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7.徳永さんの本音


7.徳永さんの本音



 翌週から徳永さんはまた、出張に出かけてしまった。


 その間、レッスンできないので言われた通り、ヒアリングだけでも頑張ろうと、ウォークマンを持ち歩いて行き返りの電車の中でずっとBBCニュースや英文学の朗読テープなど聞いていた。休日の時間のあるときなどは、洋画を字幕なしで何度も見たりしていた。そして、テレビのニュースで外国の要人が映るときなど、日本語の字幕を見ないで一生懸命聞き取れるようにつとめてみた。




 なんとなく分かるけど、やはり分からない場合も多い。


 それがこの頃の松の英語レベルだった。聞き取れるのは聞き取れるけど、単語の意味が分からない。言いまわし方も、徳永さんが普段使う英語とはどこか違うような気がした。BBCニュースも英文学の朗読テープも、何度か聞けば聞き取れるし意味も理解できるのだが、やはりこれだけでは物足りなかった。




 もっと場数を増やさないと、徳永さんのいう通り、英語に触れる回数をもっともっと増やさないと、これ以上の実力アップは望めないのかもしれない…


 BBCニュースであれ何であれ、次々と新しいテープに変えて聞いた方がいいのかもしれないが、松には、時間も体力もなくて、そこまで頑張ろうという気力が続かなかった。試験の一週間前になると、点数のことより、早く終わって元の生活に戻りたいという気持の方が強くなっていた。



 徳永さんも出張の合間を縫って、最後までレッスンをつきあってくれたが、自身の仕事が忙しくなってきたせいもあって、以前より時間が減った。それでも徳永さんが電話口で話す英語を、普段から沢山聞けるのは大変ため(、、)になっていて、徳永さんが電話を掛ける度に、英語を話さないかなあと期待してしまうぐらいだった。




 試験の前日になった。試験は、土曜日の休みの日に会社の会議室で行われる。松は、前日の金曜日は遅くまで仕事はせずに早く切り上げた。徳永さんが外出してそのまま帰ってこないこともあって、間際の詰め込みレッスンはなかった。誰かに呼び止められる前に、さっさと退社してしまおう。素早く帰れるように、机をきれいにして鞄をロッカーに移動させてから、湯呑や茶たくの入ったカゴを持って、給湯室に洗い物をしにいった。ところが、いつも使っているフロアー横の給湯室のシンクは、皆使用中だった。




(仕方ないな、三階に行くか)




 松は、カゴをもったままエレベーターに乗り、一階下の三階の給湯室に入って行った。三階は営業課が少ないので給湯室も普段から空いている。松はやれやれとシンク横の台にカゴを乗っけて洗い物を始めようとしたその時、隣の部屋から「…ハナイエさんは」という声が聞こえてきた。




(今、ハナイエって言った?)




 三階の給湯室の隣の部屋は、自動販売機と椅子が置いてあって、簡単な休憩室になっている。どうやら誰かがそこで話をしているらしいが、給湯器のボイラー音がうるさくて何を言っているのか聞き取れなかった。



 松はそっと休憩室の中を覗いてみた。そこにいたのは、紙コップを片手にコーヒーを飲んでいる徳永さんと、津山さんだった。徳永さんは出張帰りであろう、傍らの椅子に書類鞄が置いてあって、背広のジャケットをその椅子の背もたれ掛けて座りこんでいた。




「あの子、ちょっと引っ込み思案なところあるんだよな」と言ったのは徳永さんだった。



 松は、思わず頭をひっこめた。



 ふたりはわたしの噂話をしているのだ。




「コトバっていうのは、もっと積極的に人と関わらなきゃ上達しないよって何度も言っているんだけど。間違いを恐れて喋りたい気持ちを失ってしまうことが一番いけないんだ」



「あなたみたいに、最初っから日本語同様に英語を操れる人には分からないわよ」津山さんが抗議していた。「わたしみたいな普段からべらべら喋る人間でも、いざ英語で話しなさいって言われたら、黙りがちになっちゃうもんよ。誰だって聞かれもしないことまで喋って、余計な事を漏らしたり間違ったことを言ったりしたくないものでしょ」



「まぁそうだろうがね」と徳永さんは言った。



「では、親会社の方針は、部下を目に見える形で指導することが、査定の基準のひとつになったのね」津山さんが言った。



「部下といったって、俺は今出向中の身だし、部下らしい部下もいなし。しかも、上達が目に見える形で測れるものなんて、しかも半年そこそこの期間でなんて、英語を教えるぐらいしかなかったんだよ」



「で、あなたが生徒に選んだのが花家さんだってわけ?」



「幸い佐藤さんっていう、いいサンプルがあったんでね。彼女みたいに、ポイントを押さえて、集中して教えたらなんとかなるんじゃないかと思ったんだよ。丁度いいタイミングで、本人が社内試験を受ける気になってくれて、こっちとしては願ったり叶ったりだったんだけど」



「成果はでそう?」津山さんが言った。



「うーん」と言って、徳永さんは言葉を濁した。



「彼女、ああ見えて結構、熱心でしょ。うちの貿易講座でも、なかなか頑張ってついてきてたわよ」津山さんが言った。



「まあ、熱心といえば熱心だけど」徳永さんは言った。「こうと思ったら横むいちゃって、見向きもしなくなるところがあるんだよな。最初は内気な性格だからかと思ったけど、どうやらそうでもなさそうだし。プライドが高いというか、なんというか、気持ちに浮き沈みが激しいんだよ」




 プ…プライドが高いですって? その言葉に、松はガクゼンとなった。




「女の子はデリケートなものなのよ」津山さんが言った。「花家さんが、佐藤さんみたいにバリバリ上達していないからと言って、そういう言い方はやめなさいよね。合否はともかく、成果が少しでも出ていることに意義があるんじゃないの」



「それは理想論」彼は言った。「僕としても、語学を採点するのにはそもそも反対なんだよ。せっかく慣れてきたところで、点数が悪かったりすると、やる気を削がれることになりかねないから。まあそれでもやはり、結果は意識すべきだとは思うよ。でもあの性格じゃ、なかなか結果はでないだろうね」



「結果を意識しているのは、あなたの方じゃないの?」津山さんは言った。「査定に響くから」



「物事が、思惑通りにうまくいかないことだってあるよ」徳永さんは残念そうに言った。「まあ、今回のテストの結果が、僕の査定に響くだなんて、あの子には口が裂けても言えないよ。こちらの都合で英語を教えていたんだって知られたら、また、口きいてくれなくなっちゃったら大変だよ」



「そうよね~ただでさえデリカシーのないあなたに、普段から気を遣っているんでしょうから、その話は伏せておいた方がいいわね」彼女は冗談っぽく言った。



 徳永さんもまた、それに応えて笑っていた。





 それ以上話を聞いていられなくなって、松は、洗い物が終わっていない洗いカゴをもったまま、そのまま外に出ようとした。廊下に出たすぐの所で、顔見知りの役員と鉢合わせた。


「やぁー花家クン、こんなところで何しているの?」


 三階は役員室があって、この人はこの辺を頻繁にウロウロしている人だった。彼は声がむちゃくちゃ大きくて有名で、彼の話す声は廊下の端々まで響きわたるぐらいだった。


「久しぶりだねえ、経理課が四階に移ってからめっきり会わなくなったねえ、元気にしていたかね?」




 松はカゴを両手に持ち「ああ、ハイ専務お久しぶりです」と、たどたどしく答えたが、早くこの場を去りたい一心で「あのすいません、急いでおりまして。じゃ、これで」と言って、そそくさとその場所を立ち去った。




 エレベーターホールまで行かずに、階段の方に向かった。後ろから誰かが追いかけてくるような足音が聞こえた気がしたが、そのまま振り返らずに、階段前の重い非常用ドアをあけて中のらせん階段を上って行った。そして四階で洗い物をすませると、そのままバッグを持って、会社を後にした。ビルの出口のところで上司のトクミツ氏とすれ違った。




「花家さん、もう上がり?」トクミツ氏が声をかけた。



「はい、お疲れ様でした」



「明日社内試験なんだろ」と、彼は励ますように言った。「頑張ってね」



「はい、ありがとうございます」と、松は礼を言った。そして「お先に失礼します」と言って、会社を出た。




 その日の夜、自宅でゆっくりとテキストを見直して明日の試験に備えようと思っていたが、何も勉強する気がおきなかった。



 彼女はテキストをしまいこむと、寝過ごさないように目ざまし時計をセットし、受験票と筆記用具を準備して、早々にベッドに入った。





 一晩中、頭の中で、今日、休憩室の隣で耳にしてしまった、徳永さんと津山さんとの会話が耳について眠れなかった。





 夜はじりじりとしかふけていかなかった。



 明け方、重い瞼をあげて、松はいつもより一時間も早くに起き上った。



 そして、冷たいシャワーを浴び、朝食をしたため、化粧をし、身支度を整え、いつものように会社にむかうために駅に向かった。




 暑い夏の朝だった。




 今朝は特に暑苦しく感じた。




 今の季節って、こんなに暑かったっけ?と思いながら、うなじや背中にねっとりと張り付いた髪を、うっとうしい気分でかき上げた。




 太陽が雲間から現れて強い光を道路になげかけていた。




 信号が青に変わったので、松は陽射しをさけながら踏切の横断歩道を小走りに渡っていった。




 電車の音が遠くの方から聞こえてきた。




 社内試験を受けるのは、きっとこれが最初で最後になるだろう。そう思いながら、松は電車が後ろを通り過ぎる音を聞いていた。








 社内試験は無事終わった。



「おはよー、この時間に会うのひさしぶりだねえ」朝、駅の改札を過ぎたところで桐子と出逢った。彼女の方から声をかけてきた。



 社内試験明けの月曜日は、久しぶりに通常の始業時間に合せての出勤だった。



「うん、試験が終わったから、三か月ぶりに、ようやく普通の生活にもどれたよ」と松はハレバレとした気分で言った。



「お疲れさまだったねえ」と言って、桐子は労ってくれた。「じゃ、これから夜は一緒にご飯たべたり、買い物したりできるよね」


 

 年内に退職して、来年には結婚式を控えている桐子は、披露宴や新生活の準備などで、細々とした相談に乗って欲しそうであった。



「そうだね、これからは付き合えるよ」と松は言った。



「よかったー、何なら今日一緒にご飯を食べない?試験の終わった打ち上げにさ」

「うん、わたしも夜ごはん外に出るの久しぶり、行こう行こう」




 席に着くとトクミツ氏も徳永さんも、いつもの通り、もう出勤してきていた。松はふたりに、いつも通りに朝の挨拶をして、席に着いた。トクミツ氏も徳永さんも試験については何も触れなかった。



 その日、松は徳永さんの様子をずっと伺っていたけれど、別段変わったことは何もなかった。試験がこの土曜日に行われたことは彼も知っているはずなのだが、不自然なほどそれについて口にしようとはしなかった。


 ひょっとして気を遣って話題にしないのであろうか。


 それとも、終わったことなので、もう、どうでもいいと思っているのだろうか?


 それでもわたしの成績が徳永さん自身の査定に何かしら影響あるのなら、少しぐらい気にかけてもよさそうなものなのに、と松は心の中で思っていた。



 松はいつもと同じように仕事をこなして、いつもと同じように徳永さんと接した。彼が何も言わないのなら、試験の結果が出るまでこちらも忘れていようと思った。特に、英語からは遠ざかっていたかった。




「社内試験の結果はいつでるんだっけ?」帰りがけにトクミツ氏が尋ねて来た。



「十日後です」松は答えた。



「お盆前か」トクミツ氏は言った。「ああ、お盆前と言えば徳永君の送別会をするから予定しておいて」



「あっそうなんですか。もうそんな時期なんですね」松は何気ない様子で言った。



 ちらりと徳永さんの顔を見たが、徳永さんは、背中をこちらに向けて電話で何か話しているようだったので、こちらの話は聞こえていないようだった。



「あのー」松は小声でトクミツ氏に話しかけた。「ヘンなことをお伺いするんですが…」



「ん?」



「わたしのテストの結果が、トクミツ課長の査定に影響することってあるんでしょうか」



「へっ?」



「つまりです、わたしのような内勤の者でも、社内試験の点数や合否なんかが、上司の成績の査定に関係があったりするのでしょうか」と、小声でたずねてみた。



「そんなもんないよ」トクミツ氏は言った。「内勤だろうが外回りの営業職だろうが、社内試験の結果が関係あるのは本人だけだよ。もっとも合格しても、君の役職も給料もたいして上げてあげられないけどね」



「そうですか」松はちょっとほっとしたような気分だった。



「何、花家さんは僕のためにテストを頑張ってくれていたの?」トクミツ氏は言った。



「そういうわけではないんですけど」松は、徳永さんの電話が終わりそうなのを見て、「ないんですけど、ちょっとそう思っただけなんです。今の話は忘れて下さい」と言って早々に話を打ち切った。




 その日の夜。女子会向けのおしゃれな居酒屋で、松は桐子にふたりきりで試験の打ち上げ会をしてもらった。冷たいチューハイのグラスで乾杯。久しぶりにリラックスした雰囲気だった。桐子が、あれもこれもと食事を注文しようとするのだが、松はあまり食欲がわかなかった。




「どしたの?調子でも悪いの」桐子が心配そうに言う。



「違うんだよーその反対。この三か月、ストレスが溜まりまくって食べてばっかりだったの。気が付いたらむちゃくちゃ太っちゃって、このまま太り続けたら、今の服全部着られなくなっちゃうから、しばらく大人しくしとかないと」


「おやおやまぁまぁ」と言って、桐子はメニューと閉じた。「そう言えば、あんた、目の下にクマつくっている事多かったもんね。今日、津山さんと食堂で会った時、ショウのこと聞いて元気にしているかって言っていたよ」



「津山さんが?」松は言った。「津山さんが何か言っていたの」



「なんか、ショウのこと気にかけているみたいだった。体調大丈夫かって聞いていたよ。貿易の方の講座も大変だったの?」



「大変と言えば大変だったけど…」



 貿易の講座のこともあまり思い出したくなかった。試験では、家で過去問を解いていた時ほど手ごたえがなかったのである。



「津山さん、ショウのこと怒らせちゃったかもとか何とか言っていたけど、何かあった?」桐子が尋ねた。



 やっぱりあの時、わたしが外で彼らの話を立ち聞きしていたことが、分かってしまっていたのだ。それでも、津山さんが気にするようなことは、津山さんは何一つ言っていないのに、と思った。むしろ彼女は、かばってくれていた。松は、桐子に話すべきかどうしようか迷ったがこちらとしても、テストも終わった事だし、変に隠しておく事もないと思った。




 松は、この前の金曜日の三階の給湯室の横の休憩室で、偶然、津山さんと徳永さんとの会話を立ち聞きしてしまったこと、その内容を、桐子に話した。




「なにそれ~じゃあ徳永さんは、自分の査定を良くするために、ショウに英語を教えてあげていたの?」桐子はとても驚いたようだった。「それであんなに熱心だったんだ」



「そうみたい」



「部下の社内試験の結果が査定に響くなんて、初めてきいた」



「ウチの会社ではそういうことはないみたいだけど、徳永さんは親会社の人だから、こっちとは違うんだろうね。まさか、わたし、そんな理由で英語を教えてくれていただなんて想像すらしたことなかったけど。でもね、そのお陰で英語を教えてもらえたのはラッキーだったと思う。それがなかったら、あんなに一生懸命してくれなかったかも。わたしの場合、お昼ご飯のときに、ちょこちょこ喋って英語に慣れましょうっていうような、軽いレッスンじゃなかったもん」



「それはそうなんだろうけど」桐子は納得いかないようであった。


「でも、徳永さんのその言い方、何かひっかからない?語学はもっと積極的にならなきゃって言われても、ショウだって他の教科に時間さかなきゃいけなかったし、だいたい佐藤さんだって、今回二回目の受験でしょ?そんな人と比較されるのは公平でないと思う」



「そうなのよね!」桐子が先に言ってくれたので、松は救われた気持ちになって、溜め込んでいることを吐きだした。


「頭に来るのは、徳永さんがわたしが気分屋で、口数が少なくて消極的になると思っているところよ。確かにわたしは気分屋だけど、それほど気分屋ってわけじゃないわよ。私だって、気分を素直に外に出せればどれほどいいかと思うときあるもん。たまにそういう態度に出るときは、向こうが何かした時だけよ。特に徳永さんに口をきかなかったのは、徳永さんがわたしをハナゲって裏で呼びまくっていた時だけ。その時だけよ。あれを引き合いに出されて、気分屋で口数が少ないので英語に消極的だなんて言われたくない。ああいう言い方って、なんだかすごくハラたつよ」と、松は一気にまくしたてた。



 彼女は、「あの性格じゃ受かりっこない」と言われたことに未だに傷ついていた。





「はぁー」と、桐子はため息をついた。


「徳永さんって、つくづく脇があまくて、運が悪いよねぇ。ただでさえ、知らないところで人の気を悪くさせちゃっているうえに、そんな間の悪い話を、ショウに立ち聞きされちゃうなんてさぁ」



「でもね、もういいの」松はあっさり言った。


「だって、もうこれも終わりだもん。徳永さんはもうすぐ親会社に戻っちゃうし、もうこの件で悩むのはこれからはないから、わたしもあの時立ち聞きしたことは忘れようと思っているんだ」松はちょっと、胸をなでおろすような気分で言った。「徳永さんがいなくなっちゃえば、英語ともオサラバできるし」




「せっかく英語習い始めたのに、やめちゃうの?」桐子がきいた。



「悪い?」



「悪くないけど、なんで?」



「えーもう、あんなに必死になって頑張るのいやだもん」



「でも、せっかく習い始めたものすぐに辞めちゃうのも、もったいないじゃない。あたしなんか、会社辞めても英語続けようと思っているのに」桐子は言った。「ねぇ続けたら?」



「えー?」



「徳永さんが嫌いだからって、英語を嫌いになっちゃうなんて、すごく損じゃないのよ」




 そうかもしれない。



 と、実は松もそう思っていた。



 白状すると、徳永さんから英語を習い始めて二か月を過ぎたころ、ラジオから流れてくる英語ニュースが、なんとなく自然に耳に入ってうっすらとではあるが聞き取れるようになってきていたのである。もちろん詳しい意味はまだつかめなかったけれど、以前は、ただの雑音にしか聞こえなかった外国語が、「英語」として頭に入ってくるようになってきていた。団子だった単語も個別に聞きとれる。「あっこれが巷でささやかれている英語脳ってヤツかものかもしれない」と思った瞬間で、ちょっと嬉しかったことは事実だった。 だから、徳永さんにあちこち振り回されて疲れるようなことがあっても、頑張ってついてこられていたのだ。




 せっかく、慣れてきたのにこのまま英語から遠ざかってしまったら、数週間もしないうちに、きっとまた元の喋れない状態にもどってしまうのだろう。惜しい気もしたが、徳永さんの前で英語を話す努力をするのは、もうどう頑張っても元気がでなかった。




 徳永さんは、翌日もその翌日も松の試験のことに、触れることはなかった。聞かれもしないので、松も黙っていた。そして、お互い英語で話しかけたり、答えたりすることもなくなった。英文を口にするのは、たまに外国から電話がある時ぐらいであったが、それでも徳永さんは何も言わなかった。




 社内試験の話になると、あの日、立ち聞きしたこと、例の査定の話を持ち出されるからと思っているのだろうか、と、思った。しかし、徳永さんは何も悪いことはしていないのだから、あの日うっかり口にしてしまったことを、こんな風に、不自然なほど口をつぐむほど、気がとがめる必要があるだろうか、と思った。むしろあんなにも親切に教えてくれたのだから、松はとても感謝していた。だから、お礼も言いたかった。徳永さんはなぜ何も言わないのだろう?そのうち、あれほど力を入れて指導してくれたにも関わらず、全く忘れたかの如く振舞われることに、腹が立ってきた。なぜこちらが腹を立てねばならないんだ、と逆切れた。松は、徳永さんのことばかり考えていることにいい加減ウンザリしていた。





 松は、徳永さんの事ばかり考えるのが嫌で、社内試験を受けようと決めたことを思い出した。徳永さんからハナゲと、呼ばれたことが発端で、徳永さんに腹を立ててばかりの自分を変えようと、何か他のことに集中したくて受験を決めたのである。その結果が、どういうわけか、再び徳永さんと関わることになり、徳永さんをめぐって、また、このような堂々巡りに陥っているのだ。




「どうしたの、ショウ?ぼーっとして」ランチの皿を前にして食べもせず、ぼんやりと空を見ている松に桐子が話しかけていた。「恋煩(わずら)いしてるみたいな顔になってるよ」



「んーあたしって、いつも同じことばかりやっているなあって、考えていたの」松はくすっと笑った。「こんなんじゃいけないやって、そう思っていつも、自分を変えようと頑張ろうとするんだけど、いつも同じ場所に戻ってきちゃうのはどういうわけなんだろうね」



つづく

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