97、幸せになれなかった皇妃
2023年3月21日
一部表現の修正
「カレンに私たちの関係を知られてしまった」
そう告げた時、意外にもグリスウェンは動揺することなく、「そうか……」とつぶやいただけだった。
ここ最近グリスウェンの自室には、大きなソファが置かれるようになった。イヴリーズはそこに座ったままうつむいていた。隣に座るグリスウェンは静かな口調で問う。
「カレンが皇家の血を継いでいない可能性は話したか?」
「話してない。あなたがそうであることも」
「そうか。……ありがとう」
グリスウェンはほっとしたように笑った。
そしてしばらくしてから、気まずそうに口元を覆う。
「あー……ということは、カレンの中で俺は実の姉に手を出したことになるのか……」
「あの子は、私たちが選んだことなら間違いじゃないって言ったわ」
「ははっ、少し複雑な気分だがカレンらしいな。度量が深いというか、何と言うか」
そう笑うグリスウェンの眼差しは、妹への慈愛に満ちていた。
「……私、あなたに言っておかないといけないことがあるの」
不穏なものを感じ取ったグリスウェンの目が細められる。
「何をだ?」
「あなたの父親についてよ」
「――いい。言う必要はない。どうせ責任も果たさず、どこかへ雲隠れしているような男だろう」
グリスウェンは嫌悪を隠さずに言った。予想通りの反応だ。
だが宮殿を出奔したらもう伝える機会はないかもしれない。イヴリーズとしても、黙ったままでいるわけにはいかなかった。
「庇い立てする義理はないけれど、正体を隠しているのは、カレンを傍で見守り続けるためよ」
「カレンの所に? そんな男が仕えていたか……」
「あなたも知ってるはずよ。カレンの礼儀作法の指南役のフレイよ」
グリスウェンは質の悪い冗談を聞いたように、口の端を持ち上げて笑う。
「フレイって母上の友人の? つい先日も見かけたが……いや、お前何を言って――」
「フレイは男性よ。長年カレンに仕えているけど、あの人が胸元や首筋を露出する服を着ているところ、見たことがある?」
「……ない」
絶句し頭を抱えるグリスウェンに、イヴリーズは言う。
「大司教の調べでは、彼は三代前のタルタス王の曾孫に当たるの。例の大粛清から逃れるために故郷を離れ、身の上を偽ってこの国の女子修道院に逃げ込んだのよ。――実はあなた、馬の骨どころか血筋は良いのよ」
「……慰めにならない」
うめくようにつぶやくグリスウェンに、イヴリーズは短く嘆息する。
「そうでしょうね。ごめんなさい」
イヴリーズはつと考えて言う。
「私が口を挟むことじゃないけれど、フレイの存在はルテア皇妃にとって救いだったはずよ。……少なくとも、私の母よりは幸せだったでしょうね」
イヴリーズは近頃、母セリシア皇妃のことをよく思い出す。母はイヴリーズが八歳の頃に病で亡くなっている。記憶にある彼女は、娘の目から見ても気弱で神経質な人だった。父兄の意向に逆らえず、宮廷に送り込まれてきたが、最後まで地位や環境に馴染むことはなかった。
兄弟姉妹たちの父ディオス皇帝は、内心はともかく表面上は妃を平等に扱い、全員に敬意をもって接していた。しかしセリシアにとって、それすらも押し付けられた苦行でしかなかった。父がセリシアの部屋を訪ねてくると、礼儀正しく迎えてはいたが、その態度はどこか気後れしていて、夫と目も合わせようとしなかった。
そんな二人の間に生まれたイヴリーズの存在は彼女にとって、救いどころか負担でしかなかった。皇帝の長子であり、最も高貴な血筋に生まれついたイヴリーズは、生まれた瞬間から次期皇帝になりうる皇女と見なされていた。周囲の期待が大きければ大きいほど、それは母であるセリシアへの重圧となった。
幼い頃から我が強く、やんちゃなイヴリーズに、母はさめざめと泣きながら言った。『どうして大人しくできないの? どうして姫君らしくできないの?』と。
セリシア自身は深窓の令嬢として、屋敷の奥で大切にかしずかれ育ったからだろう。部屋で人形遊びや刺繍をするより、弟たちを引き連れ、野山で泥まみれになって遊ぶ娘を心底理解できなかったようだ。母はイヴリーズが成長するにつれ、距離を置くようになった。たまに会えば眉をひそめ、ため息をつかれた。
イヴリーズもいつしか母に愛を求めることを諦めた。代わりに弟妹たちを可愛がることで寂しさを埋めた。母が死んだ時、悲しくなかったわけではないが、肩の荷が下りたような気がした
母自身も高貴な血筋に生まれ、皇妃となり、一番早く皇帝の子を得た。国中の女たちがうらやむ境遇にありながら、誰も愛せなかった彼女はまったく幸せではなかったのだ。
イヴリーズはかすかに膨らんできた己の腹に手を当てる。母に愛されなかった、母を愛せなかった自分が今度は母となる。
少女の頃は母を疎んじたが、今は憐れむ気持ちの方が強い。望まぬ世界に送り込まれ、愛のない子供を産み育てることを強要されたのだ。
子を宿し、自分の体が内側から変わる不安と恐怖を知り、ようやく思い至った。愛する者の子だから耐えられるのだと。皇太子になれば母と同じ道を歩むとわかっていたが、今はその覚悟が甘かったと思う。これが愛のない押し付けられた義務ならば、きっと心が耐えられない。
「俺は母上やフレイを許すべきだと思うか?」
今は自分が親になる立場だからだろうか。子供に憎まれる親が一人でも少なくあってほしい、と思ってしまうのが本音だ。だがフレイたちの件に関して、イヴリーズに結論は出せない。
「あなたが決めることよ、スウェン。どちらも間違いではないわ。ただ彼がいなければ、あなたはもちろん、おそらくカレンも存在しなかった。だから私はフレイに感謝しているわ。それに……彼を脅迫していた負い目もあるし」
「そんなこともしてたのか!?」
呆れるような、半ば感心するよう目で見られる、イヴリーズは気まずくなる。
「悪かったわね。私はそういう人間なの。秘密を盾に彼を脅して、カレンの香水を手に入れたり、情報を聞きだしていたわ」
「……その点はフレイに同情するよ」
グリスウェンの表情が少し和らいでいることに、イヴリーズはほっとしていた。