8.最後の日
8.最後の日
徳永さんの出勤最後の日は、八月半ばの金曜日だった。週明けの月曜日には、彼は東京の親会社に異動することになっていた。その後、彼はニューヨークに正式に赴任する。
この日は夜に送別会が行われる予定で、泣いても笑っても、そこで会うのが最後の見送り。もちろん松が徳永さんを見納めるのもこの時が最後となるはずである。
その日は、徳永さんは朝からソワソワしていた。それでいて視線がやけに感じられる。実を言うと数日前からこんな状況が続いていたが、顔をあげてみると、彼は、パっと視線を逸らした。相変わらず徳永さんは社内試験のことに触れようとしなかったけど、何か言いたげにこちらをジッと見たかと思うと、目が合いそうになると慌てて下を向いてハァーとため息をついたり。斜め前に座っている松にはいつもと違う徳永さんの行動が、奇異に感じられてならなかった。
この日も徳永さんは、ジッとこちらを見ていた。しかし今日は視線があっても目を逸らさない…りりしい眉毛の下の黒いふたつのパッチリした目玉がこちらを向いている…さすがの松も気になって来た。
今日は徳永さんの最後の日。
何か忘れた事でもあったかな。
前みたいに、忘れ物を家に届けるようなハメにはなりたくなかったので、松は目玉を寄せて、他にやりのことしたことはなかったかと、あれこれと考えた。
「えーと、ニューヨーク行きのチケットは、東京の親会社の方で手配されているんですよね」松は徳永さんに念押しして確認した。
「あ?ああ、うん」
「分かりました。あ、これは月曜日の東京行の新幹線のチケットです」と言って、松は、朝一に総務部に赴いて引き取って来た新幹線の切符を手渡した。
「ありがと」と言って、徳永さんは封筒の中身の切符を確認して胸ポケットにしまった。
「なんですか?」徳永さんが、また、何か言いたげに松の顔を見ながら口を中開きにしたので、松は不審がって聞いた。「まだ何か、ありましたっけ?」
「え?ああ、何かあったっけな」と、すごく上の空。
「経費の申請が残っていましたら、今日じゅうにこっちで済ませて下さいね。振込は来月になっちゃうと思いますが。在館証とロッカーの鍵は、総務部に返却に行きますので、机の上に置いて行って下さい。パソコンの返却申請は週明けにしますので、そのまま放っておいてくださって結構ですよ」
「あっ、パソコン、そうだね」
「えーと、他、何かありましたっけ?」
徳永さんは手を膝の上に置いて、ぼーっとして答えようとしない、というか完全に意識がどっかに飛んでいる。
「徳永さん?」松は呼びかけた。
「ん?」
「じゃ、何かありましたら、外出する前に仰ってくださいね」と、松は言った。
「外出?」
「今日は午後から、お客さんのところに最後の挨拶回りに行くって仰っていたじゃないですか」松は、ますます不審がって顔を覗き込んだ。「朝同じことを二回も言ってましたよ」
「ああ、そうだったな」徳永さんはウンと頷いてみせた。
「お加減でも悪いんですか」松は眉を寄せた。以前、松が腹を立てて徳永さんの質問に上の空だったことがあったが、今回は逆だった。ホントーにどこか具合が悪いのだろうか。
「いや、悪くないよ」徳永さんは首を横にブンブンと振った。「大丈夫」
松は、首を傾げながら席についた。
徳永さんってこんな人だっけ?
いつも猪みたいに思いついたことは、頭で考えるより骨髄反射かと思うぐらいに口と体が先に動くのに、今日は何を言っても「ああ」と「うん」しか返ってこない。
「長いようであっという間だったんじゃないかね」ぼーっと顔の徳永さんに、トクミツ氏が徳永さんに声をかけた。「で、いつからニューヨークに行く予定なの」
徳永さんは、東京に一週間ほどいて、そこから海外赴任の準備をして発つことになっていると答えた。
「ニューヨークかぁ、いいねえ」
トクミツ氏は親会社から天下りしてきた人なので、親会社の雰囲気やニューヨー支社のこともよく知っていた。彼は、ニューヨーク支社にも数度行ったことがあって、支社近くのどこそこに、何があってとか、そういった詳しい話をし始めたが、肝心の徳永さんの方が口数が少ない。
「君を当てにしてニューヨークに遊びに行きたがる若い君のファン達が、ここには沢山いるんじゃないかい」トクミツ氏はそう言ってにやにや笑う。「花家君も、徳永君がニューヨークに居ている間に、遊びに行けるじゃないか」と、トクミツ氏が松にむかってそう言った。「これを機会に、この秋にでも行って来たら?英会話の勉強にもなるじゃないの」
「そうですね」英語の話が出てきたので、少しハラハラしながら松は慎重に答えた。「遊びにいけたら楽しいと思いますけど、でも、赴任されたばかりでご迷惑でしょうし」
その言葉に反応して、徳永さんは松の方に顔を向けた。
「迷惑何てことないよ」徳永さんは言った。「ぜんぜん」
「ほら、ああいっているじゃないか」トクミツ氏は言った。「行っておいでよ。海外旅行というものは、いつでも行けるようで、機会がないとめったに行けるものじゃないんだから」
徳永さんが迷惑でないと言うのは、トクミツ氏に促されての儀礼的なものに違いなかった。松は言葉を濁して何度も遠慮したが、トクミツ氏は、この話を延々と続けて、やめようとしない。
松は、彼女が首を縦に振るまでニューヨークの話をし続けると思ったので、仕方なく徳永さんに向かって「ではもし、ニューヨークに遊びに行きたくなった時は、お願いするかもしれません。その時は宜しくお願います」と、言った。
「ぜひどうぞ」と、今日の徳永さんにしては、とてもはっきりした声で言った。
「歓迎するから」
午後になって、徳永さんは外出して行った。
机の上には在館証とロッカーの鍵。ここにはもう戻らない。
徳永さんは外出先から送別会の開かれる宴会場に直接向かうことになっていた。松は徳永さんをほっとした気分で見送った。
「花家さん、今日は時間通り来てください!」部内の最年少かつ、宴会係の滝上君が耳打ちしてきた。滝上君は今年の新入社員である。彼は小間使いのように、部内の人達に気を配りまくっていた。
そう言われても、松は、今日は目立たないように直前に行って、一次会がお開きになったところで帰るつもりだった。
「今日って、何人ぐらい来るの?」
「三十五人程来ますよ」と、滝上君は答えた。
「三十五人も?」
「二十人ぐらいがここのフロアーの人で、後は、徳永さんの付き合いのあるこのビルの人達ですよ。英会話ランチをしていた佐藤さんとか、美月さんとか、あと、同期の津山さんとか、そうだ、支店の山田さんも来ます」
「女の人ばっかりじゃない」
「ほんとうですねー」滝上君は羨ましそうだった。「半年のも間に、よくもこれだけの女性の心をつかめるものですよね。ボクも転勤する時は、これぐらいの数の女子に来てもらいたいです」
津山さんも来るのか。
津山さんとはあの立ち聞きしてしまった以来、食堂でばったり会ったりしたが、挨拶程度で詳しく話すことはなかった。あまり話したくなかったが、お世話になった人なので、避けるわけにはいかなかった。津山さんにしろ、徳永さんにしろ、誰も何も悪く思うようなことなど何もないのだから、気にすることなどないのだけど。
当の主役が外出先から会場にぎりぎりに来ることもあって、滝上君に言われた通り、松は徳永さんと鉢合わせしないよう早めに会社を出た。店の入り口で桐子と会った。
「あれっ、桐子も今日は参加するの」桐子はいつもより女らしくオシャレしていた。
「わたしも英会話ランチで徳永さんにはお世話になったから。でも一次会で帰るよ。この後、彼と約束しているから」
「へぇいいねえ」
「そうだ、松、これが終わったら、私達と一緒に飲み直さない?」
「ええーっ、いいよ。彼氏と水入らずのところを邪魔したくないよ」松は遠慮した。
「でも、松には結婚式に来てもらいたいし、彼を紹介したいの。いい機会だし…よかったらだけど」
桐子の彼の話は、桐子の口から何度も耳にしているが、会った事がなかった。
「じゃあ、お邪魔じゃなければ」と、松は言った。
「お邪魔じゃないよ」桐子は嬉しそうだった。「彼にも言っとくね」
この後の予定が入って、よかったと思った。
それを口実に二次会を遠慮できる。
会の始まる六時半ギリギリに主役が現れた。座敷はほぼ満員になっていた。テーブルは二つの島になっていて、部署の人達ばかりが集まるテーブルと、もうひとつは徳永さんのファンの女子達や部外の人達の集まりだった。そこに山田さんや津山さんもいた。松は、徳永さんと同じ島のテーブルの、彼からちょっと離れた位置に座っていた。
滝上君を音頭役に会が始まった。
飲み物が注文され、料理が運ばれて会は賑々しく進行して行った。徳永さんは色んな人からお酒をすすめられて飲んでいたが、彼は意外と酒に強くないのかすぐに顔が真っ赤になった。たった半年しかいなかったのに、友達やら、彼を慕うファンやらに囲まれて別れを惜しまれていた。
時間が経つにつれて、料理の皿もだんだんと空き始め、あっちのテーブルの人がこっちに、こっちのテーブルの人があっちに入り混じりはじめた。津山さんが徳永さんに挨拶するために、ビール瓶を片手にこちらのテーブルにやってきた。
松の隣の席が狭くなったのを機に、松はトイレに立った。
今夜は二次会には出ないつもりだし、後で桐子の彼と会うことになるからあまり飲まない方がいいかなと、鏡の前で髪と顔を整えてからトイレから出てきた。長い板敷の廊下を歩いて、二階へ続く薄暗い階段の段々のところに、誰かがうなだれた様子で座っていた。
「徳永さん、こんなところで何しているんですか?」松はびっくりして、声をかけた。
「あ?ああ、ウン。そのえっと」徳永さんは顔をあげて言った。「その、ちょっと熱くなっちゃってさ、ここで涼んでいたんだよ」
「ビックリしました。こんなところで座り込んでいるんですもん」
徳永さんは、ははっと可愛らしく笑った。
「トイレあきましたけど入ります?」
「んーあーそうだね」徳永さんはそう言って、よっこらしょっと立ち上がった。
松は徳永さんをトイレの方に通すために体を斜めにして場所をあけた。すれ違いざまに彼は足を止めた。
「あのさぁ、ハナイエさん」
「はい?」
「あ…あのね」徳永さんの顔が真っ赤だったのは、松は、彼が単に酒に酔っているからだと思って、全然気にも留めなかった。「その」
「どうなさったんですか」松は言った。「ご気分でも悪いんですか?」
「いや、そうじゃなくてさ」
徳永さんはそう言いつつも、ちょっと足元がふらついているようであった。
「その、いつでもニューヨークに来てね」と、彼は言った。
「え?ええ、はい。ああ、ありがとうございます」
なんか、昼間と同じことを言ってるなーと思った。酔っぱらって忘れちゃったのかなと、思いながら「そうですね、機会がありましたら是非」と、答えた。
「きっと、来てね。その、待っているからさ」徳永さんは尚も言った。「機会がなくても来てよ」
???
よく分からないけど、要するにニューヨークに遊びにおいでよって、お愛想で誘ってくれているのだろうと思った。
「英語の勉強になるし」彼は言った。
「そうですね」
「英語は、あれ以来続けている?」
「あー…」と言って、言葉が詰まる。「試験が終わっちゃったんで、今は休憩中です」
「続けてやらなきゃ、ダメだよ。せっかくあそこまで頑張ったんだから」
そう言われても…という気分だったが、徳永さんは足元はふらついているし、顔は真っ赤だし、酔っぱらった上での話であろうと思ったので、松は
「そうですねえ、やらないと忘れちゃうのは分かっているんですけどね」とだけ言ってそこを立ち去ろうとした。
「この前さ」徳永さんは引き止めた。「変な事言ってごめんね」
「えっ?」
「別に悪い意味で言ったんじゃないんだよ。僕は本当に、ハナイエさんは熱心にやっていたって思っていたし、上達しているって本当にそう思っていたんだから」
「・・・・・・」
「続けた方がいいよ」彼は言った。「英語やめないって約束してね」
なぜこんな場所で、そんな約束をしないといけないのだろうかと松は思った。
その時、後ろの方から同じ座敷の誰かがこちらにやってきた。
「トイレあいている?」と、その人が言った。
「あいてますよ」と、徳永さんはその人のために体をよけて通した。そして彼はトイレに行くこともなく、座敷に戻って行った。
徳永さんが先に戻ったのを見届けてから、松も戻って行った。
松の席だったところに別の誰かが座り込んでいたので、仕方なく隣のテーブルの空いたところに座った。隣は山田さんで、向かいの席には佐藤さんがいた。津山さんと桐子は徳永さん側のテーブルに移動していた。
「花家さん~試験お疲れさまだったねー」佐藤さんが話しかけてくる。
「今回の試験、難しかったですね」山田さんもションボリというか、ちょっと怒ったような顔。「きっと合格者を減らすために、難しくしたに違いないですよ~!」
山田さんのいう通り、試験は難しかった。正直、ちゃんと回答できたな!と思えたのは一番勉強しなかった簿記だけだったとは、皮肉な話であった。
「英会話試験はどうでしたか?」山田さんが聞いてくる。「わたしは全然ダメでした。前受けた試験よりずっと早口で、文章も長かったように思いました」
「んーたしかに。とにかく、手応えあったような感触があまりなかったな。でも山田さんは筆記の方はそこそことれたんじゃないの?」
「そこそこったって、英会話をカバーする程じゃないですよ。きっと花家さんの方がとれてますよ。英会話、マンツーマンでつきっきりで教えてもらってたじゃないですか」
そう言われると落ち込む…マンツーマンのつきっきりだったのに、いったい自分のどこに成長があったのだろうか。
「この前のバーベキューの後も、徳永さんとデートされてましたよね?」
「へっ?」
「見てましたよーあの後、お寺で二人きりでいらっしゃるところを、目撃していたんですよ。向こうから手をふって必死にアピールしていたのに、花家さんも徳永さんも全然気付いてくれないんですもん。仕方ないので、諦めて帰りましたよ!」山田さんは笑って言った。
松はとたんに赤くなった。
「えっそんな、話しかけてくれたらよかったのに」
「だって、すっかりふたりの世界にはまっているみたいだったので」
「ふたりの世界って」松はますます赤くなった。「英語を話すのに必死で、まわりが見えてなかっただけよ」
「休みの日までも、マンツーマン授業だなんて、徳永さんはよっぽど花家さんにいれこんでいるのね~」佐藤さんもからかう。
「そうじゃないと思うんですけど」そうじゃない、徳永さんが熱心だったのはわたしの成績が自分の査定に響くからなのに、と松は思った。
「徳永さんって、前から思っていたけど、花家さんのこと特別視しているんじゃない?」佐藤さんが言った。「しょっちゅう話題にでてくるし」
「他に話題にする人がいないからじゃないですか」と松は冷めた口調で言った。
「またまたそんなこと」佐藤さんが言う。「徳永さん、今日で終わりじゃない。なんかお誘いなかった?ニューヨークにおいでとか」
「徳永さんなら、わたしに限らず誰でも大歓迎だと思いますけど」
「じゃ、誘ってもらえたんですか」山田さんが羨ましそうに尋ねる。「ニューヨークに遊びにおいでとか?」
「社交辞令だと思うけどね」
「いいなぁーわたしもニューヨーク行きたいですよ。最近、何か急に留学熱に目覚めてしまって。誘ってもらえる花家さんが羨ましい」
自分には全然ときめかない言葉を羨ましいと言われても…と言う気分だった。
「花家さん、さっきから顔赤いよ」佐藤さんが言った。
顔が赤いのはお酒のせいだと思うんだけど、と言っても何だか通用しそうになかった。
でも何だかさっきから熱いし、のぼせているような感じだ。それに徳永さんのような3Kを絵にかいたような人に想われているような言い方をされるのは、まんざら気分も悪くなかった。
「花家さんは、徳永さんのことを何とも思わないの?」
「わたしですか」
「あんなカッコいい人を目の前で毎日見ているのに、何とも感じないの?」
と、佐藤さんが返事をつめ寄ってきたところで、滝上君がやってきて話しかけてきた。
「花家さん、徳永さんの前の席があいているんですけど、座ってもらえないですか」
「エッ私?」
「頼みますよ、あっちのテーブル女性の数が減っちゃって」
見ると、徳永さんの前の席は空になっていて、そのまわりは酔っぱらいのオジサマ達が取り囲んでいる状態。隅の方に桐子と津山さんがくっついて、ふたりで話し込んでいる。
「いってらっしゃーい」佐藤さんと山田さんが、にやにやしながら松を送り出すものだから、断れずにしぶしぶ徳永さんの前の席に座りに行った。
隣はトクミツ氏で、その斜め前は小沢さん。正面は徳永さんで、その隣は同じフロアーで顔なじみのオジサン達だった。彼らは相当お酒が進んでいるようで、空のジョッキが机の上に並んでいた。オジサン達はネクタイをハチマキにとは言わなくても、それと同じぐらいに陽気でベラベラと喋りまくっていた。
「こんばんは」松はぺこりと頭をさげて、徳永さんに挨拶した。
徳永さんはすでに真っ赤だったが、松の顔を見るとニコっと笑った。
「花家ちゃん、今日で徳永君と最後だと思うと寂しいでしょ?」と、小沢さんが話しかけてくれた。
「そうですね、本当に寂しくなります」と、周りの人達に酌をしながら答えた。
「毎日英語を熱心に教えてもらっていたじゃないの」
「ええ、とてもお世話になりまして」
「社内試験をうけたんだろ」
「ああー」試験の話をしないでほしいなと思いつつ「はい、結果は来週でると思うんですけど…」と、松は言ったが、まわりに人がいることだし、いっそここで言ってしまってもいいいかなあと、思い切って「でも今回はダメだったと思います」と、答えた。
徳永さんの表情がちょっと硬くなったような気がした…
「えー、せっかく頑張っていたのに」
「わたしは初めて受験したんですけど、今回は試験がむずかしかったらしいです」
「そうみたいだねえ。でもま、英語を勉強したのは無駄じゃないんだから、続けずにやった方がいいよ」と、トクミツ氏が慰めた。
「そうですね」
「徳永さんが是非、ニューヨークにおいでって言っていることだし」
「はい、そう言って下さって、嬉しいです」またかと思いながら答えた。「でも、ご迷惑かもしれませんし」
「そんなことないったら、ハナゲちゃん!」と横から口を出してきたのは、隣の隣の部署にいる営業課長の古賀さんだった。彼は相当酔っているみたいで、ちょっとロレツがまわっていない。「せっかく誘ってもらっているんだから、いっちゃいなよ~!!ハナゲちゃん」
「え…」松は愛想笑いをしながらでも顔はこわばっていた。
「ハナゲさんじゃなくて、ハナイエさんですよ」徳永さんが古賀さんに言う。
「ああそうだったね。いや、わたしはエイゴというものは、体で覚えるものだと常々思っているのだよ。試験の点数どうこうよりも、言語というものは、まずは聞き取れて話せるようになるのが第一じゃないか。日本人ばかりの中で慎ましくやってたって、なかなか伸びるもんじゃないよ」
「そうですね」ウンチクを垂れたがるオジサンの一人だなと思いながら、松は言った。
「そうとも!」古賀さんは言った。「だから、ニューヨーク行っておいでよ、ハナゲちゃん」
松はよほどムッとした顔になったらしい。しかし古賀氏は、松がムッとしたのはハナゲよばわりされたことだとは露ほどおもっていないようだった。
「ねっ、行っておいでよ」
「はぁ…」と言って、松はちょっと体を退けて古賀氏から離れようとした。
「ナニ、わしの言っていることが間違っていると言うのかね、ハナゲちゃん」古賀氏はちょっとムスっとしていた。
「古賀さん、飲み過ぎじゃないですか、気分わるそうですが」滝上君が、空気を呼んで近づいてきてくれる。
「いーや、わしは酔っとらんよ。近頃の若いもんは、年寄の戯言だと思ってすこしも年配者の言うことに耳を貸そうとしない。いいかね、君たちに言っておくが、今ここで決心しなければ、十年後二十年後、ひどく後悔することになる。エイゴはエイゴを話される国に行って学ぶべきものなのだ。わしの言うことが分かるかね、何だねハナゲ君。その顔は」
松があまりにムスっとした顔をしているので、古賀氏はだいぶ気分をわるくしたようだった。「わしの言っていることが間違っているとでもいうのかね」
「いえそうでなくて、わたしの名前、ハナゲじゃなくてハナイエなんです」松は言った。「間違えないで頂きたいんです」
「どっちだっていいじゃないか、わしは君のことをハナゲ君と言うのに慣れているんだから」
松は耐えられなくなって、席を立った。
そして急いで廊下に出た。
むちゃくちゃ腹がたった。
何でこんな席で、あんな酔っぱらいにそんな言われ方をされなきゃならないのかと思いながら、必死に怒りをこらえていたが、目にじわっと涙があがってきた。ハンカチを座敷のテーブルの上に置いてきたので涙を拭くものがなかった。
「大丈夫?」座敷からでききた徳永さんが話しかけてきた。「コレ使って」と言ってティッシュを差し出してくれた。
「すみません」泣いている所を見られるなんて、なんて間が悪いんだろうと思いながら受け取って洟をかんだ。
「ごめんね」徳永さんがすまなそうに言った。
「何で徳永さんが謝るんですか?」
「いや、僕が花家さんの名前を間違って呼び続けたばっかりに、それが浸透しちゃったみたいで」
間違ったって?影でわたしのことをハナゲとあだ名をつけて吹聴しまくっていたくせにと、ムッとした。
「イエ…いいんです」
「ショウ―大丈夫?」桐子と津山さんが座敷から出てきた。「古賀さんがショウに絡んでいたみたいで心配したよ。よかったらここで失礼させてもらう?」
「そうだね、そうした方がいい。帰るなら、僕が駅まで送るよ」徳永さんが言った。
「主役が抜けたらだめですよ!」桐子が言った。「それに、近くにわたしの彼が来ていて待ち合わせているので、大丈夫です」
松と桐子は、もうすぐ一次会は終わりだし、このまま抜けようということになった。
「じゃあ、君の彼氏と待ち合わせしている所まで送らせてよ」徳永さんは言った。
「あたし、ショウとあたしの鞄を座敷に取りにいってくるよ」桐子が言った。
徳永さんは下駄箱に預けている靴を取りに、奥にいる店員さんに声をかけに行ってくれた。松は、津山さんとふたりきりになった。
「ショウさん、大丈夫?」
「あっ、ハイ大丈夫です。でももう失礼しようと思います」
「あのね、この前はごめんね」
「何がですか?」
「この前、徳永君と三階の休憩室で話していたの、ショウさん聞いていたんでしょ?」
「ああ、アレですね。でもわたし全然気にしていないし、だいたい徳永さんも津山さんも謝るようなこと、何も仰っていなかったじゃないですか」
「でも、徳永君が口の悪いこと言って、気にしているんじゃないかと思ってさ」
「別に気にはしていないですけど…」していないが、この話はもうしたくなかった。津山さんに謝られたくなかった。津山さんがすまなそうな顔をしているのが分からなかった。
「徳永君のこと、許してあげてね」津山さんが言った。
「え?」
「すごく気にしているみたいなので」
その時、徳永さんが店員さんを連れて戻って来た。店員さんが預かっている靴を揃え始めた。徳永さんの顔を見て、津山さんはふいにいなくなってしまった。
「ハナイエさん、あのね」徳永さんは言った。
「はい?」
「あの…半年の間だったけど、ありがとう」
「こちらこそ、お世話になりました」
「家にチケットとか届けてもらったりして、いろいろ迷惑をかけたね」
「ああーその事ならもういいです」松は愛想よく言った。「その代わり、英語教えて頂いたりしましたし、こちらの方こそお礼を言いたいぐらいです。お世話になりまして本当にありがとうございました」
「元気でね」
「徳永さんこそ、ニューヨークに行かれてもお元気で」
松が笑顔でそう言うと、徳永さんもちょっと微笑み返した。そしてポケットに手をつっこんで何か言いたげに、ふらふらしていた。その動き方が、酔っぱらっているようでもなく、なんだかいたたまれないような印象を受けた。
「ニューヨークに遊びにおいでね」徳永さんはまた言った。
「もちろん伺いますよ~ねえーショウ」と、言いながら、その時、後ろから松と自分の鞄を持った桐子が奥から戻って来た。「わたし、来年から人妻になっちゃうんで、それまで独身最後の旅行にいきたいなーって思っていたんですよ。ショウ、一緒に徳永さんのいるニューヨークに遊びに行こうよ」
「ウン、待っているよ。ふたりでおいで」徳永さんは言った。
三人は、お店を出て、二百メートルほど先にある、桐子の彼氏が待っているお店に向かって歩いた。
「ニューヨークのどのあたりに事務所があるんですか?」
桐子が徳永さんに主に話しかけていた。
徳永さんは松の知らない横文字の地名や電車の駅の名前を言っていた。徳永さんがもうすぐニューヨークに行ってしまうんだと思うと、なんだかとても寂しく感じた。
目的地に数分で着いた。桐子が店に入って、彼氏が到着しているかどうか確認しにいっている数分の間、松は徳永さんとふたりで店の前でたっていた。
「花家さん、あの、ずっと言おうと思っていたんだけど」徳永さんは酔いの醒めたような真面目な様子だった。
「何が、でしょう」
「君の事、君の先輩や友達にハナゲさんってあだ名で呼んでいたの僕だったんだよ。本当にごめんね」と、彼は頭をさげて謝った。
「えっちょっとやだ、やめてください」夜と言えども、繁華街の表通りはとても明るい。道行く人の目がこちらを向いている。「どうなさったんですか、わたし、もう気にしていませんから」
「本当に悪かったよ。でも、悪気なかったんだ。むしろその」徳永さんは頭をあげたが、たまらない顔をしているので、松もたまらない気持ちになった。徳永さんは言った。「その、愛称のつもりだったんだよ…」
徳永さんはまだ緊張顔だった。酒が入ると陽気になったり怒ったりする人は知っているが、こんな風に真面目になる人は初めてだ。
「もう気にしていませんから」松は言った。「謝らないでください」
「でも、ずっと怒っていたでしょ?」
「今は怒っていませんよ。さすがに古賀さんみたいにあからさまに言われるとムッとしますけど、でも、そのうち皆さんも忘れるでしょうし」
その時、桐子が店から出てきた。
「ショウ~彼、もう来ているみたいだから、お店にはいろ」桐子はそう言って、徳永さんににこにこしながらこう言った。
「徳永さん、ここまで送ってきてくださってありがとうございました。ここでお別れですね」
「名残惜しいけど」徳永さんは言った。
「ニューヨークに行かれてもお元気で」
「ありがとう、君たちも元気でな」そう言って、徳永さんは桐子と握手をし、松にも手を差し出した。徳永さんは本当に名残惜しいのか、いつまでも手を握っていた。
「こちらこそ、お世話になりました、ありがとうございました」と、松が笑って言うと、
徳永さんも「じゃ、また会えればいいね」と言って、いつものあの笑顔になって去って行った。
松と桐子は、手を振って小さくなってゆく背中を見送った。いつも見慣れている徳永さんの後ろ姿が、その時、松にはなんだかすこし寂し気に見えた。
「ショウ、それで?」桐子が目をランランと輝かせて聞いてくる。
「それでって、何が」
「徳永さん、ここでショウに何言ってたの?」
「ええと、ハナゲって呼んでいたのごめんねって言ってた。愛称のつもりで悪気はなかったんだってさ」
「で、ショウはなんて言ったの?」
「別に、もう気にしていませんからって答えたよ。深々と頭さげたりするからびっくりしちゃった」
「それだけ?」
「それだけ」
「それだけだったの??」
「え、ナニそれだけって、どういうこと?」
「あああーーー徳永さんも不器用だなぁ」桐子は空を仰いで悔しそうに言った。
「えー何なに?何の話?」
店の奥から、スーツ姿の若い男性が顔をのぞかせた。
「桐子、どうした、早く入れよ」その男性は、桐子の彼氏でさっきから店の入り口で私達を待っていたらしい。「で、どうなったの」
「聞いてよタケシ。徳永さんったら、ショウに何にも言わずに行っちゃったんだって!」
「えーっマージーでー」とタケシ君は言った。「それはそれは残念」
「二人とも、何の話しているの?」松はぼけっとした顔で尋ねる。
「いいや、もう」桐子は言った。「私が残念がっても仕方がない話だもん。お店に入って飲み直そうよ」
桐子とタケシ君が先に店に入っていこうとしたので、松は桐子の服の端をつかんで引き止めた。
「ちょっとちょっとここで話してよ」松は言った。
「だって、徳永さん何も言わなかったんでしょ?」桐子は言った。「じゃあ、あたし達は何も言うことないよ。それが徳永さんの意思なんだから、そういうことなのよ」
「アンタ、何か隠し事しているでしょ」松は詰め寄った。「隠しているなら話してよ」
「隠し事もなにも」桐子は言った。「私が隠すまでもなく何でアンタ気が付かないわけ?」
「だから、何に気が付かないの?」
桐子ははぁ~っと大きくため息をついた。
「だから前から何度も言っているじゃない。徳永さんはアンタのこと好きなのよ」
「・・・・・・」
「だーかーらー、徳永さんはあんたのことが好きなの、あんたに惚れているの!分かった?」桐子はそう言うと店の中に入って行った。「さっ飲み直しましょ。ショウも早く入って」
松は、桐子は何を言っているんだろうという思いだった。桐子とタケシ君は店員さんに飲み物を注文していた。
「桐子の言う好きっていうのは、友達っていう意味でしょ?」松は席に座って言った。
「そう思う?」桐子は言った。「そういう意味なら、あたしここでこんな言い方しないよ」
「でもなんで桐子がそんなこというわけ?なんでそんなこと知っているの?」
「知っているのは私だけじゃないよ~」桐子はもうおかしくてたまんないって感じで笑いをこらえるのが大変そうだった。「徳永さんがショウのことが好きだってこと、松以外の人皆知っているよ!佐藤さんも津山さんも美月さんも山田さんも、滝上君もあんたとこの課長も、多分古賀さんもね。だから、皆いつになったら松が徳永さんの気持ちに気が付くんだろうって、ヤキモキしながら見ていたんだよ」
「そんなの嘘でしょ」松は信じられなかった。「徳永さん、今までに一言もそんなこと言った事ないもん」
「そうみたいね。だからいつ言うんだろうって、あたしずーっとドキドキしながら待っていたんだけど…」
「けど?」
「徳永さんも、あの見かけによらず松と同じぐらいにオクテだから」
松はしばしボーゼンとしていた。
「どうする、ショウ」と、上の空の松に桐子が言った。「今だったら、さっきの店に徳永さんいてるよ。話すなら、今から行ったら間に合うよ」
「・・・・・・」
「もうよせよ、桐子」隣に座っていた桐子の彼氏のタケシ君が口を挟んだ。
「男だって、好きな女の子の前で素直に気持ちを言えないことだってあるの。言わないなら、それでよかったんだよ」
「そっか」桐子は言った。「ごめんね、お節介ばっかりで。アタシはかなり前から気が付いていたからさ。だから、全然気が付かないショウにちょっと、イライラしていたの。気を悪くしないでね」
「ゴメン…」
何に対してのごめんなのか、松は、自分でも分からなかった。ただ、他の言葉が思いつかなかったのだ。
「なんで謝るのよ」桐子は言った。「さっ飲もうか」
つづく




