物語の始まり
早朝の校庭に、一人ぽつんとアイツは立っていた。
朝早く、女に部屋を追い出された俺は、家に帰るのも面倒で、そのまま学校に登校することにした。
新学期が始まり、俺は中学三年生になった。
特段、何が変わるわけでもない。
無為な日常が繰り返されるだけ、そう思っていた。
普段なら朝部活の生徒で賑わう校庭も、新学期が始まったばかりの今はひっそりしている。
なのに、校庭の脇を通った時、目の端に違和感を覚えた。
校庭の真ん中に制服姿の髪の長い女が一人ぽつんと立っている。
なんとなく眺めていると、そいつが唐突によたよたと奇妙な動きをし始める。
踊っている?
いや、違うな、走っているのか。
俺の知ってる走り方とは、だいぶ違うけど。
気になってしばらく観察してると、そいつは走っては止まり、また走っては止まる事を繰り返す。
どうやらトラックを一周しようとしているみたいだ。
よたよたした走りはトラックの半周を過ぎた頃には更に酷くなり、その身体はふらついている。
おいおい、大丈夫かよ、と見ていると、案の定、やっぱり転びやがった!
体が思わず前に出たが、小さな子供でもあるまいし、助けに来られても恥ずかしいだろう。
とりあえず、見て見ぬ振りをしておいてやるか。
何をやっているのかは謎だが、わざわざ誰も居ない早朝を狙ってやってるのだ。
きっと他人に見られたくないに違いない。
一応余所を向いて、横目に確認しながら起き上がるのを待つ。
なかなか起き上がらない。
おい、どうした。
やはり、どこか具合が悪かったのだろうか?
慌てて助けに行こうと思ったその時、そいつは起き上がり、再びふらふらと走り始めた。
全く心配させやがって。
でも、まぁ、良かった。ほっと息をつく。
そいつの走っている姿を追いながら、後少しだ、頑張れと心の中で声援を送った。
無事に一周し、やれやれと安心したその時、そいつが崩れるように倒れ込む。
もう、みて見ぬ振りはしていられなかった。
「おい! 大丈夫か?!」
俺は走ってそいつの元に駆けつけ、声をかけた。
「はし、った! はし、れ、たっ!」
そいつは息を切らせ、四つん這いになったまま独り言を言っていて、俺には気付いていないようだった。 だがこうやって見る限り、元気そうだ。
放っておいても大丈夫だと判断して、そーっとその場を離れようとしたが、その時気付かれた。
そいつが顔を上げて俺の方を見る。
俺とそいつの目が合った。
え?
悲鳴を上げられると思って身構えていれば、そいつは嬉しそうに笑ったのだ。
そして、立ち上がると俺に向かって説明を始める。
「私、走ったの! ここからスタートしてね、ぐるっとトラックを一周。途中転んだりもしたけど、最後までちゃんと走りきったのよ!」
「ああ、見てたから知ってる」
俺がそう言うと、驚いた顔をして、その後照れくさそうな、それでいて子供がするような得意げな顔をした。
「あ、そうだ!」
何かを思い出したように、カバンに近付くと中からノートと筆箱を取り出し、何か書き始める。
覗き込めば、退院したらやりたいことリストと表題が記され、その下には箇条書きでいろいろ書かれていた。
退院という文字を見て、ピンときた。
「これでよしっと。でも、走るって、もっとこう風を切る感じがすると思ってた。実際はそうでもないんだね。ちょっとガッカリ。本だとやっぱり誇張して書かれてるのかな。それか、十五年間の期待が膨らみ過ぎたのかも」
そうか、こいつ、さっきのが人生初の、初めての走りだったのか。
なるほど、あの奇妙な動きの意味が判明した。
「おぶされ」
俺はそいつの前に背を向けてしゃがみ込んだ。
「遠慮するな。お前、風を感じたいんだろう? 本の表現は嘘じゃないさ。お前の走りが遅すぎるんだ」
「え? 嘘じゃないの? 私の走り方が遅かったの? 私、全速力で走ったつもりなんだけど」
「証明してやるから、さっさとおぶされ。風を感じたくないのか?」
「感じたい! でも、えっと、」
「いいから、おぶされ!」
「は、はい! あの、すみません。それじゃあ、よろしく、お願いします」
「しっかり掴まっておけよ」
そいつは羽のように軽くて、走るのに全然邪魔にならなかった。
俺は全力疾走でトラックを一周し終える。
息が切れて苦しい。二百メートルを全力疾走すれば、当たり前か。
ようやく息も整って、背中でじっとしている女に話しかける。
「風、感じれたか?」
「う、うん、ありがとう。思ってたより速くて、すごくびっくりしたけど」
「おろすぞ」
そろそろ登校時間か。校舎の向こうがザワザワし始めてる。
「あ、うん、ごめんなさい。重かったよね」
「いや、そういうわけじゃないけど・・・」
背中から温もりが離れると、妙に寂しさを感じた。
「あの、本当にありがとう! 私、風を切って走ってた! えっと、本当に走ったのはあなたで、私が走ったわけじゃないんだけど、だけど、ずっと夢見てた通りだったの。あなたの足が地面を蹴る音や息づかいを聞きながら風が顔の横を流れていくのを感じて、まるで自分が走ってるみたいだった。あの、本当にご親切にありがとうございました」
頭をぺこりと下げ、目をキラキラ輝かせる顔がとても眩しかった。