第9話 頭痛
「すみません、母が……」
瑠理香はひどく恐縮していた。彼女自身、自宅に帰って早々母親から紅茶の蘊蓄を聞かされるとは思っていなかっただろう。
「いや。それよりも体のほうは大丈夫?」
尊も三石家の人間と接触することを覚悟していたが、別の意味で予想を裏切られた。話で聞いているよりも奔放、マイペース型の人間らしい。
「体調は問題ありません。でも、家のなかに入ってから、なんて言ったらいいのか……妙な感じです。自分の家なのに」
階段の転落事故からやっと我が家に戻ってきたのだ。本来なら懐かしむところだが、記憶がない彼女にとって未知の空間と同じだろう。
「思い出せそう?」
小声で尋ねてみたものの、瑠理香は首を横に振った。
「帰ってくれば、自然に思い出せるかもしれないって少し期待してたんです。だけど何も……」
「ま、初日だし焦ることはないよ」
尊はポンと瑠理香の肩に手を置く。
「答えを急ぐと、まともな思考が働かなくて必要のない失敗をするもんだ。ゆっくり勘を取り戻していけばいい」
「……仙堂さんもそういう失敗をしたことがあるんですか?」
瑠理香にとっては単純な質問だったが、尊はややバツの悪い思いをすることになった。
「高校時代だよ。ヤマを張った場所がテストの出題範囲とピタリと嵌まって喜んでたんだけど、途中どうしても解けない問題が出てきたんだ」
「難しい問題だったんですか?」
その逆だ。教科は歴史。人物名を書けばいい至ってシンプルな問題だった。正解はたしか高橋是清だった。
「ちゃんと勉強して頭にたたき込んだはずなのに思い出せなくなったんだ。文字通りド忘れってやつでさ。わからないはずないって粘りすぎて、後の問題を解く時間が足りなくなった」
残り時間でなんとか答案用紙の空欄を埋めたが、結果は今ひとつだった。今思い出しても情けない話だ。瑠理香にこんな失敗談を語るとは思ってもみなかった。
「今わからなくても、じきに思い出せることもたくさんある。まずは、この家に慣れることが大事だよ」
「はい」
自分の苦い経験が彼女の励ましになったかあやしいところだが、瑠理香は自然な笑顔を浮かべている。
由紀と英恵が戻ってきたところで、瑠理香は突然立ち上がった。
「あの……お手洗いって、どこだったかしら?」
「まあ!」
英恵も、由紀もうっかりしていたとしか言いようがない。帰宅したとはいえ瑠理香は家の間取りさえわからない状態だ。
「私がご案内します」
落ち着く間もなく英恵は、瑠理香を連れてリビングを後にした。
「仙堂さんにはもっと早くご挨拶をするべきでしたわね」
ソファーに座り直した由紀が、改まって尊に向き直る。
「瑠理香が大変お世話になっています。あの子が仙堂さんを頼りにしていると英恵さんからも聞いてましたの。だから私……妙な勘ちがいをしてしまって」
「いえ、どうぞお気になさらずに」
この屋敷に入ってから、由紀は尊に対してもソフトな対応をしている。英恵からの報告で、娘の状況をきちんと把握していることもわかった。
「こちらも早くご挨拶するべきでした。見舞いの時間帯が合わなかったようで」
尊は、途中から由紀が見舞いに来なくなったことを知らないふりをした。
「主人の会社の交流会の手伝いをしておりましたの。平たく言ってしまえば奥様連中のお茶会なんですけど、そういう場所もビジネス上大事なおつきあいですから……あの子を見舞う機会が減ってしまったんです」
嘘か誠か、尊には判断のつかない答えが由紀の口から放たれた。後で英恵にでも確かめてみようという気になった。
「これからも、瑠理香が困ったときに相談に乗ってやってくださいね」
由紀が、尊にお茶のおかわりを勧めた直後のことだった。
「お嬢様!」
英恵の悲鳴のような声が聞こえ、尊は反射的に立ち上がった。英恵たちが消えた扉の向こうへ急ぐと、階段の下で瑠理香が跪き、英恵がその体を支えている。
「瑠理香くん! どうした?」
尊は、英恵と入れ替わるように瑠理香を支え彼女の顔を覗き込む。青白い顔をした瑠理香が小さく頭を振っていた。
「私……たしかにここで、この階段で……!」
譫言のように繰り返す瑠理香に、ようやく尊はこの階段が重要な場所であることに気づく。
三石家の階段。
そこは、瑠理香の転落事故の現場だ。
「お手洗いへ案内するには、この階段のまえを通るしかないんです。お嬢様のお顔の色が悪くなってしまって」
瑠理香は何か思い出したのだろうか。今の状態では彼女に確かめるわけにもいかない。
「休ませないと。瑠理香くんの部屋は?」
「この階段を上った右側です」
つまり彼女の部屋は二階だ。
「上の階に行くのは無理かもしれませんよ。一階に休める部屋はないんですか?」
「お義父様が使っていた部屋があります。あそこならベッドも大きいし、バリアフリーの改装もしてあるから便利なはずです。英恵さん、お部屋の鍵をお願い!」
由紀の指示で、英恵は大慌てで部屋の鍵を持ってきた。前当主であった瑠理香の祖父の部屋は施錠されており鍵は英恵が管理しているらしい。
英恵が部屋の扉を開けた。庭に面した側にフランス窓がある。高級書斎机と、安楽椅子が一脚。本棚。そしてダブルベッド。しばらく使われていなかったとは思えないほど整頓され、塵も積もっていない。
「週に一度は掃除しておりますので、それほど埃にはなっていないと思います」
英恵の説明に納得した尊は、瑠理香を抱きかかえていたベッドまで運んだ。
尊は、英恵がベッドカバーを捲るのを確認してから瑠理香をベッドの上に下ろした。
「奥様、お医者様にご相談したほうがよろしいのではないでしょうか?」
英恵の声にわれに返った尊は、由紀の青ざめた顔に目を瞠る。その形相から、彼女の動揺が窺えた。
(娘が心配だからか?)
「そうね、病院に電話してみるわ」
由紀は平静を装い、部屋から出ていった。
「脈も乱れはないようですけど……」
英恵が瑠理香の手をとり脈を測っている。由紀よりも冷静さを保っているように思われた。
「瑠理香くん、大丈夫か?」
尊の呼びかけに、瑠理香はうっすら目を開けた。
「私、あの日帰ってきて、階段から落ちたの」
瑠理香の言う「あの日」がいつなのか、尊はピンとこなかった。
「何か思い出した?」
新たな問いに瑠理香の視線は宙を彷徨う。
「この家のなかを歩いていた気がする。真っ暗で……でも、わからない。何かを思い出せそうな気がするのに、思い出そうとすると頭が痛くなって」
家に帰ってきて、問題の階段にまでやってくれば脳に訴えかけるものがあるのだろう。瑠理香は記憶がないとはいえ、それらに反応を示しているのだ。
「急がなくていい。さっきも言ったように少しずつでいい。今日がはじめの一歩だろう?」
尊の言葉に頷いて、瑠理香は目を閉じた。帰宅する緊張とともに疲労がたまっていたにちがいない。
まもなく彼女の小さな寝息が聞こえはじめた。英恵と顔を見合わせ、尊は静かに部屋を後にした。
「仙堂さんの先程のご指摘どおりにして正解だったと思います」
彼女のいう指摘とは、瑠理香を二階の部屋へ連れて行くことだろう。階段の前に立っただけで卒倒したのだから、無理に階段を上ったりしたら症状はさらに悪化していたかもしれない。
「なんだか、とても嫌な予感がします」
瑠理香の休んでいる部屋の扉を凝視しながら英恵は両手で自分の肩を抱いた。
「瑠理香くんにはお母さんも英恵さんもついているんだから大丈夫でしょう」
病院での世話係を終えても、場所が三石家の屋敷に変わっただけだと尊は考えていた。
「私はこの家の仕事もありますので、入院していたときほどお嬢様のおそばにいられる時間は少ないんです」
三石家の家政婦とは、普段どんな仕事をこなしているのだろう。先程の紅茶の件といい、主人たちの趣向に合わせる必要もある。骨の折れる業務であることはまちがいない。
「仙堂さん、どうかこれからも瑠理香お嬢様の支えになってあげてください」
「もちろん」
由紀に頼まれたときよりも、尊はすんなり返事ができた。
「お医者様に連絡がとれました。容態が落ち着いているなら、少し様子をみてほしいということです」
由紀は、周囲も冷静に瑠理香を見守るよう医者から釘を刺されたと話した。
「それじゃ、俺はこれで失礼します」
腕時計を見ると、正午十分前だった。昼食を一緒にと勧められたが、午後から仕事もあると理由をつけて断った。
車に乗り込んでから、瑠理香への確認事項を思い出す。
「アドレスのこと、聞き忘れたな」
メールの発信元が、少し前から別のアドレスに変わっている。以前話していた家に置いてある瑠理香自身のスマホのアドレスだろうと、直接確認するつもりでいたのだ。
「殺人事件といいメルアドといい、あのコには聞かなきゃいけないことがたくさんあるな」
尊は気を取り直して車を発進させた。




