1-2:さようなら、日常。こんにちは、監禁生活(2)
「王子が、亡命!?」
言葉だけなら、国家の存亡に関わる大事件だ。
自称王子が本物と決まったわけではないが、嘘をつく理由も今のところ思いつかない。
「俺、今の仕事が嫌になっちゃったんだよね」
「それだけの理由で、亡命するんですか?」
「『それだけ』ねえ……」
返した言葉は、彼の『何か』に触れてしまったらしい。
ふと、王子様らしい爽やかな笑みが消え、アトリエ内の空気は急速に冷えていく。
「君は『それだけ』って言うけど、王子の仕事がどんなのか知ってるの?」
「……っ」
「知るわけないよね。まあ、知ってほしいとも思わないんだけどさ」
ぶつけられたのは、負の感情だ。
鋭さを帯びた瞳に体は震え、無意識に鳥肌が立つ。
(よくわからないけど……亡命を決意するだけのことが、この人にあったんだろうな)
今ここで亡命の理由を深追いするのは得策ではないと、本能が訴える。
はっきりと引かれた一線は、警告の意味も込められているのだろう。
「ごめんごめん、そう怯えた顔しないで」
危険を感じたのは一瞬で、すぐに、端正な顔に笑みが戻る。
肌を刺す冷たい空気も、幻のように消えていった。
「プリドール公爵領は、海に面した港町だ。他国の貿易商のことはシルヴァンが一番詳しいし、ツテもある。亡命の手伝いをさせるのに、これほど適した人物はいない」
「……それは、なんとなくわかります」
怯んでしまった心を叱咤し、気を取り直す。
(この人が本物の王子で、本当に亡命の手伝いをさせる気なら……シルヴァン様は、従わない気がする)
王族の命令は絶対だとしても、国を危機に陥れるような選択をシルヴァンは選ばないだろう。公爵である彼の誇りと責任は、リラも重々知っている。
「もし、シルヴァン様があなたの要求を呑まなかったら、私はどうなるんですか?」
「知りたい?」
頷くと、ズボンのポケットから折りたたみ式のナイフを取り出された。
料理用のナイフ……にしてはやけにいかつくて、認めたくはないが軍事用のナイフであることは一目瞭然だ。
その用途は、推して知るべし。
「……やっぱり、いいです。知りたくないです」
「まあ、そう遠慮せずに」
窓から背を離した自称王子が、あろうことかナイフを持ったまま、ゆっくりとリラに近づいてくる。
その姿が凶悪な殺人鬼のように見えるのは、気のせいではないだろう。
(ま、まだ殺されないだろうけど、怖い……!)
「来ないでくださいっ!」
「人の嫌がる姿ほど、そそられるものはないよね」
「性悪……っ、わ!」
全力で逃げようとして、鎖に足を絡め取られてしまう。
「――っと、大丈夫?」
傾いた体は、素早く距離を詰めた自称王子の腕によって支えられた。
(…………う、わ)
背中に回された手が、リラの体を軽く引き寄せる。
視界を埋め尽くす綺麗な顔に、思考は数秒停止した。
「お嬢さんは人質なんだから、勝手に怪我されちゃ困るよ」
脳が現実逃避を始めているのか、赤い瞳に意識が向く。
近くで見ると、まるで純度の高い宝石のようだ。本物のガーネットですら、ここまで透き通ったものは珍しいかもしれない。
(これと似たような目を……昔、どこかで見た気がする)
「なに? そんなに見つめられると、キスしちゃうよ」
「!」
おぼろげな過去を辿ろうとしたが、とんでもない発言によって強制的に意識を引き戻された。
(そうだ、まずは逃げなくちゃ!)
我に返って離れようと試みるが、許さないと言わんばかりに腕に力をこめられる。
どうやら、逃してくれる気はないらしい。
「はっ、離してください!」
「嫌だね」
「私だって嫌です!」
「君、立場をわきまえなよ。人質は犯人の言うことを聞かなくちゃ」
脅すというよりは、心底楽しそうな声音だ。
(絶望的なくらい、性格が悪すぎる……!)
せめてもの抵抗で顔を背けると、くくっと小さく笑われる。
腹立たしいことこの上ないが、女の、それも普段ろくに運動をしていない引きこもりの力では、敵うわけがない。
「さて、そろそろ時間かな」
「……っ、まだ何かあるの?」
「うん。だって主役が来てないでしょ?」
(まさか……)
ある予感に急かされ振り向いた瞬間、アトリエのドアが軋んだ音を立てて開く。
西日の逆光に目が眩み、瞼を閉じると――カツン、と軽快な靴音が耳に届いた。
「殿下。お戯れはそこまでにしていただきたい」
氷のような冷たさをはらんだ淡々とした声に、うっすらと目を開く。
溢れんばかりの光の中、視界に飛び込んできたのは溶けかけた雪のように煌めく銀髪に、朝焼けに似た群青の瞳を持つ繊細な顔立ちの青年だった。
「シルヴァン、さま……」
見間違えるはずがない。
彼こそが、プリドール公爵家の若き当主にして、有能な宮廷官僚でもあるシルヴァン=プリドール公爵だ。
感情の読めない眼差しがリラに向けられ、次に自称王子を捉える。
「ちゃんと来てくれたね、偉い偉い」
「殿下の呼び出しに応えない臣下はいません。……それより、なぜリラのことをご存知で?」
「俺の情報網が広いのは知ってるだろ。こんなに可憐な花を森の奥に隠しておくなんて、君もなかなかいい趣味をしてるね」
「ありがとうございます」
「……いや、褒めたわけじゃないけど」
(シルヴァン様は今、何をお考えなんだろう)
淡々と答える様子はいつも通りで、表情も無そのものだ。
怒っているのか、心配しているのか、呆れているのか。
どれだけ見つめてもわからないからこそ、嫌な想像ばかりが膨らんでいく。
(ここでシルヴァン様に見放されたら、私の命はない)
王子の手には、変わらずナイフが握られている。シルヴァンの返答いかんでは、いつ刃を向けられてもおかしくはないのだ。
もっとも、国家規模の企みと画家の命は天秤にかけるまでもない。本物の王子を知っているシルヴァンが『殿下』と呼ぶからには、偽物説も期待しない方がよさそうだ。
覚悟を決めるように、ぎゅっと指を握り込む。
「ここに来たってことは、俺の退職届を読んだんだろ?」
「ええ。ヨハンと一緒に」
シルヴァンが黒のイブニングコートの内側から、一通の封筒を取り出す。
おそらくあの手紙に、先ほど王子が語ったすべてのことが書かれているのだろう。
「それで、君の答えは?」
「殿下の要求を呑みましょう」
「えっ」
「いいね、物分りがよくて助かるよ」
(あ、あれ……?)
一秒たりとも迷う素振りを見せなかったシルヴァンに、少なからず動揺する。
リラにとっては救いだが、国家にとっては大きな損害だ。そのことを理解していないわけでもないだろうに。
「ただし、リラを傷つけたら……おわかりですね?」
「もちろん。君が俺の期待に応えてくれるなら、お嬢さんは大切に可愛がってあげるよ」
「……では、交渉成立ということで」
(ええ!?)
シルヴァンはリラを一瞥し、すぐに去っていく。
春の嵐のように、あっという間の出来事だった。
「やっぱり、君は公爵に愛されてるね」
「愛されてる、とかじゃなくて……シルヴァン様にはきっと、何か違う考えがあるんです」
(そうじゃないと、色々おかしい)
「まあ、思惑がどうであれ、俺の思い通りに動いてくれるならなんだっていいよ」
くくっと喉で笑った王子が、リラの耳に唇を近づける。
吐息が触れ、肌がざわめく感覚に眉を寄せると、わざとらしいほど艶めいた声で「リラ」と囁かれて――
「これから俺が亡命するまでの間、よろしくね」
「…………あ」
(そっか。私、しばらくこの人と一緒に暮らすことになるんだ……!)
正確には『監禁』されるのだろう。
亡命が成功するまでの人質として。
日常は、儚く砕け散った。