96、誓約の騎士
少し苦しいほどの力で抱きしめられたが、彼のこれまでの孤独を思えば拒絶できなかった。身の内に閉じ込めるような執着じみた抱擁に、「しょうがないなー」と苦笑する。
「――いいですよ。もう身分も本当の名前もない、この身一つの存在ですが、全部あなたに差し出します」
乱暴な扱いとは裏腹に、彼の声は優しかった。カレンはその背に腕を回す。
「うん……」
ロウラントなら必ず自分の手を取ると確信していた。なぜなら彼も自分と同じ狂人だ。そしてカレンにはロウラントが必要だ。彼ならば心置きなく危険な賭けにも投じられる。
ロウラントはどんなに苦難な中にあろうと己を見失うことなく、悪魔と交渉してでも自分の魂を取り返すだろう。そして必ず無事にカレンの元へ戻ってきてくれると信頼できた。――ロウラントがカレンを信じ、玉座へ押しやったのと同じように。
『すべてを差し出す』とまで言ったのに、カレンがたいして感動することもなく、余裕の態度だったのが悔しかったらしい。ロウラントはカレンの頭の上で小さく舌打ちした。カレンはなだめるように、その背をポンポンと叩く。
以前ロウラントはカレンに向ける好意を、あくまで友情だと言い張っていたが、あれから数か月経った。自分たちの関係はきっとあの頃とは少し形が変わってきている。
この世界の誰よりも互いを必要としているはずなのに、いざとなれば相手を死地に追いやることもいとわない。強いて言うなら、背を預け戦う戦友に近いのかもしれないが、互いへの陰湿なまでの妄執がそれだけでは説明がつかない。この関係にどんな名前を付けようと、一般的な物よりはずっと狂気に寄っているはずだ。
「ま、仕方ないって。こんな魅力的な人間が目の前にいたら、愛しちゃうのは自然の摂理でしょ」
「そろそろ本当に黙ってくれませんか。その通りなんですが、言葉にされると死ぬほどやるせない気持ちになる……」
(……ん?)
カレンが顔を盛大にしかめて、今の言葉を頭の中で反芻する。困惑が伝わったのか、ロウラントの体にくぐもった笑いが響くのがわかった。
やがてロウラントはカレンを解放すると、おもむろに自身の剣に手をかける。鞘が鳴る音と共に、銀色の刀身が現れた。剣の刃を持つと、柄の側をカレンに差し出す。
「殿下にお願いがあります」
「……えっ……何?」
抜き身の剣を前に困惑していたが、臣下のお願いを聞く度量はあると豪語したばかりだ。
「俺を殿下の騎士にしてださい」
「騎士にって……従者って最初からそういうものじゃないの?」
「厳密には、俺は騎士の叙任を受けたことがありません。ディアの元にも無理やり押しかけたので、きちんと誓約は交わしていませんでした」
しれっと言うロウラントに、カレンは少し考え込む。
「……それモグリだったってこと?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。最後の儀式を受けていないだけで、騎士になる要件は十分満たしています」
騎士になるのに必要な技能や実績は、当人の身分や主君の裁量によって異なる。むろん身分が低いほど条件は厳しくなる。皇子だったロウラントなら一定の年齢に達した時点で、ほぼ自動的に騎士の称号を得られたはずだ。実力に関しても言うまでもない。
(車の運転はめちゃくちゃウマいけど、無免許だったみたいなもんかな……?)
やっぱりモグリなのでは、と首を傾げつつも、ここでカレンがロウラントを騎士と認めてしまえば、どうせ帳消しだ。皇族なら独自の判断で騎士を任ずることができる。
「それに俺はあなたに永遠の忠誠を誓いたいんです、カレン」
ロウラントは何か憑き物が落ちたように、見たこともない晴れやかな表情を浮かべていた。ここぞとばかりに名を呼ばれ、思わず熱の上る顔を逸らす。夜でよかったと心から思った。
「あざと……」
「殿下に言われたくないです。――ほら、持ってください」
促されて、カレンは剣の柄を両手で持つ。想像よりもずっしりと重い。
「こんなの毎日振るってたんだね……」
「足に落とさないように、気をつけてください」
これはもう断れる空気ではないなと、カレンは覚悟を決める。
「何て言えばいいの?」
「大体の形式はわかるでしょう。後は自分の騎士に何を求めるか、好きに言えばいいんです。絶対の忠誠とか義侠心とか……」
夏の初めに新たな近衛騎士の叙任式があり、騎士たちが皇帝の前に跪く姿は見えたことがある。カレンは必死に記憶をたどる。
美しい詩的な言葉など考えつきそうにない。この際、ただ思うままを伝えようと思った。しばらく考えた後、ロウラントに向かってうなずいた。
ロウラントがカレンの前に跪き頭を垂れる。その微塵も迷いのない動作にカレンの緊張が増す。片手に剣を持ち、重さに震えるのを堪えながら、ゆっくりとロウラントの肩に剣の平を置いた。
一息すって口上を述べる。
「我が騎士とならんとする者、其の剣、其の名誉、其の魂、其のすべてが――」
――命尽きるまで、と言おうとしてやめた。
「永遠に我と共にあることを求めん」
ロウラントのことは、魂の一欠けすら残さず地獄の底まで連れて行く。
ロウラントの肩を三回剣に平で叩いた。
「――立ちなさい」
主から誓約の言葉を賜り、立ち上がることで、その人はただの人間から騎士として生まれ変わる。
深い闇夜をたたえた双眸が、カレンをただ真っ直ぐに映す。月明かりの下でもはっきりとわかる、意志の強さを宿した切れ長の目、怜悧な月を思わせる端正な顔立ち。思わず魅入られていると、固く引き締められていた口元がかすかに弧を描いた。
(ほーんと、あざといなぁ……)
大人の男を心から美しいと思ったのは初めてだった。