3-2:与えられた罰(2)
相変わらず抵抗する間もない素早さで、ワンピースの襟をぐっと引っ張られて――
「逃げ出そうとした罰だよ、お嬢さん」
「――たぁっ」
あらわになった首筋に、歯が立てられる。
さほど力は入っていないのかもしれないが、肌を傷つけられる恐怖と羞恥で、視界が滲んだ。
(この……セクハラ王子っ)
押し当てられた唇の感触を振り払うように、大きく息を吸って……思い切り足を踏みつけてやろうとすると、ブンッと飛んできた何かが、目にも留まらぬ速さで身体の真横を通り過ぎていった。
(…………え)
王子の唇が、ゆっくりと離れる。
「危ないな。当たったら死んじゃうじゃない」
「それでいいんです。駆除するつもりでしたから」
すかさず不躾な手を払って振り向くと、壁に突き刺さったノコギリという非常に前衛的な光景が目に飛び込んできた。
(これは……私も、危なかったのでは……)
不快な感触も一瞬で吹き飛ぶくらい、アトリエ内を満たすどす黒いオーラに思考のすべてを持っていかれる。
ギギギ、とぎこちなく戻した視線の先には、ぞっとするほど目の据わったエリカがいた。
「あの、エリカ……とりあえず、殺気しまって……」
「いいえ、リラ様。この男は万死に値しますから、これよりアサシンモードに入ります」
「ア、アサシンモードってなに……?」
「というか、君が余計なことをしなければ、お嬢さんに傷がつくことはなかったんだよ。綺麗な肌に噛み跡つけられちゃって、可哀想に」
「…………リラ様、どうか許可を」
「だめだよ!?」
血の海を回避すべく、必死に首を横に振る。
「なぜその男を庇うのですか! 存在そのものが害虫以下の下衆ですよ……!」
「否定はしないけど、仮にも王子だから殺しちゃだめ」
「王子じゃなかったら殺ってもいいとか言わないよね、お嬢さん」
「…………」
「なるほど? 俺は随分嫌われたみたいだ」
(嫌われるようなことしかしてないんだから、当然でしょう)
端正な顔が、苦々しく歪んだのは気のせいか。
はあ、と小さく息をついた王子が、リビングを指で示す。
「まあいい。エリカ、書類には全部目を通した。向こうの部屋にあるから、持って帰って」
「いいえ、王子。下衆を成敗するまで帰るわけには――」
「聞き分けが悪いと、次はお嬢さんから血が流れるよ?」
「!」
腰に手を回され、拘束される。
抱き寄せられても抵抗しないのは、本気で捕らえられたら抜け出せないことをここ数日で十分に理解したからだ。
(細身のくせに、力が強いんだよね。それに……)
思い出すのは、ノコギリが飛んできた、あの刹那。
王子はリラに噛みつきながらも、さり気なく身体を横にずらしたのだ。
咄嗟のことだったにも関わらず、疾風迅雷の刃をかわす身体能力――兵士さながらの反射神経は、ただ者ではないと警戒させるには十分なパフォーマンスだった。
(偶然避けられたって可能性もあるけど……この人、腕っぷしは強そう)
つまり、武闘派ではないエリカとリラに、為す術はないということだ。
「お嬢さんを傷つけるのは、君の本意じゃないでしょ?」
「っ……申し訳ありません、リラ様。次は、ノコギリではなく害虫駆除用のサーベルを持ってきますね」
「うん、やめてね」
悔しそうに歯噛みしながらも、エリカはリビングから分厚い書類の束を取ってきて、そのままアトリエを去っていく。
バタンと乱暴にドアが閉まると、監禁生活が始まってから当たり前になりつつある二人きりの時間が訪れた。
「――さて、お嬢さん。これで、この足枷はピッキングや工具じゃ取れないってことは理解できたね」
腰から手を離し、流れるような動きで床に膝をついた王子が、リラの足首に軽く触れる。
「痛っ」
その瞬間、鋭い痛みが波紋のように広がっていく。
極力目を逸し続けていたが、枷をつけられた足には、赤い傷跡が出来ているのだ。
「それから、無理やり足を引き抜こうとしても無駄だから」
(っ……いつから、ばれてたんだろう)
王子は一日中、リラを監視しているわけではない。
料理や掃除という主婦の時間にアトリエから離れることがあり、その都度力づくで足枷を外そうと何度か試みてはいるのだ。
しかし、結果は惨敗。
枷が皮膚と擦れるだけで抜けることはなく、気づいた時には足に傷が出来てしまっていた。
(傷跡は一応、枷で隠れてるんだけどな)
エリカは誤魔化せても、無駄に目敏い王子は誤魔化せなかったらしい。
「大人しくしてれば、こんな痛い思いをすることはないのに……」
「それ以前に、あなたがこの枷を外してくれれば、万事解決なんですけどね」
「そうやって現実的な解決方法を理解してるのに、無謀な力技で外そうとするなんて馬鹿のすることだよ」
「……どこが現実的なんですか」
(絶対、外してくれないくせに……)
「大体ね、リラ。『外してくれない』じゃない。『外させる』んだよ、こういう時は」
「え……」
王子が近くの棚に納めてあった救急箱を持って来て、手際よくリラの足首に軟膏を塗っていく。
「自分でやる」と主張してみたものの、「引きこもりのお嬢さんは怪我の手当てなんてしたことないでしょ?」の一言で封殺された。
「君が本気で枷を外したいと思うなら、方法は二つしかない」
「二つ?」
優しい手付きで包帯を巻きながら、王子が歌うように言葉を紡ぐ。
「一つ目は、俺から枷の鍵を奪い取ること。肌身離さず持ち歩いてるから、隙をつけば奪えるかもしれないね」
(無理だ、絶対)
あの運動能力と隙のない警戒心を目の当たりにして鍵を奪えると思うほど、楽観的ではない。
「二つ目は、俺を落とすこと」
「落とすって、どこから?」
「物理的な意味じゃなくてね。俺を、色仕掛けで落とせって言ってるの」
「……はい?」
王子の赤い瞳が、どこか挑発的に細められる。
「俺がお嬢さんに恋すれば、枷を外してあげたくなるかもしれない。愛する人に、こんな酷い仕打ちは出来ないからね」




