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第3話 記憶を失くした女

 たける鴻上こうがみ総合病院に足を運んだのは、祖母から三石みついし瑠理香るりかの見舞い代行を頼まれた三日後のことだった。


 面会時間は午後二時からなので、夕方の講義に十分間に合う。

 鴻上総合病院が開設されたのは十五年前である。近隣住民にとってはなくてはならない医療機関であり、一部のセレブに対する待遇の良さが口コミで広がっている。そのため三石家の跡継ぎを任せるに値する施設として認められたのだろう。

 尊が受付窓口で三石瑠理香への面会を申し出たところ、面会簿へ氏名・住所等といった必要事項の記入のみですんなり許可がおりた。祖母が事前に三石家へ問い合わせたことが功を奏したようだ。

 指示された通りエレベーターで五階に上がると入院病棟独特の静寂が漂っていた。ほとんどが個室らしく、廊下に患者たちの姿は見当たらない。各階の中央に位置するナースセンターに行き着くと、一人の女性看護師と目が合った。持参した花束と尊の顔を交互に見やり、事務的に名前を確認される。


「五〇七号室です」


 軽く頭を下げた尊は、教えられた病室に向かった。一瞬戸惑ったのは、病室の表札には部屋番号のみで患者の名前が書かれていなかったからだ。他の病室も同じだった。

 病室の名札も個人情報として保護されているのだろう。たしかに入院患者の情報は、病院スタッフと患者の関係者だけが知っていればいいことだ。

 扉をノックしたと同時に、扉の向こうから金属音と小さな悲鳴が聞こえてきた。

 躊躇ためらいながらもスライド式の扉を開けると、ベッドのそばで倒れている女性の姿が視界に飛び込んできた。床には松葉杖まつばづえが一対転がっている。


「大丈夫ですか?」


 尊は反射的に女性の側に歩み寄り、細い肩に手をかけた。慎重に華奢な体を抱き起こす。相手が顔を上げた瞬間、尊はハッと息を飲んだ。

 小さな顔のなかにバランスよく収まった目鼻、薄い唇は少々血色が悪そうだが彼女の美貌びぼうを損なうほどではない。その整った顔立ちに思わず見惚れてしまった。

 彼女が三石瑠理香だ。年齢はたしか二十三、四にはなっている。五年前に対面した時よりも格段に美しく成長していた。


「あなたは誰?」


 瑠理香嬢は突然現れた訪問客に身を固くした。ひどく警戒されたことに気づいて、尊は慌てて自己紹介をする。


「面会を申し込んでおいた仙堂です。祖母の代理としてきました。覚えてないかな? 以前パーティーで君にも会ったことがあるんだけど……」


 尊は、ふらつく彼女を支えながらベッドへ座らせてやる。


「私と、会ったことがあるんですか?」


 一度しか顔を合わせたことのない相手を記憶するには、よほどのインパクトが必要だろう。瑠理香の放埒ほうらつな振る舞いが尊の記憶に焼きつけられたように。逆に令嬢にとっては尊の印象は薄かったにちがいない。


「会ったと言っても五年も前のことだから、覚えてなくて当然だけど」


 瑠理香は肩を落とし、重い溜息をついた。


「ごめんなさい。あなたのことも、それ以外のことも全然覚えてないんです」

「は?」


 彼女の言葉の意味を掴み兼ねた尊は眉を顰めた。そこへ六十代くらいの女性がやってきて、あっと声をあげる。第一印象は、小太りの肝っ玉母さんタイプといったところだ。


「もしかして、相澤様からのお見舞いの方ですか? たしかお名前は……」

「仙堂です。仙堂尊せんどうたけるといいます」


 尊は胸を撫で下ろす。自分が不審者ふしんしゃでないことを証明してくれそうな人物だ。こざっぱりした外行き用の服装だが、記憶のなかの瑠理香の母親の姿とは符合しない。


「私は森川英恵もりかわふさえと申しまして、三石家の家政婦です。入院中の瑠理香お嬢様のお世話をさせていただいてます」


 英恵は慇懃いんぎんに尊に頭を下げた。面を上げてから一度瑠理香に目を配り、尊に向き直る。


「売店で買い物をしていて席を外しておりました。お見舞いの方がいらっしゃることは奥様から伺っていたんですが……」


 やはり祖母が三石家に話を通してくれていたようだ。


「英恵さん、この方は私に会ったことがあるらしいの。でも私、全然覚えてなくて――」

「まあ、それは……」


 わずかな間だが、英恵の逡巡しゅんじゅんが伝わってきた。「失礼をお許し下さい。お嬢様は階段から転落した際に頭を打って、ほとんどの記憶をなくしてしまったんです」

 搬送はんそうされた病院で意識を取り戻したときには自分が誰かもわからなかったという。

 英恵の説明の間、瑠理香は申し訳なさそうに頭を下げた。


「記憶喪失、ですか?」

「お医者様は、きっかけがあれば記憶が戻る可能性もあると仰っていましたが……」


 瑠理香に視線を送ったが、本人は無言のまま俯いてしまった。


「すみません」


 何度も詫びる瑠理香は、以前会った時の高飛車たかびしゃな態度とは真逆の反応を見せた。頼りなげで、今にも泣き出しそうな目で見つめられると、尊は返す言葉に困った。月並みな言葉しか思い浮かばない。


「気にしないで。記憶がなくて不安なときに無理はしちゃいけないよ。あぁ、そうだ!」


 ようやく持参した花束と、祖母が用意してくれた手土産の存在を思い出した。


「瑠理香さんは子供の頃から焼き菓子が好きだと、祖母が言っていたので」


 包装された箱の中身は大半がクッキーの焼き菓子だ。都内でも有名な洋菓子店の詰め合わせと聞いている。


「少しお待ち下さいね。せっかくですから、お茶の支度をしましょう」

「えっ、あの、お構いなく……」


 英恵は尊が止めるのも聞かず、病室内のポットでお茶を淹れはじめる。

 そこでようやく、病室全体を見渡す余裕が出てきた。瑠理香が使っている個室は、二人から四人部屋のスペースに等しい。テレビや冷蔵庫、トイレも完備されて、電気ポット等の小型の家電の持ち込みも許されているようだ。英恵は手際よく二人分の紅茶を淹れ、病室に備えつけられているローテーブルへと運ぶ。早速尊が持参した焼き菓子を添えてくれた。


「俺は……」

「ぜひ召し上がって下さい。私たちだけじゃ食べきれませんから」


 英恵は断る隙を与えなかった。見れば瑠理香も小さく頷き同意している。

 テーブルを挟むように革張りのソファーが配置されていた。尊は、英恵たちに勧められるまま腰を下ろし、英恵に支えられながら瑠理香が反対側に座った。左足に体重をかけるのがつらいらしい。慣れない松葉杖を使って転倒したのも頷ける。


「足、大丈夫?」

「骨にヒビが入っていると言われたんですけど、だいぶ楽になりました」


 答えながら瑠理香はソファーの座り心地を確かめている。

 英恵も瑠理香の隣に座り、尊に再度お茶を勧める。まったく手をつけないのも悪いと思い、尊はお茶うけに手を伸ばした。個包装している半透明の袋から取り出すと、生地に胡麻ごまが練り込まれているクッキーだった。一口齧るとふわりと胡麻の香ばしい風味が鼻に抜ける。


「仙堂さんはどんなお仕事をされているんですか?」


 質問のタイミング悪かった。反射的に飲み込んだクッキーのかけらが喉に詰まる。慌てて紅茶で流しこもうとすれば、想像していたよりも熱くて、まともに答えられない。

 一人であたふたしている様は、尊自身から見ても滑稽に思えた。

 瑠理香が小さく吹き出したのが、その証拠だ。


「ごめんなさい。私のせいですよね」


 瑠理香はすぐに真顔に戻ったが、笑うとやはり可愛い。柔和にゅうわな笑顔は見ているほうも気持ちが解れる。


(印象が全然ちがうな)


 記憶を失うと、人の雰囲気まで変わってしまうのだろうか。他者よりも優位な立場であることを態度で示してきた三石家の令嬢の姿はどこにもなかった。

 質問の答えに対して、尊が予備校の講師をしていると答えると、意外にも瑠理香は興味を示した。自覚はなくても、自分と縁のない職業に関心を持ったのかもしれない。

 勤務している予備校の指導方針や、個別対応のポイントなどを噛み砕いて説明する。転職して二年目、受験シーズンに生徒の受験結果を気にするあまり、他のことへの注意力が散漫になっていた。上の空で道を歩いていたら電柱にぶつかったことを話したら、英恵まで声を立てて笑い、同情してくれた。


「受験は生徒さんのご家族にとっても一大イベントですものね。先生も大変なわけだわねぇ」

「ええ。生徒の志望大学への合否に戦々恐々してますよ。公立の教師とちがって査定に響くので――」


 思わず本音が出てしまった。女性二人が聞き上手なのだろう。手探りではじめた仕事の説明にいつしか尊も熱が入っていたのだ。


「なんか、自分のことばかり話してたかな、俺……」


 渇いた喉を潤すために紅茶を一口飲む。入院患者を相手に喋りすぎたと反省したが、尊の話に耳を傾けているうちに瑠理香は緊張が解れてきたらしい。彼女の表情から警戒の色が消えていた。


「そんなことありません。聞いてて楽しいですよ」


 尊の話が一区切りついた頃、瑠理香が二つ目のクッキーに手を伸ばした。包装から取り出したのはドライフルーツが練り込まれており、隣にいた英恵が何か言いたげだ。しかし、瑠理香は気づかないままクッキーを美味しそうに食べている。

 それからいくつか世間話をして尊は辞去じきょした。


「お祖母様によろしくお伝え下さい」


 瑠理香は尊の祖母・里美に対する礼を忘れなかった。病室から出た後は、英恵が一階まで見送りに出てくれた。


「仙堂さん……今日はありがとうございました。お嬢様があんな風に笑ったのは久しぶりです」


 鴻上総合病院での入院生活が始まって以来、記憶をなくしたショックもあって瑠理香は塞ぎ込むことが多かったという。

 エレベーターを降りた直後、英恵が思いがけない提案をしてきた。


「よろしければ、またお越しいただけないでしょうか?」

「はい?」

 尊は、英恵の言葉に目を丸くした。


「お忙しいお仕事であることは重々承知しております。でも、瑠理香お嬢様には先程のようにお話できる相手がいないんです」

「そんな大袈裟おおげさな――」


 五年前の一面識など会ったことがないに等しい。あの世間話で尊の何が認められたのだろうか。


「いいえ、大袈裟じゃありません。見舞ってくれるお客様はもちろん、ご両親にさえ心を開かれないんです。ひどく怯えておいでで……」

「英恵さんが瑠理香さんのお世話しているといっていましたが、彼女のご両親は?」


 余計な質問だとわかっていたが、娘に警戒されたままの親がどう過ごしているのかが気になった。


「旦那様はお忙しくて、病院にお越しいただけないんです。奥様は何度かお見舞いにいらっしゃってますけど、お嬢様をれ物に触るように扱って……」

「そういうものですか」


 娘が事故で記憶をなくしたのなら、過去を思い出せるような手立てを考えるものではないのか。肉親なら尚更だ。無理は禁物だが、心細い思いをしている娘を遠ざける理由はない。

 瑠理香が不憫ふびんに思えて、尊はつい首を縦に振ってしまった。


「俺みたいな話し相手で、彼女の気分転換になれば――」


 尊はジャケットの胸ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を英恵に渡す。普段使う機会は少ないが、予備校の講師という肩書きを証明する名刺だ。英恵も自分のスマホの番号を教えてくれた。


「英恵さん、さっき何か言いかけてましたよね?」

「ああ……たいしたことじゃないんです。ただ、お嬢様があのクッキーを食べるとは思わなかったので」


 英恵が言っているのは、尊が土産として持参したクッキーのことだ。


「クッキーに何か問題があるんですか? 瑠理香さんは甘いものが好きだと聞いていたんですが」

「ええ。ですけど、あれにはレーズンも入っていたでしょう? 瑠理香お嬢様は元々偏食で、ドライフルーツは一切口にしないんです」


 瑠理香はクッキーの味など気にしていないようだった。記憶をなくした影響なのだろうか。


「苦手なものまで忘れてしまったんでしょうね。アレルギーではないので問題はないんですけど。瑠理香お嬢様には、このほうがよかったのかもしれません」


(このほうがよかった?)


 尊は英恵の言い回しが気になった。偏食が改善されることなのか、記憶をなくしたことなのか。


「それではこれで……」


 正面入り口の前で尊は英恵と別れた。それぞれ進むべき方向へ歩き出す。

 英恵は瑠理香の病室に戻るのだろう。尊は駐車場に停めた自分の車へ向かう。

 運転席に乗り込み、エンジンをかけてひとつ溜息をついた。


『瑠理香お嬢様には、このほうがよかったのかもしれません』


 英恵の言葉を反芻はんすうしてみる。


「まるで今までがひどかったみたいだな」


 尊は車を発進させた。

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