98、変わりゆく形勢
「カレンは私たちの秘密を世間に明かさないと言ったわ。信じていいと思う」
「そうだな」
「でも、皇太子候補から降りることには同意しなかった。考えるとは言っていたけど、こちらは期待できないわね」
「俺がすべきことは変わらないということだな?」
「ええ。ただし状況は少し難しくなったわ」
大司教がカレンディアを堂々と支持し始めた。イヴリーズと手を切った上、カレンディアにも袖にされた以上、何もできまいと思っていたが甘かった。やはりあの男は抜け目がない。
無理やり貸しを作る形で、カレンディアの支持を表明してしまった。おそらく一番動揺しているのはカレンディア自身だろう。皇太子になれたとしても、今後教団をどう扱うか大きな課題を抱える羽目になる。気の毒な話ではあるが、イヴリーズとグリスウェンに妹の心配をしている余裕はない。
イヴリーズはぐったりしながら、目頭を押さえる。
(この盤面で修道騎士団を取られたのは、少し痛手だったわね……)
先日、修道騎士団の総長と幹部数名が破門を受けた。理由は聖職者の身でありありながら、娼婦と同衾している現場を押さえられたらしい。大司教に陥れられたのは間違いないが、あれほど身辺には注意するよう忠告したのにこの様だ。
元々信奉の対象へ己を捧げることに陶酔しているような、知性には期待できない者たちだったが、さすがにこのお粗末な結果は頭が痛くなった。
少なくとも彼らの存在は、日和見を決め込もうとした者たちへのいい牽制にはなっていた。今後は大司教の息がかかった者に、修道騎士団は統括されるだろう。グリスウェンの味方とする目論見は潰えた。
(……後回しと言わず、大司教を真っ先に始末しておくべきだった)
悔やまれるが後の祭りだ。
ただ、大司教が秘密を暴露する動きを見せないのは予測通りだ。将来皇帝になったグリスウェンを強請る道筋も、まだ彼の頭にあるのだろう。
(いっそ大司教をどうにか懐柔して――いいえ、駄目だわ)
そんなことに気を取られては、それこそ大司教の思う壺だ。もう時間はない。今は宮廷の情勢に集中すべきだ。
(そもそもカレンの一番重要な味方は大司教じゃない……)
イヴリーズはグリスウェンを少し見やって苦笑する。フレイには重要な情報はすべて差し出すように要求したが、結局彼は一番肝心なことをイヴリーズに伝えなかった。その律儀な正義感は、どこかグリスウェンと通じるところがある。
薄々感じていたが、カレンディアには優秀な参謀役が存在するのはもう間違いない。そうでなければ、最も完璧な局面でカレンディアが台頭し始めたことは、いくらなんでも出来過ぎている。人目を惹く主の影に隠れ、ずっとその参謀が暗躍していたと考えれば納得がいく。
頭をちらつくのは、一年近く前に突如現れたカレンディアの不愛想な従者だ。もし彼が参謀ならば、自分たちと年齢がそう変わらぬ、たかが一騎士に過ぎない青年がカレンディアを盛り立てたことになる。認めるのは悔しいが、宮廷を熟知した自分たちと渡り合うなど相当な手腕だ。
しかし大司教にしろ従者にしろ、裏から手を回して潰すには時機を逸している。もう真っ向から突き進む以外にできることはない。
「……残念だけど現状は認めましょう。教団関係者とその繋がりがある貴族は、ほぼカレンに付くことになるわ」
「イヴが最初に持ってた支持者をカレンが手に入れた形か。……妙なことになったな」
「まったくよ。でもいい誤算もあったわ」
それはグリスウェンの宮廷内の支持者が格段に増えたことだ。ここに来て、やはり帝国を統べるには男子がふさわしいと、旧臣たちからの声が上がっている。個々の才覚は抜きで、単純に男女の利点だけで比べれば、跡継ぎや体力的な問題からどうしても男子が優位だ。
そして勤勉で実直だが寛容でもあり、誰にでも礼儀正しいグリスウェンの性格は、人の上に立つ者として好ましく思う者も多い。軍部関係者も目論見通り、ほぼグリスウェンの味方についた。
残りの懸念は、カレンディアとドーレキアの王子との繋がりをどう見るかだ。ルスキエは周辺国との関係が良いとは言えない。ドーレキアはほぼ唯一の対等な同盟国だ。その次代国王と目されている第二王子バルゼルトは、とにかく扱いが難しい人間として有名だ。
外交関係者にも、あの粗野な見た目に寄らない知性を兼ね添えた彼と、対等な会話ができる人間がいない。どうにか懐柔しようと話題を振れば、その豊富な知識と思考の切れ味に、大概の人間は気圧されてしまう。やっかいなことにバルゼルトは道理は通す性格のため、批判することも無下に扱うこともできない。
そのバルゼルトをあっさりと絆したのが、まだ十代の少女であるカレンディアという事実は、宮廷に驚きを与えた。
宮廷でにこやかに会話を楽しむばかりか、バルゼルトは自分が逗留する屋敷にカレンディアを呼び、手ずからシャトランの手ほどきまでしているという。カレンディアの人の心に巧みに入り込む能力は、もはや外交上でも無視できない人心掌握術だ。
往生際の悪いトランドン伯爵らから、『カレンディア皇女をドーレキアに嫁がせては』という意見もあったらしいが、血の管理の問題で、皇女を国外に出すのはやはり難しいとされた。
そもそもバルゼルトは未亡人に夢中で、それを公言している。むしろ色仕掛け抜きで、バルセルトを陥落させたという、カレンディアの有能さの証明になった。
イヴリーズは策略をもいとわない覚悟はあったが、ここに来てつくづく自分は凡才なのだと思い知らされた。グリスウェンもそうだが、カレンディアはやはり天性の才という物を持った人間だ。暴力的なまでに周囲を巻き込む魅力は、運すらも引き込んでしまう。こちらの懸命な小細工など物ともせず蹴散らしていく様に、空しい気持ちになってくる。
「スウェンは今まで通り、軍部の人間や旧貴族を中心に積極的に接触の機会を作ればいいわ」
あとは今まで日和見を決め込んでいた人間の支持を、選帝会議までにどれだけ集められるかだ。選挙制ではないので、支持表明の数で皇太子が決まるわけではないが、数字という目に見える明らかな価値は、必ず選帝会議に強い影響を与える。
とにかく現状は何もかもが後手に回っている。まだ致命的な要因はないが、こちらの運をじわじわと吸い取られているような嫌な状況だ。カレンディア陣営に主導権を握られたまま、終局を迎えるのだけは避けたい。
イヴリーズの予定では、今頃すでに宮廷を脱出しているはずだった。しかしこの状況を前に、背を向けるわけにいかなくなってしまった。選帝会議のその日までとは言わないが、その前の最後の公式行事となる秋の舞踏会までは、せめてグリスウェンの側で状況を見守りたい。
すでに従者のジュゼットと侍女頭、そして二人の侍女にはすべての事情を明かしてある。いずれも実家と縁が切れている者や未亡人など、よそに柵のない忠義者を選んだ。
散々叱られ、泣かれもしたが、ありがたいことにこのような事態になっても、イヴリーズに変らぬ忠誠を誓ってくれた。舞踏会が終わればすぐに宮廷を脱出できるよう、彼女たちには密かに準備を進めさせている。
「ところでイヴ、他に俺にできることはないか?」
「さっきも言った通り、あなたはいつものままでいいのよ」
グリスウェンもまた天性の人を惹きつける才能の持ち主だ。余計な入れ知恵をしない方がいい。――そういう意味で言ったのだが、グリスウェンの表情が曇った。
「……いや、その話じゃなくてな」
困惑するような、どこかすがるような視線に、イヴリーズは居心地の悪さを覚える。グリスウェンの手がイヴリーズへと伸ばされる。
「な、何?」
頬に添えられた大きな手の温もりと、寂しげな笑みに心臓が高鳴った。
「――まいったな。できれば、イヴの口から直接聞きたかった……」
その言葉にイヴリーズは思わず身を引いた。