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婚約破棄からはじまる自分探し  作者: 一集
第四部 騎士からはじまる自分探し
30/35

5.追えない背中



手紙の返事はアルトの出立の日まで届かなかった。

今日も今日とて空のポストを覗き、勝手に期待して落胆している自分を恥じる。


「……そりゃ、そうか」


都合よく頼ろうなんて虫が良すぎる。

誰かにそう言われているような気がした。


アルトとしてはただ、ルークならきっと言ってくれると思ったから。

『戦争に行く』なんて書けば、血相を変えて駆けつけてくれると。


「あの時のアリシアもこんな気分だったのかな」


心細そうな顔をして、縋るようにアルトを訪ねてきた彼女を思い出した。

アルトは腕で目を覆う。


「誰か」

誰か、と。


別に、攫って欲しかったわけじゃない。


――逃げろ、と言ってくれればそれでよかった。

だからと言ってアルトは逃げたりはしないし、きっと剣を手に騎士団と共に王都を去り戦場を目指す。


ただ、

全部を捨てて、現実から目を背けることを、誰かに許容して欲しかっただけ。


ルークなら、絶対、きっと、必ず、アルトが望んでいなくたって、救おうとしてくれるとアルトは信じていたのだ。


「そうしたら、言えるのに」


そうしてやっと、言える言葉がある。


大丈夫だよと、笑って。

そんな風に思ってくれるあなたを、悪者にするわけにいかないから。

あなたのいるこの国を守りにいく、と。

言えたと思うのに。


――でも返事はこなかった。

駆けつけてくれることも、なかった。

姿を見ることもなかった。


だから誰かに救ってもらいたかった自分に蓋をした。


「行ってきます」


アルトは毎日のぞいていた自分の名が書かれたポストに声をかけた。






戦場は遠かった。

王都からの距離的にもだが、戦場に着いても、実力のないアルトが前線に立たされることがまずないので、ドンパチやっている場所がそもそも遠い。


同僚たちが心配でもあったが、有難いと言えばありがたい。

アルトでは戦場に死にに行くようなものだ。

そんな人間を参戦させるような事態になれば、それはもう国の敗北も間近だということに他ならない。


では現在アルトが何をやっているのかと問われれば、衛生兵よろしく、毎日必死に怪我の治療と食事の用意である。


アルトとしては凄惨で陰惨な、人々が次々に病に倒れていくような現場を予想していたのだが、反して物資はわりに豊富で、希少なはずの治癒薬もそれなりに揃っていた。

最低最悪の状況にはまだほど遠い。


とはいえ、ここは戦場。

大量の赤はいやでも目にしたし、死は当たり前に身近になった。


血だまりや欠損、はみ出た内臓を見て悠長に吐いていられたのも最初だけ。

喉を通らなかった味気ない食事も無理矢理嚥下することを覚えたし、脳裏にチラつく悪夢をねじ伏せて眠る術も身に着けた。


アルト本人が一番びっくりしていたりする。

繊細を気取っていたわけでないが、なかなかどうして、「う~ん、人間、やっぱり案外図太い!」ということなのだろう。


隊長やロウ、サラ、ルシャナたちは毎日戦場(前線)を飛び回っているようだ。


「一騎当千とはまさにあれよ! あのことよ!!」


怪我で運び込まれてくる味方兵からその武勇を伝え聞く。


「はいはい、後で話は聞くから、今は大人しく治療されてください」

「なんだよ、つまんねえヤツだな」

「早く前線に復帰したいなら黙って回復に努めること! はい、終わり!!」

「ッいってー!!」


片や戦場の華、片や後方支援の微力な一人。


そもそもからして、アルトが彼らと近しかったことの方がおかしいのだ。

実力差は戦場での距離以上にあったのだから。


彼らとまた道が交わる日がくるとは思えない程に遠く感じる。


「アル、すまん! こっち手伝ってくれねえか!?」

「いま行くから、少し待ってて!」


それでも、前線とは違う目まぐるしさがここにはあった。


そんないつ終わるともしれない日々が、段々と日常のように感じて麻痺してきた頃のことだ。


――ロウがキャンプを訪ねてきた。


顔を見るのはどれくらいぶりか、遠くの英雄に突然遭遇したような気分になったが、ロウの方はいつもと変わらない調子で気さくに話しかけてくる。


「よう、アルト! 無事に生きてるか?」


カラカラと笑う顔には影の一つも、疲労の一つも見えはしない。

肉体的にも精神的にも、怖ろしい程タフな男なのだと、今更知った。


「なんとかね。そっちも無事なようでなによりだよ。戦況は?」

「一進一退だな。まあ、うちみたいな小国が大国相手に拮抗状態を作り出せてるだけでもマシと思わなければやってられん」


どかりとアルトの近くに腰を下ろしたロウは前線勤務が長かったのか、伸びた自分の不精髭を撫でた。

ロウの兵服は黒ずんでいて、全体的に色が変わってしまっている。

味方ではなく、敵のものであることを祈るだけだ。


しかし、こうなってはもう洗っても遅い。

染み込む前に洗濯に出してくれと文句を言いそうになって、アルトは状況の異常さに頭を抱えた。

ここはあの懐かしの宿舎ではないし、ロウの洗濯物に口うるさく言う理由もない。


深くため息を吐く。

「はやく、終わるといいね」


『本物の日常』がとても恋しい。

戦場でアルトが得たものと言えば、包帯の効果的な巻き方程度だ。


ちらとロウが視線だけでアルトを見て、すぐに逸らされた。


「……いつか、終わるだろうよ」


ロウが煙草を取り出す。


前線にはアルトはいない。

もう、アルトが煙草を苦手なことも忘れてしまったのかもしれない。


少しだけ目を細めて、ロウが火をつけるのを黙って見守った。


「……そういや、さっきそこでサラとルシャナを見かけたぞ。後で会いに行ってやったらどうだ、喜ぶんじゃないか?」

「へえ、みんな同じキャンプにいるなんて珍しいね。……とはいえ、サラ隊長たちとは一週間前にも会ったばかりだよ。薄情な相棒と違って、近くに来たときはなるべく顔を出してくれてるみたい」

「――んんっ!」


ロウのわざとらしい咳払いにふふと笑う。


戦場の風は乾いて、煙草の煙と砂埃、血と汗と、薬品の匂いをアルトに運ぶ。


何となく、口を閉じた。

二人だけの空間で、無言の気まずさを知らない宿舎の部屋の中にいるような、――しばしの静寂。


そうして、運命と言うものは、まさしく唐突にやってくるもの。

そこに役者が揃っていたのもまた、神の采配だったのかもしれない。



「て、敵襲―――――――――ッ! 敵、がッ!!」


そんな、不自然に途切れた声と共に、喚声が飛び込んできた。


「くそっ!」


ロウは即座に火をつけたままの煙草を吐き捨て、代わりに剣を手に取った。

空から雨のように降ってくる矢を大きく振り払う。


アルトには何が何だかわからなかった。

あっという間に引き倒されていくテント。

休憩中だった兵士たちは鎧を纏う前に槍で貫かれた。


「アルト、立て! 行くぞ、ここは戦いにくい!」


危険だとは言わない。

戦いにくいと、彼は言う。


襲われているのはわかった。

奇襲だ。

キャンプ地は襲われにくい地形に張ったはずだが、絶対はない。

結果的に、敵の方が上手(うわて)だったというだけの事だろう。


必死にロウの背を追いかけた。


「はっはー!! 甘いぜ、敵兵さんよ! 脇ががら空きだ!!」


ロウが敵を切り捨てながら戦場を軽やかに駆ける。

アルトはその後をもつれるように走った。


這うように逃げる負傷兵。

昨日治療したばかりなのに、絶対安静なのに。

敵は容赦なく追い縋って、虫でも殺すかのように剣で払っていく。


「待って、ロウ。助けなきゃ」


助けなきゃと、言いながらアルトは情けなさに声を詰まらせる。

だって、アルトでは助けられない。

いつも、誰かに助けてもらってきた。


そして、

「ロウ、ロウ、まって」


声が、届かない。

焦燥に駆られて何度も呼ぶ。


いつも助けてくれた人は、止まってはくれなかった。


「……ロウッ!」


体力の限界を叫ぶ。

ついにへたりと座り込んだアルトを、やっとロウが振り返る。

声を聞いたからじゃない。

ただ、気まぐれに。


「はは、相変わらず体力無いな。ほらアルト、もう少しだ! あそこで態勢を立て直そう。んで、この際だから残兵集めて逆奇襲と行こうじゃないか」


赤く染まり殺意を弾く剣を肩に。

にかりと笑ったロウは、目に落ちてきた汗を返り血と共に腕で拭う。


状況にまるで相応しくない顔で、遊びに誘う少年のようにロウが無邪気に遠くを指差した。

眩暈を感じるほどに、遠くを。


呆然とアルトは問い掛ける。


「……ロウ、君は、……怖くないの?」

ここ(戦場)は親父の死に場所(墓場)だぜ? ――俺はそれを超えていくだけだ」


彼が戦場になにを思い描いているのかは知らない。

知らなかった。


そして朗らかに戦場で笑う彼を、アルトは理解できないのだ。


ゆるゆるとアルトは首を振った。


「無理だ。ロウ、私には……僕には、無理だ」

「なに言ってんだ。お前なら大丈夫。一緒に行こうぜ!」


ほら、ついて来いよとロウが背を見せる。

アルトがついてくると、疑っていないその笑顔。


突き抜ける様な寂しさに視界が歪んだ。


駆け出す背中に、呼びかける。

聞こえないと知りながら、もう一度。


消え入りそうな声で。

伝わるはずのない声を。

最初で最後の真実を。

たった一つの望みを。


「……行かないで、」


――音にした。



答えはない。


彼は駆ける。

背は、遠くなる。

アルトは、動かない。

動けは、しない。


ぶわりと涙が滝のように溢れ出した。


「ロウ、ロウ、……無理なんだよ。僕は行けない、私は、君と一緒には行けない」


顔を覆った指の間から、嗚咽と涙が零れ出す。


走れない。

剣は、持てない。

情けなくとも、弱くとも、それがアルトだった。

『彼女』だった。


途切れた道。

共に歩む道の終わり。

アルトには細く、厳しい道を、彼は一人往く。


振り返ることはない。

知っていた。

わかっていた。

この声は届かない。

だって、彼には聞こえない。


聞こえるのは、剣戟の音。

敵の喚声。

味方の雄叫び。

風を切る矢。

勝敗を知らせる銅鑼。

馬の蹄が作る道。

勝利の匂い、敗北の気配。


戦場の、

音。


命の、鼓動。

それだけ。


そこにアルトはいない。



――――彼の居場所は、ここだ。



彼の戦場は、

舞台は、

生きる場所は、


アルトの生きられない、ここだった。



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