1. プロローグ ー俺は今日こうして、異世界へと旅立つ
「甲第2000号証から甲第3000号証までは問題なしと。続いて、甲第3001号証から……」
そう言いながら、目の前の女性は分厚い本を次々と読み進めていく。もう20分以上は経過しただろうか。こちらに視線は一度も向けられず、彼女はただひたすらページをめくっていく。
ふと、俺は何気なしに上を見つめてみる。際限なく続く真っ暗な空間。そこから一筋の光が降り注ぐ。それは淡くも、はっきりとした明かり。温かくもどこか冷たいような、そんな不思議な光だ。この光はどこから来ているのだろうか。その先に一体何があるのだろう。だがそれはきっと、『人知の与り知れない領域』なのかもしれない。
「さて、シバ イツキさん」 「…………」
「イツキさん?」 「あっ、はいっ!」
ぼーっと佇んでいた俺は、突如自分の名前を呼ばれ、はっと我に返る。
暗闇の中で光が照らす先、黒服を纏ったその女性は、初めて俺を見据えていた。こちらに向けられたその瞳は、どこまでも青く透き通っている。外国の方なんだろうか? その褐色の艶めかしい肌は、アジア系であることを連想させる。しかしフードを被っているため、彼女の容貌のすべては分からない。だが、顔つきしか見えないことが、却って彼女の真剣さを一段と伝えてくる。空気が少し重くなった。
「こちらを声に出して読んでください」
そう言うと、どこからか白い紙を一枚取り出し、俺のほうに差し出した。刹那、ひらりと俺の手元に舞い落ちる。
「ええと、これは……?」 「宣誓書です。初めに必ず読んでいただきます」
言いながら、視線は俺から動かさずに、掛けている眼鏡をくいっと上げた。
「ええ……宣誓。良心に従って……? 真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを……我が女神に誓います……って我が女神!?」
「はい、結構です。ああ、そういえば自己紹介がまだでしたね。あなたの審判を担当する、女神です。まぁ、女神といっても今では下っ端でパシリのような扱いですが……」
そう言うと女神様は初めて苦笑い、表情を崩した。
口元を緩めると、その顔立ちは女神というだけのことはあり、とても整っている。例えるなら、出来る美人秘書といったところか。全身真っ黒服の眼鏡っ娘。服装がだぼだぼしていてはっきりとは分からないが、たぶんスレンダーな体型だろう。(願望補正付き)『こういうの』が好きな人にとっては、きっと堪らないんだろうな。彼女が少し穏やかな表情を見せたため、こちらの緊張感も和らいだ。だが、すぐに切り替えたのか、再び眼鏡を上げ女神様は表情を戻す。
「では、斯波一椿さん。貴方は、日本、東京生まれで間違いありませんね?」
「ああ、はい……」
「年齢は17歳。都内の高校2年生ですか」 「そうです」
「そして……」 女神様は一呼吸置くと、
「死亡時刻は今朝の8時13分で、間違いありませんね?」そう聞いてきた。
「多分……そうだと……思います……」
やはり、俺は既に死んでいたようだな。(まぁなんとなく、薄々そんな気はしていたのだが)そういえば、今朝家を出てから、ここに来るまでの記憶があやふやだ。その過程を思い出すため、確定的な記憶から辿ってみる。確か家を出てから、自転車で学校に向かい、そのあとは……
「大型トラックに轢かれて即死ですね。自殺ですか?」
「!? いや、ち、違い……違うと思います……」
辿っていたその先の核心を、いきなり告げてくる。そして曖昧だった俺の記憶は、今確然とした。そういえば、大型トラックの目の前に飛び出して、轢かれたんだったな。でもなんでいきなり俺はトラックに飛び出したんだ? 肝心な理由だけは、はっきりと思い出せない。ただの交通事故だったとは思うが。何かの事件に巻き込まれたとか? それとも女神様が言うように、自分から飛び込んだのか? いや、自殺の可能性はないだろう。そんな動機は特に見つからないので、選択肢としては頭から消しておく。た、多分……
「まぁ、そんなことはどちらでもいいのですが。とりあえず、貴方の生前証書を3280号証まで全て読んだところ、特に大きな問題は見つかりませんでした」
生前証書? なんかよく分からないけど、とにかく問題が無いってことは善いことだよな。得てして問題という言葉は、悪いものに使われるのだ。いやいやいや、俺にとっては事故か自殺かが、今現在の喫緊問題なんですけど。
「あの、一つ質問いいですか?」 「ん? 許可しますよ」
聞きたいことはたくさんあるのだが、とりあえず、まずは素朴な疑問を尋ねてみたい。
「なんで俺、今裁判受けてるんですかね?」
そう。俺、斯波一椿は、生まれて初めて裁判にかけられている……! もちろん所謂被告人席に立たされているのだ。対する女神様は、俺の目の前、法廷の裁判官席に座っていて、やや高い位置からこちらを見下ろしている。黒いだぼっとした服、法服を着て。一応、左右にも弁護人や検察官が座るような法壇はあるのだが、誰もいない。そして、俺たちのいる法廷を微かな光が照らし出し、あとは真っ暗な空間が何処までも広がっている。俺、何か悪いことしました? 問題ないんじゃないの?
「そうでしたそうでした! 何の説明も無しに、貴方の生前審理をいきなり始めてしまったんでした! いやすみません、最近こういった仕事が私にたくさん押し付けられててですね……次から次へと忙しくてつい……いえ、そもそもこういった仕事は、本来正式な神や女神がやるもので、私はもう人を罰する仕事はしてないんですよ? (殺戮とか)……あ。今のは何でもないですからね? あと、誤解の無い様言っておきますが、【私も正式な女神様】なんですよ? ただですね……」
「…………」
どうやら俺は地雷原どころの話ではなく、原液ニトロに足を突っ込んだらしい。突然何かを思い出したのか、ぶつぶつ言い始める女神様。さっきまでのクール秘書の面影はどこいった。まぁ、こういうギャップがあるからいいのか。ちなみに必死に身振り手振りしてますけど、最後のは聞いてない(聞かなかった)んで大丈夫ですよ。
「ゴホン、し、失礼いたしました!」そうわざとらしく咳込むと、我に返った女神様。ようやくさっきの質問に答えてくれる。
「まず、先ほども言ったように、貴方は既に死んでいます。ここにあるのは貴方の精神だけであって、肉体はとうに滅んでいるのです。交通事故ですからねぇ……なんと言いますか。こう、ぐちゃっと」
言葉に合わせながら、女神様は手を広げ、そしてぎゅっと握って見せた。自分の最期を想像するのってなんか複雑な気持ちだ。……っていうか今言葉の最後に☆マークがつかなかったか? ぐちゃっと☆
「そして、死後に残った精神、つまり霊魂を私たち女神や神が審判し、その後の『行く末」を決めるわけです」 「なるほどなぁ。結局、人って死んだらみんなこうやって裁かれるんですね」
世の中にはいろいろな宗教で溢れているが、最後に辿る道は全部同じだったというわけか。
「それは違います。人によって、いいえ、信じる宗教によって様々なのです。例えば審判も、一人一人を天秤にかける神もいれば、ありとあらゆることを同時に裁定する神も、それどころか審判すらせず魂を救済してしまう神だって存在するのです。故に『行く末』もまた同じことです。天国や地獄に行く者もいれば、生まれ変わる者もいる。永遠の楽園、私は<葦の原野>と呼んでいますが、そういったところにだっていける宗教はありますから」
女神様はそう語る。ふむふむ。つまり、全ては己の信ずる宗教次第ってことか……
にしても、<葦の原野>なんて聞いたことがないぞ。この女神様、結構マイナーなんだろうか。もちろん口には決して出さないが。
「ああ、大事なことを言い忘れていましたが、貴方の思考は全部聞こえていますよ?」
女神様はニッコリ微笑んだが、俺は今のを聞かなかったことにした。美人秘書の下りがちょっと恥ずかしい。
「さて、もうお気づきでしょうが。ここで貴方には重大な問題があるわけです」
真剣な眼差しで言う女神様。もちろん心当たりがある。
「俺、そういえば何も信仰してないんですが」
ポツリと呟くと、すると女神様は軽い溜息をついた。
「そう、貴方はこれといった信仰を持ち合わせていないのです……だからこうして比較的暇な私が呼ばれている訳なのですが」
比較的を結構強調しているが、かえって逆効果だ。暇なんだなこのマイナー女神様。と、女神様がまたしてもニッコリしたのですぐさま思考を消す。今度は目が笑ってなかったゴメンナサイ。
それはそうとして、俺は神様を信じない主義だ。信教の自由とは、あらゆる宗教を信じなくて良い自由でもある。一応、毎年年初には初詣に行くし、夏に盆踊りだってやる。秋にはハロウィンを楽しむし、冬は家族とクリスマスを過ごす……そう家族で。家族でなんだけどね。大事なことなのでもう一度いう。(悲しいので省略)
……まぁ何というか、善くも悪くも日本人的に過ごすのだ。だからこれといって熱心に信仰する宗教はない。無神論者というよりは、宗教に興味がないといったほうが正しいのだろう。
「では、話を一度貴方の審判に戻しますよ」
彼女は人差し指で、眼鏡のブリッジを再び押し上げた。
「先ほども言いましたように、貴方の生前の行いに特段問題は見つかりませんでした」
「じゃあとりあえずは俺、天国や楽園とかに行けるんですね?」
何はともあれ、地獄とかじゃなくてよかった。別に生前何か悪いことをした覚えも無いしな。強いて挙げるなら、中3の夏休みに終わらなかった宿題を丸写ししたくらいか。まぁ仮にそんなんで地獄行きが決まったら、即時控訴なり上告なりするんだけど。と、
「いいえ。残念ですが貴方は、天国にも地獄にも行けません」 「え?」今なんて?
「そして、楽園どころか輪廻すらも許されない」 「あの……それはどういう?」
「貴方の『行く末』は、【無】しかありませんね」
女神様は淡々と、それでいて憐憫の念を滲ませながら、そう俺に告げた。
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「【無】ってなんですか!【無】って!?」
「【無】は…………【無】ですね!」
言いながら彼女は苦笑いを浮かべる。いやいやいや、それ答えになってませんて女神様! 問題:この人は誰ですか? 解:この人はこの人です☆ みたいなものですからね? 目でそう訴えながら、必死に説明を求めていると、女神様は少し俯き、深い溜息を一つついた。そして、
「正直に申し上げますと、私も【無】がどういったものか知らないんですよ。そもそも私の概念には、【無】なるものは存在しないんですから」
と、申し訳なさそうに言った。
「ええっと、つまり……?」
説明しよう! つまり、ここにいらっしゃる女神様は、自分もよく御存じでない【無】という世界(状況?)に俺を送り込もうとしているわけだ! 俺には、信じている神様がいないために。
「そういうことになりますね。一応聞いた話によると、【無】は精神も肉体も永遠に存在し得ない場所のようですし。多分貴方の<思考そのもの>も一瞬でなくなりますから。何も恐れることはありませんよ」
それと次の審理もありますので、そろそろ判決に移らさせていただきます、そう告げられる。
手にしていた宣誓書が、無造作にふわりと引っ張られ、彼女の手元にゆっくりと舞い落ちた。
「それでは、審判を下します」
「え!? いや、ちょっと待っ」
矢継ぎ早に始める女神様。もう弁明や質問は受け付けないと言わんばかりに。だが俺にはまだ、聞きたいことがたくさんある。
「汝、善良なる斯波一椿。汝は神々を信仰せず、そしてその生を終えるに至った」
彼女の表情には、さっきまでの穏やかさは見られない。きっとこれが<裁定者としての>彼女なのだろう。俺は、全てがもう遅いということを静かに悟った。
「その生は決して、悪ならざるものなり。汝、善き生を全うし此処に至ることを我が証明す」
考えるという<思考>さえなくなってしまうのだから、何も恐れることはない、と彼女は言った。それはまさに、夢を見ることのない永遠の眠り。つまり俺は【今から完全に死ぬ】んだ。
「汝に……」
だがまぁ、今更あれこれ言っても仕方ないんだろうな……そもそもトラックに轢かれたのは、自業自得だろうし。俺はそう開き直って目を瞑った。目が覚めたらここにいて、色々よく分からないまま勝手に話が進んでいったが、それももうこれで終わりのようだ。
「…………猫」 そうだ、ねこだしな。
「……ねこ?」
俺は、突然発せられた猫という言葉に、思わず声を漏らしていた。
その瞬間、失われていた記憶が蘇る。俺は……
「……貴方は、トラックに轢かれそうになった野良猫を助けようとして死んだのです」
先に女神様が答えた。
ああ、そうだ。そうだった。そういえば、道路に飛び出した野良猫を咄嗟に助けようとしたんだ! 俺は何も考えず、衝動的に動いていた。そこに命の天秤はなかった。突然のことだった、というのもあるが、今まさに轢かれそうになっている猫を、どうしても見殺しにはできなかった。そんな自分が許せなかったんだ。
「よかったー自殺じゃなかったんだな俺」「ほとんど自殺ですけどね」
ほっと胸をなでおろそうとしたところに、鋭い突っ込みがはいる。裁判官女神様からの自殺認定。ちょっと心証悪くないですかね?
「まったく……野良猫の命を助けるために、死んでしまうなんて……」
女神様は、心底呆れたような素振りを見せるが、なぜか表情は笑っていた。どうやらその笑みは嘲笑などではないようだ。
「あの……それであの猫は?」 「ええ。貴方のおかげで無事でしたよ。その後、死んだ貴方の顔をぺろぺろと舐めていました」
そう言うと彼女は、今日一番の満面の笑みを浮かべた。そこには一切の皮肉や嫌味など見られない。ただただ、純粋に嬉しそうな表情だ。猫が轢かれずに済んだこと、あるいはそのあとの猫の行動が可笑しかったのだろうか。その美しい笑顔に、俺は思わず緊張してしまう。
「はぁ……全くしょうがないですね」
先ほどまでの真剣な声音とは違って、再び穏やかなものに戻っていた。そして……
「貴方には特別に、もう一つの道を提示いたします。どちらを選ぶかは貴方次第です。
さぁ、汝、選びなさい。 これより【無】か【異世界行き】かを」
【無】という選択肢の他に【異世界に行く】というものが増えた……って
「い、異世界!?」 「はい。異世界です」
そんなことを言い出した!
「い、異世界ってなんですか?」 「さぁ、私にもさっぱり」
……言い出したくせに、また知らないときたな。っていうか本当に異世界ってなんだ? 最早地球じゃないのか?
「多分、そうだと思いますよ。異世界なんですから、異世界なんでしょう」
さっきと全くおんなじなのだが、この女神様が当てにならないことだけはよく分かった。美人秘書さん以外にポンコツ。
「はいはい。で、どうするんです? 貴方はどっちにするんですか?」
一切情報を与えられないまま選択を迫られる。もう少し、インでフォームドなコンセントをしてもらいたいところだが、答えはもう決まっている。もう一度チャンスがあるのならば、その道を選ぶまでだ。俺はまだ思考を無くしたくない。 俺は、生きたい!!
「お決まりのようですね」
女神様はそう言って、宣誓書に何やら書き込んでいく。
「我、神聖なる審判をここに下す。 汝、異世界へ転移せよ!」
刹那、俺の体に強い光が照らされる。頭上から差していたあの不思議な光が、先ほどよりもはっきりと強く、そして温かくも俺を包み込んでいく。
「あの女神様! 異世界って言語とか通じるんですかね?」
「どうでしょう。こんな措置私も初めてなので分かりません。本当に特別なこと、なんですよ?」
んな適当な! 言語ぐらい保障してよ! 俺は異世界で語学勉強から始めるのか!? だが、そんな俺の内心がよっぽど可笑しかったのか、女神様はいよいよクスクスと顔を崩した。
「きっと大丈夫ですよ。女神様を信じなさい」
彼女は立ち上がり、俺に優しく微笑む。
「あっ! 最後に女神様のお名前を教えていただけませんか!?」
もう残された時間はほとんど無いのだろう。自分の体が少しずつ消えていくのが分かった。だが最後に、お世話になった女神様の名前ぐらい覚えておきたい。この17年の人生の中で初めて、信じてもいいかなってちょっとだけそう思えたのだ。
すると、女神様は、掛けていた眼鏡を外し、更に被っていたフードを後ろへと脱いだ。そこには、ひょっこりと猫耳姿が現れ……
「我は太陽の目にして、ペル=バストの主なり。名をバステトと言う」
そして、最後にこう続けた。
「汝に我が祝福を」
ー俺は今日こうして、異世界へと旅立つ