2-1:不機嫌王子の人質教育(1)
キャンバスに線を描き、色を乗せていく。機械的に、淡々と。
その『作業』を面白いと感じたことは、生まれてこの方一度もない。
だが今だけは、積極的にキャンバスに向き合いたいと思っている。
足につけられた枷も、押しかけ強盗ならぬ押しかけ王子も、絵の世界に飛び込んでしまえば存在しないに等しいのだから――
◆ ◆ ◆
「お嬢さん、晩ごはんの時間だよ」
日が暮れ、藍色の空に星が瞬き始める頃。
リラは、薄暗いアトリエ内で上品に微笑む令嬢と向き合っていた。
頬の血色、唇の艶、瞳の輝き……繊細な筆運びで色をつけていくたびに、キャンバスの中の令嬢は美しさと妖艶さを増していく。
「……お嬢さん、お風呂の時間だよー」
夜の帳が下り、星がますます輝きを増す頃。
シュミーズドレスに陰影がつき、体の線が艶かしく浮かび上がる。ドレス越しの豊満な胸と細い美脚があらわになるにつれて、令嬢は妖しい色香を放ち始めた。
「…………お嬢さん、いい子はもう寝る時間だ」
心地いい夜気を、フクロウの渋い声が震わせる頃。
キャンバスの中に、無数の花が綻びはじめる。何もない無機質な背景は、瞬く間に令嬢の美しさを際立たせる幻想的な光景へと変わっていった。
そしていよいよ月が沈み、優しい朝日がアトリエに降り注ぐ頃。
「うん、完璧!」
スツールから腰を上げ、じっくりとキャンバスを眺めたリラは満足そうに頷いた。
(シルヴァン様に依頼されてた肖像画は終わったし、他に描くものないかな……)
「………………やっと終わった?」
「うおわ!?」
ふっと耳に息をかけられ、体が飛び跳ねる。
追撃を許さないよう手でガードしながら振り向くと、そこには幽鬼がいた。
「お、おおお、王子?」
薄暗い笑みを湛え、据わった目をしている青年は、リラが知っている押しかけ王子とはまるで別人だ。
(怖い怖い怖い……)
足に枷さえなければ、脱兎のごとく逃げている。
「絵画、完成したんだ、よかったね。俺の再三の呼びかけに答えなかった甲斐があったんだねえ」
「……王子、目にくまができてませんか?」
赤い瞳を強調する、薄い影。
心労を象徴するその跡に、リラは小さく首を傾げる。
なにせ、こっちは絵画の世界から戻ってきたばかりなのだ。王子がなぜ幽鬼のような様相に変わり果てているのか、状況が飲み込めない。
「そりゃ、出来るだろうねえ。……というか、どうして君には出来てないんだろ?」
「わわ……っ、王子、近い近い!」
ぐいぐいと、顔を寄せられる。
瞳を覗き込まれとっさに顔を逸らすも、片手で乱暴に顎を掴まれ視線を戻された。
「あ、もしかして人間じゃないのかな。そっか、人間じゃないんだね。君が人じゃないなら、すべてのことに納得がいくよ」
「あああ、あの、私、なにか気に障ることでもしましたか?」
「え、なに? 君、思い当たることがないの?」
「まったく、さっぱり、これっぽっちもっ!」
「そう……」
全力否定すると、殺意すら感じるほどの力でぎゅうううう、と抱きしめられた。
「ぐ……ぐるし……」
「俺はね、シルヴァンに『お嬢さんを大切にする』といった手前、甲斐甲斐しく世話を焼いてあげようと思ったんだ。料理を作ってあげたり、お風呂を入れてあげたり、寝床を整えてあげたり……そんな健気な俺の好意を、君は全部無視したよね」
(無視……したっけ?)
何も記憶にない。
そもそもいつ、空が明るくなったのかも覚えていない。
王子に枷をつけられ、現実逃避を始めたのが夕方頃だったはずなので、少なくとも一夜は明かしたのだろう。
「何を言っても無視するからさ、ほんと、どうしてやろうかと思ったよ」
「すみません……私、一度集中し始めると周りのものが見えなくなるんです。あなたも、気にせず休めばよかったのに……」
「俺が寝てる間に、お嬢さんが何するかわからないでしょ」
「枷つけられてるんですから、何も出来ないですよ」
「そういう言葉は一切信じないことにしてるんだ。俺、疑り深い性格だから」
「それはまた……疲れますね」
(もしかして、私が眠ってから休むつもりだったのかな)
不機嫌オーラを全開に、王子はリラを軽々と抱き上げ、公爵家のお下がりであるふかふかのソファーに寝転がる。
「ちょっ……! 離して、くださいっ」
じたばた暴れるも、これが男女差というやつなのか、簡単に押さえつけられてしまった。
「脳が睡眠を欲してるんだよ。君も人間なら、そろそろ限界来る頃でしょ」
「私はまだ大丈夫なので、眠るなら王子だけで……!」
「さっきの俺の話聞いてた?」
「私を信用してくださいってことです!」
「寝言は寝て言え」
口調すら崩れるほど眠いのか何なのか、王子は瞼を閉じると、乱暴にリラのストロベリーブロンドの髪を撫で始めた。
「ほら、早く寝ろ」
「いやいや、なんて理不尽な……」
「君、人質らしく痛めつけられたいの?」
「…………大人しく寝ます」
(うう、もう一回現実逃避したい……)
見ず知らずの男の腕の中。
ドキドキよりも、バクバクする。男女の緊張というよりは、体の防衛本能が働いているのだろう。
なにせ人を睡眠薬を使って眠らせ、その間に枷をつけるような危ない男だ。意識を失えば、何をされるかわかったものではない。
(誰か、助けて)
救いを求めるようにアトリエのドアに目を向けた時――願いが天に通じたかのごとく、部屋に光が差し込んだ。
「んだ、これ。どーいう状況だ?」
「ヨハン……!」
突然の来訪者は、リラの数少ない顧客の一人だった。
柔らかな黒髪をぼさぼさに掻き回し、気だるそうな金の瞳をソファーに向けた青年は、ドアを押し開いたまましばし立ち止まる。
宮廷官僚、ヨハン=ラルエット。
彼もまた、シルヴァンと同じく宮廷に仕える貴族だ。
「お願い、助けて!」
「おう、お楽しみ中邪魔して悪かったなー」
「違うよ!? ヨハンの勘違――むぐっ」
「うるさい、黙れ。頭に響く」
(ひい……)
手のひらでリラの口を覆い、物理的に言葉を封じた王子は、やって来た来訪者を容赦なく睨みつける。
「ヨハン。眠い、報告なら手短に」
「へーい」
「ほ、報告?」
「そーいや、お前には言ったことなかったよな。俺、これでも第一王子の右腕なんだわ」
「……え」
「ちなみに、シルヴァンは左腕な」
(宮廷官僚だってことは知ってたけど、二人とも王子の側近だったんだ……!)
思い返せば、王子が用意したという『退職届』をヨハンと一緒に読んだと、シルヴァンは言っていた。
つまり、ヨハンがアトリエを訪れたのは偶然ではなく、王子が『報告』を必要とする何かを手紙で指示していたのだろう。
(アトリエに王子がいること、全然驚いてないみたいだし……)
「で、俺の優秀な右腕は、お使いちゃんと出来たわけ?」
「おー」
気の抜けた返事とともに、ヨハンがソファーのそばに膝をつく。
「革命軍に送った密偵から、おもしれー話が聞けましたよ」