6.月女神の涙
「ここなら人の目はないから安心して」
そう言うと彼女ははらりとフードを背に落とした。
何年振りだろう、彼女の姿を直接目にするのは。
思わず目を細める。
それほどまでに、
「……美しくなったね、アリシア」
感嘆を零すように口にすると、アリシアは涙腺が壊れたようにまた泣き出した。
紫色の美しい目から、大粒の涙が床に落ちていく。
涙に色移りして瞳の色が流れ出てしまうのではないかと、アルトは場違いな心配をした。
「アルト、アルト、ごめんなさい」
そしてアリシアはひたすらアルトに謝るのだ。
一体どうしたと言うのか。
「わ、わたくし、頑張ったのだけど、ダメでした。もう、わたくし達は駄目なのかもしれません」
何が何だかわからなかったが、彼女がとても傷付いている事だけはわかる。
いつも前向きで努力家の彼女が漏らす弱音は、きっととても大きな意味がある。
アルトはその背を撫でた。
アリシアは縋るようにその胸に顔を埋めて、涙で途切れそうになる声を必死に紡ぐ。
「……ユ、ユージンさまが、わたくしに、婚約を破棄してほしいと」
「なぜ……!?」
衝撃の話だった。
結婚間近の二人はそれぞれがアルトに手紙を送ってきていたが、ユージンからの手紙はアリシアへの愛であふれていた。
アリシアへの愛と、アルトへの感謝と、未来への幸福、それから少しの仕事の愚痴と達成感。
それ以外、アルトが読み解けるものはなかったというのに。
「とにかく落ち着いて」
アリシアを椅子に座らせながら、同じように動揺しているアルトは自分にも言い聞かせていた。
動揺した二人では進む話も進まない。
アルトにとっても、アリシアとユージンは原点なのだ。
「あー、もう!」
アルトは自分の髪を掻き回し、隊長室の扉を中からノックする。
どうせ人払いも兼ねてそこに待機しているのだろう。
「なんだ」
案の定、扉を隔てているせいで多少くぐもって聞こえる声がすぐに答えた。
「温かいお茶を。レディ向けの甘いもので」
「了解。二杯お持ちしますよ、サー」
これだから言いたくなかったのだ。
無駄に気の回る男である。
思わず舌打ちして心の中だけで感謝を告げる。
そのやり取りを目を丸くして見ていたのはアリシアだ。
驚き過ぎて涙が止まっていた。
「アルトがわたくしの知ってるアルトではないわ。まあ、どうしましょう!」
「大丈夫、あなたも自分の知っているアリシアではないから」
いつもの要領で反射的に答えたら、これまた目が零れ落ちるのではと思うくらいに目を見開かれた。
騎士団で揉まれた事と一番身近にいる男のせいで言葉が勝手に捻くれてしまうが、言ったこと自体はただの事実だ。
そもそもアリシアの知っている彼女は「わたくし」なんて呼称は使わなかった。
そこに互いの過ごした年月を見る。
思わず去来する感情に、アルトはアリシアの頬に触れた。
アリシアはくすぐったそうに笑ってから、心地よさげに目を閉じる。
苦笑したのはアルトだ。
「あんまり男の前で無防備な姿を見せるものではないよ? 特に目を瞑るなんてのはもっての外だ」
「……あなた以外の誰の前で油断しろというの? だからいいの。これで正解よ」
悪戯に煌く瞳が生来の調子を取り戻しつつあることを教えてくれる。
もう大丈夫だろう。
さて、とアルトは本題に入る前に無造作に扉を開く。
ロウからの差し入れを受け取って、中が覗かれる前にぴしゃりと閉じた。
油断も隙もない男だ。
アリシアの正体を突き止めてしまうかもしれない。
「いいの?」
「今の? 大丈夫、今頃なんとかして様子が探れないか、無駄に張り切ってるところだろうから」
くすくすとアリシアが笑う。
「あなたが楽しそうでよかったわ。それを知れただけでも来た甲斐があった」
「そんなところに意味を見出されても困るよ。さあ話して。一体なんでこんなことになってるの」
途端にアリシアが萎れる。
だがここまで来たのだ、なにもせずに帰せるわけがない。
アルトからの無言のプレッシャーにアリシアは重い口を開いた。
「最近の宮廷の状況をご存じ?」
まさに女性騎士団という権力の手先相手に舌戦を繰り広げようというところである、とは言わずアルトは頷くだけに留めた。
「ユージンさまも、難しい選択を迫られていらっしゃいます」
アリシアはお茶で暖まったカップを手に下を向いた。
細かい情勢を口にしないのはアルトを慮っての事でもある。
「わたくしの為だというのはわかっています。わたくしの身の安全を憂慮してくださったのだと……」
はたはたとお茶が涙に波紋を浮かべる。
だいぶ端折った説明だったが、アルトにもわかったことが一つ。
――つまり二人の愛は不滅だということだ。
どうやらユージンは危ない橋を渡ろうとしているらしい。
このご時世だ、そんなこともあるだろう。
そこにアリシアを巻き込むわけにはいかないから婚約破棄を申し出た。
多分そんなところ。
ならば話は簡単だ。
アルトにとっては単純明快。
「それで、アリシアはどうしたいの?」
「決まっています。わたくしを傍において欲しいのです。いつ、いかなる時も、この手は離さないとあなたに誓っています。その約束は決して違えません」
そう、アリシアの答えは最初から決まっている。
ここを訪ねてきた時から、決まっていたのだ。
「そう伝えた?」
「もちろん伝えました。でもあの方も頑固なところがありますから……」
悩まし気なため息がアリシアから漏れた。
こんな美女を困らせるとは、ユージンは相当いい男なのだろう。
だが多分、それはアルトが知らないユージンだ。
アリシアの、ユージン。
「わたくし、明日にはユージンさまの家を出る手筈になっています。実家も、早く帰ってこい、と」
アリシアは婚姻準備のためにユージンの家に入っていると聞いていた。
実家からも催促が来るのなら、ユージンは相当危険な立場なのかもしれない。
「それで?」
「……それで、……とは?」
アリシアが顔を上げた。
「アリシアは僕に何を望みに来たの?」
ずばりと言われてアリシアが言葉を無くす。
「背中を押して欲しい? 優しい言葉が欲しい? 君を肯定して欲しい? 僕は君の絶対の味方? だから思い通りに動くと?」
アリシアの頬にかっと赤みが差す。
反射的に上げた手は振り下ろされることなく、しばらく葛藤で震えた後にやがて力なく膝の上に落ちた。
「ごめんなさい。わたくし、またあなたに寄りかかろうとしていたのね……。帰ります。帰って、もう一度、自分で……一人で、考えてみます」
「アリシア」
「ごめんなさい」
「アリシア」
「ごめんなさい。言いたいことはわかっています。だから、もう責めないで」
ユージンはいない。
彼はアリシアを置いていく決断をした。
アリシアは一人。
頼れる人はもうアルトしかいない。
いなかった。
その彼は弱ったアリシアに頑張れという。
一人でも、頑張れと。
アリシアは自分の弱さに泣いた。
一人はとても、心細い。
「アリシアごめん、君は謝らなくていい。今のは僕がやり過ぎた。いつもの調子でつい意地悪を……。多分ロウのせいだから後でぶん殴っておく。だからどうか許して? さっきのは、ただの真実だよ?」
ロウが聞いていたら即座に言いがかりだと文句をつけそうな台詞をさらりと言って、アルトは許しを請うように小首を傾げた。
紫の大きな目が、ぱちくりと瞬く。
瞬きのたびに涙が落ちるから、アルトはさらに眉を落とした。
「僕は君の背中を押すし、いつだって優しい言葉をかける。君の全てを肯定するし、僕だけは一生、絶対の味方で、君の望むことをする」
そう、その通り。
アリシアはいつだって、アルトを頼ってもいいのだ。
そして望みがあるなら素直に言えばいい。
アルトは全力でそれを叶えるだろう。
だから、言葉を紡ぐ。
今の彼女に必要な言葉を。
「アリシア、好きにすればいい。誰かを傷付けることも、自分たちが背負うことになる大きなものも、目を背けずに恐れ、それでも選んだ君はもう、許される。僕が許す。駆けたいなら駆けて良い。思うようにやればいい。君の全ては君のもので、その全てを賭けて掴みたいものがあるのなら、そうすればいい」
ぶわりと感情が押し寄せて、それは津波のようにアリシアを襲う。
しゃくり上げるせいで声にならない。
だからアルトの首に縋りついた。
ありがとうを百万回。
言えないから心を込めた。
男にしては華奢なアルトは、それでも軽々とアリシアを抱きとめる。
「大丈夫。間違ってない。間違ってても、僕がいる。頑張った君を、僕が褒める。傷付けられた者が君を責めるなら、僕が謝ったっていい。僕のアリシアがごめんなさいってね」
アリシアがアルトの首筋で小さく笑った。
泣きながらぎゅうぎゅうと抱き着いてくる力は、女性らしくアルトにとってはあまり苦しくない。
普段から巨漢の男たちとド突き合っている成果と思うと全然喜べなかった。
「アリシア、僕のアリシア。涙より君には笑顔が似合う。ほら、笑って」
アリシアの顔を覗き込んで、その涙を無理矢理拭っても、困ったことに涙は全然止まらない。
アリシアが涙を止めず笑いながら眉を下げて、首を傾げ甘えるようにアルトに聞いた。
彼女の状況は大渋滞で、説明に大変忙しい。
「ユージンさまを翻意させる方法が思いつきません」
アルトはふふと笑った。
「アリシア、とってもいい台詞がある。ユージンにいってごらん?」
そういってアルトはアリシアの耳元で囁いた。
「……それだけでいいの?」
「そうだよ。男の僕が言うんだから間違いない。それだけで男はイチコロさ」
聞いたアリシアはくすくすと笑う。
「あなたの解決法はいつも驚くものばかり」
ねえ、とアリシアはアルトに頬を寄せた。
「大好きよ」
「ユージンより?」
「…………同じくらいかしら?」
真剣に答えたアリシアにアルトは笑った。
それは、かなりの大金星だ。
ユージンのしかめっ面が目に見えるようだった。
たくさんのブックマーク、ご評価ありがとうございます。
お礼がてら、本編に入れる隙がなかった軽いノリの小エピソードでも。
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『ロウの苦悩とアルトの困惑』
嵐は去り、宿舎にはまたつかの間の静けさが戻った。
アルトは部屋で手紙を書いている。
もちろん相手はルーク。
アルトはいつでもアリシアの味方で、いつだって彼女の背を押すが、ルークにとっても彼女は変わらず妹である。
なにやらマズい選択を後押ししたようなのでアルトの所業を怒るかもしれないが、知る権利はあると思うのだ。
そして、なんとなくアルトの事を「仕方がない」で許してくれる気もしている。
その後の行動は彼次第だ。
「なあ、あの女……」
鬱陶しいのは同室の男である。
こちらを見たり、気もそぞろに本を眺めたり、思い切って口を開いてまた閉じてみたり。
普段から言いたいことを言ってくるロウにしては珍しい。
あまりにも珍しいから見て見ぬ振りをしている位に珍しい。
このまま程々に放っておこうと思っていたが、ロウは思い切ることにしたらしい。
気の早い男だ。
我慢が足りない。
「行かせて良かったのか?」
アルトは考えるように目線を天井に向けた。
はて、自分には彼女の背を押す以外にもっと出来たことがあったのだろうか。
「あれはアリシア嬢だろう? 俺だって、彼女の婚約者の置かれた状況も婚約者が出した結論も知ってる」
ちなみにアルトは知らない。
「もちろん、俺は婚約者の選択は正しいと思ってるぜ? 当たり前だろう、男なら誰だってそうする」
ちなみにアルトは生粋の男ではないのでわからない。
「お前の取った行動は、愛する女を苦境に立たせるかもしれないんだぞ」
…………まあ、アリシアのことは好きである。
百歩、いや一万歩くらい譲れば、「愛」と言ってもいいだろう。
「それとも、それがお前の言う、愛なのか?」
一体どれが!?
結局何一つロウの言うことがわからないので、特に答えることもなくアルトは書き終えた手紙をしまっていそいそとベッドに入った。
――見当違いの所でドツボにハマっている男は、この際だからたまには愛について考えればいいのだ。




