第2話 祖母の依頼
きっかけは祖母の頼みだった。
仙堂尊は、祖母の里美と朝食をとることが日課になっている。
香ばしいトーストの匂い。そこに塗られた苺ジャムは祖母の手作りだ。
三十半ばの独身男が、祖母と二人暮らしをするにはちょっとした理由があった。
「三石? 三石って、大財閥の大奥様で、ばあちゃんの友達だろ?」
「そう。アサ子さんは高校からの友達だったのよ。三石さんとの結婚式にも招待していただいて……まぁ、お互い子育てもあって年賀状のやりとりだけになってしまったけど」
尊の母方の祖母・相澤里美は七十六歳。潔く白髪を染めなくなったものの、最近はじめたばかりの俳句教室では実年齢より十歳サバを読んでもバレなかったと喜んでいる。
小柄だが背筋がピンと伸びて、陽気な彼女の話し方が若々しい印象を与えるのだろう。一昨年、祖父に先立たれた時にはひどく落ち込んでいたが、前向きに第二の人生を送りたいと奮起している。
その第一歩が尊との同居生活だ。
祖父は、自分の名義で建てた築二年目のマンションを遺産として尊に残していた。自分の子供を飛び越えて相続人に尊を指名したのは、大手銀行を辞めて予備校の講師に転職した孫の行く末を心配してのことだと家族みんなが納得した。
おかげで、尊は予備校の給料と家賃収入で生計を立てている。相続したマンションの一室に暮らすことを決めると、自然と身内から祖母との同居を提案されたのだ。亡き祖父はマンションを建てると、眺めのいい六階の部屋に夫婦二人で移り住んだ。今は祖父の書斎を尊が使っている。一緒に食事をとるのも、尊が未亡人となった祖母を気にかけているからだ。それ以外は、互いにマイペースな日々を送っている。
「曾孫の顔を見せてもらえたら、もっと嬉しいんだけど贅沢は言えないわね」
本気が冗談か、里美は尊に家庭を持つことを勧めることがある。耳が痛くなるような助言をするのも遠慮の要らない家族だからだろう。
尊は孫のなかで祖母と一番仲がいい。互いに勤勉家で、知識を深めることを楽しんでいる。祖父はその点を考慮してマンションを尊に託したのだろう。顔立ちも祖母似だった。それに加え一八〇センチを越える長身で、二十代の頃に合コンに参加すれば女性たちの一番人気に浮上することが多かった。
しかし、三十代になると尊の外見に引きつけられる女性のなかには、職業が予備校の講師と知ったとたん興味を示さなくなる者もいた。個人経営の予備校では収入も高が知れていると次のターゲットを探しにかかる者たちがほとんだ。
「それでね、アサ子さんは亡くなってしまったんだけど、お孫さんが数日前にケガをして入院中だって聞いたのよ」
「たしか孫娘だろ。前に創業何十周年記念っていうパーティーにつき合わされたのを覚えてるよ」
祖母の記憶には一部誤りがある。年賀状のやりとりしかしていないと言ったが、三石系列の会社の創業記念パーティーの招待状はよく祖父母のもとに届けられていた。
何度かパーティーに参加した祖父母のために、尊は送迎の車を出したことがある。
「弁護士の松坂さんが教えてくれたのよ」
弁護士の松坂勇平氏は、祖父の貿易会社の顧問弁護士を務めていた人物だ。会社は尊の父が継いでいる。
「お孫さんは瑠理香さんって言うんだけど」
「絵に描いたワガママお嬢様だった」
五年前のとあるパーティーで、尊は瑠理香という娘と面識があった。しかも、あまりいい印象は残っていない。
当時未成年だった瑠理香のビジュアルは、そこらへんのアイドルよりも優れていた。ところが、周囲から蝶よ花よともてはやされて育ったため、性格には問題があったのだ。
「イケメンって聞いてたから期待してたのに、オジサンじゃない!」
祖母に紹介されて挨拶した尊を前に、瑠理香は平然とそう言い放った。
思ったままを言葉にするのは、素直を通り越して軽率としか思えなかった。たしかに十八、九の彼女から見れば三十を過ぎた尊はオジサンと呼ばれても仕方がないが、露骨に態度で示されては不愉快だ。
(あの子がケガねぇ……)
三石家の令嬢のケガの程度はどうでもよかったが、祖母が望んでいることは大体想像がつく。
「尊。悪いけど、私の代わりにお見舞いに行ってきてくれないかしら。亡くなったアサ子さんの代わりに何かしてあげたいの」
青春の思い出を分かち合った親友のアサ子は、尊たちがパーティーに参加した翌年他界している。それ以後三石家との交流は絶えてしまったが、祖母は友人の孫娘のことをずっと気にかけていたらしい。そうなると、祖母の頼みを断ることはできなかった。尊は優しさが災いして、貧乏くじを引くことも珍しくないが、どんな問題も正面から受け止めてきた。
「わかった。彼女はどこの病院に入院してるの?」
「鴻上総合病院よ。あそこの院長は、三石家の主治医だったの。先々代が開業する時に資金援助してるのよ」
スマートフォンで鴻上総合病院のホームページを検索し、面会時間を確認した。