの視線がイヴリーズの腹に向けられる。
「ある程度大きくなったら、適当な身分を用意しましょう。男の子ならあなたの小姓に、女の子なら私の小間使いとしてなら側に呼べるわ」
「よし、それなら問題はこれで全部解決だな」
冗談めかして肩をすくめるが、グリスウェンもそれがどれほど困難なことかわかっているはずだ。
一つたりとも失敗が許されない、何年、何十年にも渡る綱渡りのような状況が続くことになる。何も諦めないとはそういうことだ。とにかく最初に最大の難関である、グリスウェンが皇太子になるという目的が果たされなければ、すべてが破綻する。
グリスウェンがふいに大きなため息をつく。
「それにしても妻が官吏で、子供は使用人か……さすがに心が痛むな。最悪を考えれば、近くにいられるだけましだが」
「妻……?」
きょとんとして自分を見つめるイヴリーズに、グリスウェンは頬を引くつかせる。
「イヴに花冠を渡しただろう? 受け取ったじゃないか……」
「あれ、そういう意味だったの!?」
「何だと思ってたんだ!?」
勝利者の花冠。試合に勝利した騎士が想い人に花冠を捧げれば、それは結婚の申し込みと見なされる。そして花冠を女性が受け取れば、申し出を所諾したことになる。もちろん知識としては知ってはいたが――。
「だって妹に無視されたから、仕方なく私に押し付けたのかと……」
「最初はそのつもりだったんだ。でもよく考えたら、妻にしたい人がその場にいるんだ。それならやることは一つだろう?」
「どうしてそう場当たり的なのよ……」
イヴリーズは思わず額を押さえる。
「すまん……。てっきり俺は了承してくれたものと……」
「わかるわけないでしょう! どこの世界にこの状況の中、公衆の面前で求婚する人がいると思うの!?」
「……嫌だったか?」
あの子供の頃と同じ、恐る恐るうかがうような表情にやっぱりずるいと思う。
「嫌じゃないわ。順番がちょっと違うけれど、求婚を省略しなかった点は評価してあげる」
「お、お前なあ……」
尊大な言葉に、グリスウェンが面食らう。
「いいわよ――喜んでお受けするわ」
つんと横を向いたままの、素っ気ない言葉にも関わらず、グリスウェンはうれしそうに破願する。この太陽のような笑顔を前にすると、つくづく自分は何も敵わないと苦笑する。
一度怒られて懲りたのか、グリスウェンは先ほどより丁寧にイヴリーズ引き寄せ、胸の中に収める。子供のように高い体温と陽だまりのような香りに酔いしれていると、顎に手を添えられ、何度か食むように口づけられた。
そして以外にもすんなりと開放される。イヴリーズは不思議に思いグリスウェンを見上げた。
「さすがにこれ以上は差し障りがある。……ただでさえ、我慢を強いられているんだ」
照れたように顔を逸らされ、イヴリーズは小首を傾げる。
「二十一年も禁欲を続けておいて今更?」
「……人が気にしていることを口にするな」
男社会である騎士団で、その手のことを揶揄されていたのは想像に容易い。思わず噴き出したイヴリーズにグリスウェンは苦い表情を浮かべるが、ふいにその目を細めた。瞬時に緊張感をみなぎらせたグリスウェンが、イヴリーズに向かって口元に人差し指を立てる。