朝奈さんの心音
「し、心音なら、すぐ済むから……ね?」
「聞きたい……です」
自分の頭が痺れている気がする。寝不足と、手が触れそうなほど近くにいる、朝奈さんの甘い香りのせいで。ぐるぐる考える頭を、今すぐ止めたかった。
朝奈さんは俺の手を取った。朝奈さんの小さな指が、柔らかい手が、ギュッと俺の手を握る。
「準備……するから」
朝奈さんが俺を引っ張って、廊下から部屋に連れ戻す。俺は言われたことだけを守るロボットみたいに、朝奈さんに引っ張られるがまま歩く。朝奈さんの茶髪からのぞかせる耳が赤かった。
俺は朝奈さんの手を離さないことだけに、自分の脳みそを使っていた。他のことを考えることを、俺は拒否していた。
考えても、どうせわからない。
「クッション、使って? 柏木君」
朝奈さんは片手でクッションを掴み、ベットの側に置いた。俺は言われるがまま、クッションの上にあぐらをかく。朝奈さんの手が離れた。
「機材取ってくる。ベットにもたれていいよ?」
朝奈さんのベットにもたれないよう、無意識に背筋を伸ばして座っていた。朝奈さんに言われた俺は、素直にベットに背を預ける。
朝奈さんが機材を取って来た。朝奈さんが同じようにベットにもたれかかり、俺の隣に座る。
「柏木君、これつけて」
朝奈さんがイヤホンを渡してきて、俺はそれを両耳につけた。
「準備はこれだけ。心音聞くだけならすぐでしょ?」
「うん」
「今からマイク当てるから……」
「……うん」
朝奈さんがマイクを自らの胸にそっと押し当てる。どくんどくん、と朝奈さんの心音が、俺の両耳から聞こえる。朝奈さんも俺も言葉を発さない。静かな部屋に、朝奈さんの心音だけが俺の鼓膜を叩く。
これは、『ゆかなん』の心音。俺は契約を守るために来ているだけ。戒めを、忘れちゃいけない。じゃないと、俺は……。
——そっと、朝奈さんの手が、床に置いていた俺の手に重ねられた。
朝奈さんの方を向くことなんかできなかった。聞こえてくる心音が少し早くなった。どくんどくん、と両耳から聞こえる心音と、朝奈さんの甘い香りは、俺の思考をショートさせる。
自分はちゃんと、呼吸ができているだろうか。手は、足は、動くだろうか。これは、普段と同じ現実なのだろうか。
朝奈さんの指が、俺の指の間に入り込む。俺の指と朝奈さんの指が絡まって、少し震える朝奈さんの指が、か細い力で俺の手を握る。
自分の心臓の音も、両耳から聞こえる心音も、どちらも騒がしい。
俺は限界だ。とっくに限界だったのだ。
……寝不足で。様々な心理的揺さぶりの果てに、眠気が俺のとどめをさした。電池が切れるように俺の意識は途切れ、俺は朝奈さんにもたれかかるように眠ってしまった……気がする。「柏木君!?」と、朝奈さんの驚くような声が耳に入った気もするが、構わず俺は深い眠りに落ちてしまった。




