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6.縮まってゆく距離

6.縮まってゆく距離



 翌週、徳永さんがインド出張から帰って来た。朝出社すると、出張帰りはいつもそうなのだが、早めに来ていた。



「海外出張お疲れ様でした」目があったので、松の方から自然に聞こえるように気軽に声をかけた。「電話は、机の上にメモをのせてあるだけです。他は、メールで送ってありますが、そんなに急ぎはないと思います」



「あ、そう。ありがとう、ご苦労様」と、相変わらずのそっけない返事。「この前、わざわざチケットとパスポートを届けてくれて悪かったね」と、彼は言った。

「いえ、会社にお戻りにならないと思ったので。手元に届いてよかったです」




 隣の家の人が親切だったから松はあの日助かったのだが、そういったことをここで細々と述べるのは嫌だった。もう、あの日の出来事は忘れてしまいたかった。



 徳永さんもその日はそれについて何も言わなかった。松は、桐子の言葉を思い出して『そういった雰囲気』があるのかどうか、気が付かれない程度に様子をうかがっていたが、当の松本人が意識しすぎてしまって、本人を冷静に見ることができなかった。いつもと変わらない徳永さんの動きや声に異常に反応してしまう。





 整った顔立ちにサラサラの前髪、



 均整のとれた体型、



 美しい肩に長い手脚。




 大田原君と似てると思っていたのに、こうやってみると、大田原君よりずっと大人。




 十歳も年上なんだから当たり前か…




 それにしても今日の徳永さんは、理由はわからなかったけれど、神妙な顔をして一日中、電話もあまりかけず、静かに仕事をしていた。





 終業時間がすぎたので、松は席をたった。その日は貿易実務の日だったので、すぐに退社した。



 翌朝のことだった。



「ハナイエさん、社内試験を受けるんだって?」徳永さんが聞いてきた。



 えっ、何で知っているの、と思ったが、「いえ、まだ申し込んでいないんですけどね」と答えた。



「それで貿易実務講座を受けに行っているの」



「ええ、まあ」それがどうしてお前に関係あるんだと思いながら松は答えた。



「津山さんはとても詳しいから、勉強になると思うよ」彼は言った。



「はい、そう思って」



「英語の方はどう?」



「どう、といいますと」



「よかったら、英語のレッスンにつきあおうか。少しぐらいなら役に立てると思うよ」



 例の英会話ランチのことだと思った。



「いえ、そんな、ご迷惑ですし」松はすぐさま答えた。「それに、まだ過去問とかあんまりみていなくて、勉強の計画も全然たてていないので」



「じゃあ、必要になったらいつでも言って」徳永さんは、いつもと違ってとても口数が少なかった。「協力するから」



「気にして下さって、ありがとうございます」と、松は言ったが、他の科目を頑張るつもりだったので、英会話の方に力を入れるつもりはあまりなかった。





 松は、社内試験の初級を申込み、総務部へ過去問題をもらいに行って、さっそく問題を解いてみた。結果はあまり良いものではなかった。



 まともに得点がとれたのは簿記だけ。貿易の方は全く素人なのだから仕方ないとして、英語の方はヒアリングに関しては、やはり何を言っているのか分からないのは予想していたが、筆記の方すら、さっぱり駄目だった。松がマトモに英語を勉強していたのは、高校三年までで、あとは、短大時代に教養の科目でテスト勉強したぐらいだった。年月が経ってかなり実力が落ちていると思ってはいたが、ここまでできないとは思わなかった。




 その日も貿易講座のクラスに行ってみた。



 松は途中から参加したので、特に初日はチンプンカンプンだった。専門用語が多すぎて、何を言っているのかまるで分からない。暗号のような用語があっちこっちで出てくる。しかもその暗号も英語だ。皆、ノートを真剣にとっている。松は英会話で一緒だった同じクラスの山田さんに聞いてみた。




「ねえ、わたし途中から入って来たもんだから、さっぱりなんだけど、皆、津山さんの言っていること、分かるの?」



「分からないですよ!」山田さんはうなった。「この講座、もともと初歩向けだったんですけど、申込者が全員、社内試験向けの勉強のための参加だもんで、それ向けにレベルとテキストが急きょ変わったんです。それが難しくって。毎回、予習と復習をキッチリしないとついていけないですよ」



「社内試験向けの貿易実務って、そんなに難しいの?」



「津山さんは、そんなに難しくないって言うんですけど」山田さんは情けなさそうに言った。「難しいって、皆、言っていますよ」





 思いつきで申し込んだものの、とんでもないものに首をつっこんでしまったと思った。引き返して、キャンセルしてやろうかと思ったが、申し込んで翌週にお手上げだなんて格好悪くて言い訳できないと思った。しかも徳永さんが皆の前で、松が社内試験を受けることを口にしてしまったので、部署の人達には、松が社内試験を申し込んだことを知られてしまっている。




 松はため息をついて、対策を考えようと思った。とにかく、試験までになんとかできそうな努力だけはしてみよう。




 松は、どのあたりを勉強したら得点アップにつながるか、過去問とにらめっこした。簿記は殆どとれているが、抜けている所もある。もうちょっと頑張れば上乗せが期待できる。貿易の方はとにかく基本から頑張ってやるしかない。問題は英語だった。これは無暗に、上達に時間がかかりそうな英会話に時間を割くよりも、筆記の方を頑張ったほうがとれると思った。




 松は書店に行って貿易実務問題集を探しに行ったが、そこにはおいていなかった。仕方がないので、津山さんからお古の問題集と参考書などを借りてきた。とにかくこれを覚えなければ。暗号だけでも頭に入っていないと、話についていけない。さっそく使い古された貿易用語集を開いてみた。




 WTOは、世界貿易機関。ウン、これぐらいなら知っている。



 SALES NOTEは、売約状。フムフム。



 FREE ON BOARDは、FOBと略され、本船渡し条件のことを言う。本船渡し条件とは、商品が船舶や貨車、飛行機などに荷積みされた時点で、その商品の所有権が買主に移転するという取引条件である。貿易取引条件であるインコタームズ(INCOTERMS)のひとつ。




 インコ?



 インコタームズって何?と、ここで止まってしまう。



 止まったところでインコタームズの欄を探して読んでみる。




 INCOTERMSとは、各国の商習慣の違いによって発生する取引上の誤解、紛争、訴訟を防止する為に、国際商業会議所によって1936年に作成された国際規則の名称である。任意規則であるため、強制力はなく、貿易取引で使用する場合は「インコタームズの規定による」と明記する事が一般的である。




 あーなるほど。なんかこの鳥っぽい名前は、規則の名前なんだ。と、インコタームズのページの端を折って先に進む。こんな風に丸暗記しようにも、その都度その都度、引き返したり立ち止まったりするので、なかなか覚えられない。これが、普段貿易と近く接している人ならば、スッと頭に入ってくるのであろうが、初心者にはただの暗号にしか感じられない。特に松の場合は、貿易と関わったことがないうえに、最初から興味がないので、余計に頭に入りづらい。




 ようやく用語を覚えて授業に出たが、用語を覚えただけでは授業について行くことはできなかった。



 とにかく必死にノートをとって、家に帰って復習をした。お陰で、この時期の松は殆ど就寝時間がいつも夜中で、常に寝不足状態だった。




 それでも講座をまともに受けていたお陰か、なんとなく問題が解け始めた。正解率が上がってくると、授業が楽しくなってくる。松は一層頑張った。会社に入って、こんなに勉強を頑張ったのは初めてだった。




 ある日、食堂で佐藤さんに会った。




「花家さんじゃない、久しぶりだね」今日は、佐藤さんは徳永さんと一緒ではなかった。「そう言えば、社内試験受けるんだってね?」




 佐藤さんにまで知れ渡っているのかと、松は苦笑いした。




「そうなんです。もう大変で。佐藤さんこそこの前の試験どうでしたか」



「なんとかね、ギリギリだった」と言いつつも、彼女は嬉しそうだった。「やっぱりネックは英語だったわね」



「やっぱりそうなんですか」それを聞いて、松は表情を曇らせた。



「英会話なんて頑張ったところであまり得点あがらないと思ってね、他の科目を頑張ってカバーしようと思ったんだけど、やはり最低ラインは確保しておかないと、他がよくても合格にはならない仕組みになっているから」



「えっ、そうなんですか?」



「ひょっとして、わたしと同じこと考えていた?」佐藤さんはにやりと笑った。



「はい、考えていました」松は素直に答えた。「英会話だめなんで、筆記の方をとにかく頑張ればいいかなって」



「残りの科目がどれほど高くても、一科目でも最低ラインから下回ったら、不合格らしいよ。少なくとも、四科目中三科目が満点に近い状態でも、残りの一科目が四割を下回ればダメだって」



「三科目が満点…」松は絶句した。「三科目とも満点をとらないといけないんですか?」



「そう。その状態で、更に残りの一科目が四割以上の正解が必要なの。でも平均的にまんべんなく取れていたら、合計点がそう高くなくても合格ラインに乗るって。だからね、やっぱり苦手科目は放っておくわけにはいかなかったのよ」




 佐藤さんが必死になって、徳永さんに英語のレッスンをつけてもらっていたのは訳があったのだ。とにかく土壇場の状態で、佐藤さんは、英語話者について練習していたのだろう。




「その顔は、苦手科目がありそうね」佐藤さんは言った。



「はい、簿記はなんとか取れるとおもうんですけど、残りの科目が…」




と言って松は固まってしまった。残りの科目はどうしたらいいだろう?




「英会話なら、徳永さんに教えてもらえば?」佐藤さんは言った。



「今から外の英会話教室に通うのもいいけど、徳永さんは教え方上手いし、社内にいている人だから時間の合う時に、効率よく見てもらえるし。そして何と言っても、割安ですむしねえ」



「そうですね」



「でも、花家さんの場合は、徳永さんは上司だから、頼みづらいか」



「まあ、上司と言っても、電話とったり、出張精算するだけですけどね」と松は言った。「本当に、徳永さんって教えかた上手なんですか」



「わたしの場合、徳永さんのお陰で、なんとかなったようなもんだから」佐藤さんは言った。「まあ、徳永さんもお忙しい方だし、この前から私達が大挙してお昼休みの食事時間にレッスンを強引にお願いしていたから、嫌気がさしてなければ、引き受けて下さると思うけど」佐藤さんは、微笑みながら言った。




 松はああーどうしよう、という顔になった。




「悩んでいるの?」



「ハイ」



「わたしの場合、試験間際になってから、あわてて言ってお願いに行ったらさ、そんな急にいわれて間に合わないよって、最初断られちゃってね」



「そうなんですか?」



「徳永さん、けっこう言いたいことは、ズバっと言うからね、一度ダメって思ったら絶対ダメ。でもこっちだって必死だし。どーしてもって、かじりついてお願いして、何とか教えてもらったけど。最初から普通に頑張っておくのが一番よかったのかもしれないって思い知らされたわよ。でも、結局、責任もって教えて下さったんで、受かったのは徳永さんのお陰だった」




 その後、十分ほどの間、佐藤さんに「社内試験の極意」を色々と聞かせてもらった。




 松は、食事が終わってすぐに席に戻った。


 

 残りのお昼休憩を利用して、貿易の参考書を読んだ。最近は、予習復習をしているお陰でだいぶ理解できるようになってきた。このまま頑張れば、満点は取れなくとも、合格ラインはいけるかもしれない。残りは英語だ。筆記の方を頑張っても結局は、英会話がネックだということが分かって来た。いかに他の科目を頑張っても、英会話の得点が極端に低ければ、合格ラインには入らないのだ。




 昼食を終えた部署の人がぱらぱらと席に戻って来た。徳永さんも他の営業マンと一緒に帰ってきた。そして、定位置である松の斜め前の席についた。徳永さんはいつもの作業、パソコン画面を見やり、メールをチェックし始めた。松は、そんな徳永さんの様子をちらちらうかがいながら、



どうしよう、


どうしよう、


どうしよう、



と、心の中で繰り返していた。




 別に、社内試験にどうしても受からなければならない理由はなかった。受けて、不合格になってそのまま受けずに過ごす人も沢山いる。受からなければ受かるまで受けろと強制されることもない。試験に受かれば、異動やポジション、または給与に関係はあることはあるが、内勤の松達には、そう大きく影響することはない。




 このまま適当にできる範囲で頑張って、




「やっぱりダメでした!頑張ったんですけどねー」




というのでもいいのかもしれない。




 松は再び、参考書に目を落とした。



 あやふやな理由で受験するつもりでいるのなら、



 今の仕事にまるで関係ない貿易実務を覚えるなんて、



 ばかばかしいことのように思えてきた。





 貿易用語を覚えたところで、貿易部門に配属替えになることも、英語の点数がよかったところで、海外出張に行けといわれることもないだろう。松は、自分は何をいったいしたいのか分からなくなってきた。




 徳永さんの顔をぼーっと見ながら考え事をしていたので、彼とバチっと目があってしまった。




「何?さっきからにらまれているような気がするんだけど」徳永さんが言った。



「あっ、いいえ」松は参考書に視線を落として言った。「すみません」



「昼休みも勉強?」徳永さんが言った。「熱心だね」



 後ろの席の小沢さんや、松の上司のトクミツ氏が、松の机の上の参考書を、ちらっと垣間見ながら松の後ろを通り過ぎていった。




「ま、最初は腕ためしみたいなもんだから」小沢さんが言った。「あまり肩肘はらずに、リラックスして受ければいいと思うよ」



「そうそう、何も急ぐものでもなし、最初から受かろうなんて思わなくてもいいんだからさ」トクミツ氏さえそんなことを言う。



 そう言われると、余計に受ける気がなくなってきた。別に必要とされるスキルでもないのに、貴重な時間を割いて、何を頑張ることがあるのだろうか。




 普通に仕事をしてその日は終わった。



 終業ベルが鳴ると同時に松は仕事を終わらせた。しかしすぐに席は立たなかった。松は、徳永さんの様子をうかがっていた。彼はまだ席で何か作業をしいた。松は、頃合いをみて徳永さんに話しかけた。




「あの、徳永さん」



徳永さんは手を止めて顔をあげた。


「何?」



「あのー、この前社内試験で英語の勉強をするのなら、手伝っていいって仰ってくださいましたよね?」



「え?ああ、うん、何、レッスンして欲しいの?」徳永さんは、突然話しかけられて間の抜けた顔をしていた。



「はいあの。この前、過去問を解いてみたんですけど、英語は筆記もヒアリングも全然だめだったんです。一科目でも低い点数があると、他の科目で稼いでも合格できないそうなんです」



「ああ、そういうシステムになっているんだってね。この前、君の先輩の佐藤さんが社内試験を受けるって言ってさ、青い顔で何とかしてくださいって泣きついてきたとき、そんなこと言ってたよ」




 徳永さんは普段から声が大きい。何も佐藤さんのことを、そんな風に皆のいているところで話さなくてもいいのに。悪意はないのだろうが、相変わらずデリカシーのない人だなと思ったが、今はそんな場合ではなかった。




「はい、わたしも佐藤さんからその話を聞きまして。で、どうでしょうか。あの、お忙しいかと思いますが、わたしも佐藤さんみたいに教えて頂けないでしょうか」



「試験っていつあるんだっけ?」徳永さんはボールペンを鼻先にかざしながら、カレンダーを見て言った。



「八月です」



「三か月後かぁ」徳永さんはぶつぶつ言っていた。「八月なら大丈夫かな」




 徳永さんは期間限定でこっちに出向している人なので、夏の終わりには親会社の方に戻り、その後ニューヨークに赴任する予定である。




「いいよ」徳永さんは、快い感じで承諾した。「英語でも日本語でも、お喋りするのなら大歓迎だから。ほんというと試験なんて肩肘はって頑張りましょうっていうのガラじゃないんだけどねえ。でもハナイエさんは急いでいるようだし」



「はい、すいません」



「いいよ。お安い御用だよ」徳永さんはそう言うと、いきなり立ち上がって松達が座っているデスクの真隣にある、商談用の机の椅子が置いてあるコーナーに移動したかと思うとドカっとそこに座った。「じゃ、はじめよっか」



「えっ、今からですか?」松はぽけっとした顔でたずねた。



「もう終業ベルなったよね?」徳永さんは振り返ったところにある時計を見た。「うん、じゃあ大丈夫だよ」



「ここでするんですか?」




 そこは、低いパーテーションがあるだけで、部署の人達から姿もまるみえ、声も筒抜けな場所だった。




「わざわざ個室に移動するのも面倒でしょ」



「はぁそうですが」と言ってから、松は時計を見た。「あのー、お願いしておきながら何ですが、わたし毎週、月曜と木曜に、貿易実務講座を受けていまして、今日も六時になったら行かなきゃならないんです」



「じゃあ、毎日五時半から六時までの三十分、英会話の時間に充てよう」徳永さんは言った。「この間だけ、仕事の手を休めて、きっちり毎日やろう。貿易講座のない日は、もう少し長くできるわけだしね」



「はい」と、松は答えて席に着いた。



「かまわないよね?」



「はい」と返事をしつつ、松は、彼はいったいどんなレッスンをしてくれるのだろうかと考えていた。




 徳永さんは座って、しばらく黙って、目を天井に向けて何か考えているようだった。



 テキストも資料も何も用意していない。



 まだ帰らずに席に座っている部署の人達は、何が始まるのだろうと徳永さんと松が差し向かいで座っているのを、ジロジロと見ている。





「じゃ、はじめようか」



いつものちゃらんぽらんな雰囲気とうってかわって、真面目顔の徳永さんが言った。




「はい、お願いします」と、松は答えた。




 こうして、徳永さんの英会話レッスンが始まった。






 この日、松が貿易実務講座を終えて席に戻って来たのは、七時半だった。やれやれと部署に戻ってくると、ガランと閑散としたフロアーに徳永さんがまだ席に居てた。珍しい時間まで残っているもんだなーと思っていると、帰って来た松の姿に気がつい徳永さんが、



「じゃ、また始めようか」と、言う。




始めようかって?





「あと、一時間ぐらいなら大丈夫だろ」



 時計を見る。そりゃまだ大丈夫だけど、まだやるの?普段使い慣れていない脳ミソをフル活動させた後だ。



 松の神経は、まだぼーっとしていた。



 しかしそんな松におかまいなしに、徳永さんは、松が席につくと、待ってましたとベラベラと喋りはじめた。いつも電話で話しているのと同じの、弾丸トーク。そう次から次へと喋られても、右からはいった英団子(・・)が、左から抜けて行く感じ。松は、なるべく一生懸命答えていたが、そのうち“yes”とか、“no”といった単語でしか返事が出来なくなった。




「聞こえてる?」彼は日本語で尋ねてくる。



「あー、すいません。実は、貿易をやった後なんで、頭にはいってこなくて」



「そうだろうね、そんな顔している。じゃ、終わりにしようか」彼はあっさりと言った。話し始めて十分しか経っていなかった。



「えっ、もういいんですか」



「疲れている所に詰め込んでも仕方ないでしょ。一気に長くやるよりも、短い時間の回数をやろう。その代り、毎日朝、三十分早くおいで」



「朝ですか?」



「朝の方が、頭スッキリしているでしょ」



「それはまあ」



「じゃあ、明日の朝ね」徳永さんはそう言うと、カバンを持って、さっさと帰ってしまった。





 徳永さんとの英会話講座が始まった事で、生活のテンポがまるで変わってしまった。




 まず、週二回の貿易実務講座の予習復習の時間がまるでとれなくなってしまったのである。




 授業のあった日は毎日帰ってから十分でもニ十分でもテキストを見直して復習をし、次の講座までの空いた時間に予習をしていたのが、貿易講座のない日の夜が英会話講座になってしまい、会社を出るのは常に、夜の九時か十時代。帰り電車の中では疲れ切って、眠ってしまい、翌朝早く行かねばならないので、お風呂と食事をすませたらバタンキューで虫の息だった。これはイタかった。予習復習ができなくなったことによって、授業が付いていけなくなった。一気に成績が落ちた。授業が分からなくなってくると、授業中に眠くなる。授業に出て寝るぐらいなら家に帰ってゆっくり休んだ方がましだと、授業に出ず、退社してしまうこともあった。




 

「花家さん、最近、顔色わるいですけど、大丈夫ですか?」山田さんが話しかけてきた。「徳永さんの英語のレッスンってそんなに大変なんですか」



「大変ってこともないんだけど」そう。大変なわけでない。テキストを使っているわけでなく、予習も宿題もない。毎回、徳永さんと英語で話をするだけである。なのに、終わった後は、なんともいえない脱力感というか、百メートルを全力疾走した後のような疲労感を感じるのだ。



「なんかねー」松は山田さんに説明した。「向こうから、あれを説明してくれ、これを説明してくれってまず言われて、一生懸命英語で説明するんだけど、まず日本語で文を作って、頭の中で英訳して、それを口にするでしょ。ただ、それの繰り返しなんだけどそれが何とも言えず疲れるのよね」



「ああ、その感覚わかりますよ」山田さんが言った。「家に、留学生が一か月滞在していた時期があったんですけど、その間、英語での会話だったんで、ずーっと、今、花家さんが言ってたような状態でした。まず日本語で文章を作って、頭の中で英訳して、話して…それでやっと話が通じたら、また向こうから質問されて、一日中、そんなことばかっかりしていましたよ」



「やっぱり疲れるでしょ」松は言った。



「ぐったりしちゃいますね」山田さんは言った。「普段使っていない脳細胞をつかっているんでしょうかねえ。留学生がいる間、ご飯食べてても、味わからなったですもん。言葉が通じてるか気になるのはもちろんですけど、変な返事をしてないかとか、向こうが気持ちよく滞在してくれているかとか、色々気になりますしね。花家さんは、徳永さんは上司なわけですし、気疲れしているんじゃないですか?」

「それはあるよ。それに仕事場所でレッスンしているから、周りの人に、自分のツタナイ英語を聞かれていると思うとやっぱりね」



「それでも英語の会話が通じ始めたら、ヤッター、何か英語が分かってきたみたいっていう感覚になりません?」



「それは言える。一生懸命説明して、話が「通じた」瞬間ほど嬉しいことはないよ。そういう瞬間に、苦労が吹っ飛ぶね」



 山田さんは、「そっかー」と言うと、うなだれた。



「ど、どうしたの?」



「わたし、今度の試験は絶対受からないですよ。どう頑張っても英会話は最低ラインは無理です。わたしも徳永さんみたいな先生がいてくれたらいいのに」



「山田さんは、この前のチェルシーさんの最後のテストでも、わたしより成績よかったじゃない」



 それに、山田さんは英文科出身だ。卒業したてで、勉強していた時の記憶がわたしよりずっと残っているはずだと松は思っていた。



「でも、あれだって、全然合格点には足りていないですよ。それに、チェルシーさんの講座終わっちゃって時間がたってしまったから、また元の木阿弥状態ですよ」

そうなのだ。いったん離れてしまうと、せっかく築きあげた英語脳も、またたく間に消えてなくなってしまう。



「今テストしたら、きっと、花家さんの方が成績いいですよ」と、山田さんは言った。



 英会話レッスンが始まってだいぶ経った頃、幸か不幸か、徳永さんが一週間海外出張でニューヨークへ行くことになった。



「一週間、英会話講座できないけど、ひとりで頑張ってね」と、徳永さんは言ったが、松にとっては、久しぶりの骨休めにうってつけだった。この間に、遅れに遅れていた貿易講座の復習をするチャンスだ。



「あ、それと再来週の祝日、空いている?」



「え?ハイ、空いていますけど」



「じゃ、この日。一日英会話デーにしよう」



「だって休みですよ」



「一週間できなくなるから取り返さなきゃ。休日返上で頑張ろう」



「・・・・・・」




 休日は、久しぶりの骨休みをするつもりだったのに…などと言えるわけがない。



 そう言って徳永さんはニューヨークへ行ってしまった。



 松はその間に、とにかく貿易の方を頑張った。



 頑張ったところで、簡単に追いつけないのであるが、この一週間やるのとやらないのでは、試験を投げ出すか、投げ出さないかの瀬戸際でもあった。いっそ、投げ出せれば楽なのになーとも、他人事のように思ったが、何とかクラスの中でのギリギリ最低ラインで、ついていっている状態をキープしていた。




「来週は、久しぶりに祝日がありますね」講座が終わると、皆それぞれがぐったりした中、山田さんが話しかけてきた。「最近、ろくに眠れなかったから、待ち遠しい」



「本当だねー」



と言いつつ、来週は徳永さんがニューヨークから帰ってくるし、祝日は徳永さんの恐怖の英会話トレーニングが待っているし、あまり楽しみなことはない。それを山田さんに話すと、




「えー、一日英語漬けですか?羨ましいなあ」と、言う。



「何なら一緒に来る?」松は誘った。



一対一でやっているより、一対二でやる方が、負担が少なくて済む。本当はこんなことではいけないのだが、一緒に行ったら、山田さんのためにもなるし、何といっても、休みの日まで徳永さんと一日じゅう一緒で、しかも二人きりというのはちとキツい。




「ええっ、いいんですか?」山田さんは目を輝かせる。



「いいよ」松は請け合った。「徳永さんは、反対しないと思うよ」




 徳永さんに言うと、二つ返事で「じゃ、ふたりでその日、僕のアパートまで来てくれる?」と言われた。せっかく休みの日なのに、徳永さんの狭い家で英語漬けなのだろうか。




「家の中でするんですか?」



「中でも外でも英語話すのに支障はないでしょ?それと、おしゃれしないで来てね」と彼は言った。「カジュアルな服装で」

 



 いったい何をするつもりなのか。




 部屋の掃除でも手伝わされるのだろうか。




 徳永さんの指示通り、松は山田さんと連れだって、指定の日に徳永さんのアパートまでやってきた。ふたりともジーパンにトレーナーにスニーカーといったスタイルだった。




「ちっさい家ですねえ」徳永さんのアパートに着くなり、山田さんは言った。「本当に、あの徳永さんがここに住んでいるんですか?」




 玄関までの踏み段をあがろうとしていると、例のお隣の家の扉がガチャっとあいた。




「あっ、こんにちは」出てきた奥さんと顔があって、松が声をかけた。



「こんにちはー、今日はようこそ」と、奥さんがにこにこしながら言う。



ようこそ…?



と、ふたりして首を傾げていると、




「ああ、玄関から入らずに、ここを通って裏庭にまわってくれない」と、彼女は腕を家の裏側に向けて言った。



「あ、でも私達は」



「徳永さんもそこにいるから」と言って、中からの赤ちゃんの泣き声に呼び戻されて奥さんは引っ込んでしまった。




 松達は、不思議に思いながらも言われた通りに裏庭に回った。そこに旦那さんと徳永さんがいた。




「結構はやくついたね」徳永さんはにこにこしている。



「えーっと」松と山田さんが戸惑っていると、隣家の御主人が振り返って、「おお、来たね!」と言って手招きしてくれた。



 二人が小さな庭の真ん中まで行くと、そこには椅子と飲み物と食べ物が沢山おかれたテーブルと、なんとバーベキューセットまでが準備されていた。




「あのー」と徳永さんに向かって松が口を開こうとしたら、徳永さんは、



「ダメダメ、今日は一日英語オンリーだから。日本語禁止!」と言った。



「キビシイねえ」ご主人はにやにやしながら言う。そして、



“Is he so stern in your company?”と、私達に言った。




何と言って答えていいか分からず、とりあえず、松は、




“Yes,he is very strict.”と、テキトーに答えてしまった。



 徳永さんが、仕事場では見せないような落ち込んだ顔を見せた。それを見た御主人が




“He is down.”と、冗談ぽく言った。



 いったいどういう状況なのか分からない。ぽけーっとしていると奥さんがやってきて、今日はバーベキューパーティーだから、手伝ってくれる?とふたりに声をかけた。




「ダメだって、今日は一日英語だって言っているでしょ」と、御主人が奥さんに言った。




 奥さんは夫に気付かれないように、二人に向かってそっと小声で「今日は一日頑張ろうね」と、声をかけた。そして「材料費は徳永さんモチだから、遠慮なく食べなさいね~」とも言った。




 そんな感じでバーベキューパーティーが始まった。何をお祝いするパーティーなのか教えてもらえなかったけど、徳永さんと、隣家の若夫婦はとても機嫌よくもてなしてくれるので、松も山田さんも場の雰囲気にのせられてすぐにバーベキューモードになった。三人の会話に耳を傾けながら、奥さんの仕事を手伝ったり、会話に耳をそばだてたり。お隣の若夫婦もずーっと英語でしゃべっていた。もちろんこちらの御夫婦は日本人なのだが、英語を話すのは全然苦でないようだった。




“We met each other through our common friend in N.Y.”と、御主人が奥さんとの馴れ初めを話し始めた。“she were very pretty.”

奥さんは、照れている。



“Why did you stay in New York then?”なぜニューヨークなんぞに居たのか、気になって尋ねてみた。



“To learn English.二人は口を揃えて言った。“We were not good at speaking English. ”



英語を学ぶならやっぱり海外留学なのかなーと思っていると、山田さんが、



“How romantic!”と、言った。“it’s very romantic to meet in a foreign country.”



 ロマンティックかぁ。 うーん、さすが山田さんだ。



 わたしとは発想がちがうなと松は頭の中で思っていた。でも、英語をやるなら海外留学が手っ取り早いのは確かだ。それに親の目の届かないところで、永久就職先を見つけるのも悪くないのかもしんない…と漠然と考えた。




 山田さんは、若夫婦の馴れ初めにそそられ、もっとその話をしてくれとせがんだので、若夫婦がまだ独身で海外留学していた時の話になった。ふたりがどんな学校に通っていたとか、それからふたりはどこでデートをしたとか、いつ結婚することになったのか、詳しく聞きだしていた。




 山田さんは、ふたりの話にうんうんと深く頷いてとても目を輝かせていた。松もまた、若夫婦の語る、海の向こうの生活を一生懸命聞きとろうとしたが、すぐに根尽きてしまった。徳永さんと一対一の時なら、返事をしないといけないのでもっと必死になるのだが、こういう大人数でのお喋りは、つい、興味のない話題になると、すぐに耳がそっぽをむいてしまう。




 そんなことをしているうちに、あっというまに食事が終わってしまった。時間は早かったが、食べ物がなくなってしまったので、会はお開きとなった。松達は若夫婦の家で片づけを手伝った後、家を出た。




 徳永さんが車で近くの最寄駅まで送ってくれた。松と山田さんは、利用している鉄道が違うので山田さんを先に駅の前で下ろした。山田さんは、車を降りると、嬉しそうにペコっと頭をさげて礼を言って行ってしまった。




 山田さんが行ってしまうと、車はまた走り出した。松は、今日は早く終わったから、今から帰れば、今日やろうと思っていたことが少しはできるかなと思いながら時計を見た。




「さて」と徳永さんが言った。「では、今日はどこで英語の勉強をしようか」



「今日の予定はもう終わったんじゃないですか?」



「ナニ言っているの。今日は全然勉強になってないじゃない。肉食ってただけだろ。もっといっぱい喋って、いっぱい聞いて、一週間分の遅れを取り戻さなきゃ」




えーーーー!と、松は心の中で叫んだ。




「不満?」彼は車のスピードを緩めながら言った。




そんな風に尋ねられて、松に断られるわけがない。




「…いえ、不満だなんて、とんでもない」



 徳永さんはそのまま車を走らすと、松がこれまで来たことのない、川沿いにある大きな広場にやってきた。そこには花壇や遊歩道、ベンチなどがあって、市民の憩いの場になっている公園だった。




「ここで何するんですか?」車からおりたって松はたずねた。



「散歩しながら、英語でお喋りするに決まっているだろ」徳永さんは平然と答える。



「散歩だけでもいいんじゃないですか?」なんだかどっと疲れを感じていた松は思わず言ってしまった。



「ただ歩くだけじゃ、芸がないだろう。体を動かした方が脳ミソもよく働く。さあ、あの寺に向かってここから歩くぞ」と言って、彼は森の向こうの方にちょこんとつきでている大きな屋根瓦の建物を指して言った。



「すごく遠そう…」松は呟いた。「あのお寺までどのぐらいあるんですか」




 徳永さんはぎろりとこちらを見下ろして答えようとしない。仕方がないので、



“How far is it from here to that temple?”と、言ってみたら、



“About 2miles away.”という返事が返って来た。




 2マイルって…。1マイルって確か一キロ半か、それ以上あったっけなー。おおーい、じゃあ、今から3キロ以上も歩かされるんかい!と、ほっぺがマンボウ並に膨らみそうだったが、昼間から焼肉をたらふく詰め込んだので、少しは腹ごなしをした方がいいかもしれない…徳永さんが先にテクテクと歩きはじめたので、松はその後を歩いて行った。




 川沿いの遊歩道には沢山の人が散歩をしていて、中には旅行客の人もいた。今日は晴れていて風もなく、とても心地よかった。しばらくくつろいだ気分で無言で歩いていた。




 そのうち何か喋らないといけないんだーと、やるべきことを思い出した。そして、たどたどしくではあったが、この前の出張は快適でしたか、とか、予定は全てうまくこなせましたか、とか、そんなあたりさわりのない短い英文をつなげて問いかけた。徳永さんは、出張中の話を、天気はどうだったとか、飛行機が遅れたとか、退屈だったとか面白かったとか、おきまりのパターンで答えてくれたが、日本語であれ英語であれ、単純であいまいな質問というものには、簡潔でそっけない返事しか返ってこないものである。会話はすぐに途切れた。また空白ができた。松は、徳永さんが早く話を振ってこいと思っているに違いないと思った。日本語でなら、こういった場合いくらでも、午前中のバーベキューの話や、ニューヨークのこととか色々と聞きだして、話を膨らませることができるのだが、あれこれと聞いて、込み入った話にもっていかれても後が続かないし…と思うと、なかなか話を作れなかった。




 松は、ふと、この前、あの若夫婦に会った時、とても親切にしてもらったことを思い出した。みずしらずの自分を家にあげてくれ、お茶を淹れてくれて、遅いからと言って車で駅まで送ってくれた人達。そして今日はバーベキューにまで招待してくれたのだ。




“I’ve never enjoyed a today’s lunch ,your friends are most amusing people.”



 今日のランチほど素敵ことはなかったです。あなたのお友達はとても楽しい方々ですね、と、言ってみた。



“Oh,yes I adore them.”ああ、僕も大好きなんだよと、徳永さんは答えたが、それ以上は何も言おうとはしなかった。また、会話が途切れたので、松は、頭の中で英文を作らねばならなかった。



“What was the meaning of today's party?”と、今日の食事の趣旨を聞いてみた。



 徳永さんは、“It’s my feeling…”と言って、何か考えているようで口をもごもごさせ、



“…feeling of gratitude for you .”と、答えた。



 感謝の気持ちって、ワタシなんかしたっけ、と思った松は



“Me?”と、自分を指して言った。



“…today’s lunch is the gratitude to you who delivered my ticket and passport to my house.”と、徳永さんは続けた。




 あー、あの日パスポートと航空チケットを届けた日のことを言っているのかと、やっと今になって気が付いた。




 あの時、奥さんが「今日の食費は全部徳永さんもちだからねー」って言っていた訳がやっと分かった。それなら事前に言ってくれたらよかったのに、と思った。指定の場所にいかされたかと思うと、突然バーベキューランチが始まって、何が何だか分からないまま御馳走になってしまって。もちろんとても楽しく過ごすことができたけれど、まったくあの日のお礼だなんて思いもよらなかった。




 だけど、こうして今尋ねなければ、知らないまま終わってしまうところだった。松は徳永さんをちらと見た。徳永さんは表情をこわばらせてちょっと緊張しているようだった。徳永さんはあの日松がチケットを届けに行ったことに、お礼を言うタイミングを、これまでずっと逃していたのではなかろうかと思った。それで、何かを返したいと思い続けていたのかもしれない。




 松は、“Thank you.”と簡単に答えた。




 徳永さんは、ちょっと頷いただけで何も言わなかった。再びちらっと見ると、表情が少し柔らかくなったように見えた。




 その後、松と徳永さんは、とつとつと会話をつなげながら寺に向かって歩き続けた。最初、松の方が一生懸命話を振っていたが、そのうち徳永さんも気がほぐれたと見えて、機嫌がよくなってきて、色々喋ってくれるようになった。やはり流暢に話す徳永さんの英語は、時々聞き取りにくくなるものの、立て板に水の如くで、一気に頭が英語モードになってゆく。夢中になって話しているうちに、というより、一生懸命話についていこうと頑張っているうちに、一時間半ほどたって、目的地の寺に到着した。




 寺の参道に到着すると、この寺は、ここからほど遠くない最寄駅から、歩いて三十分ほどの国宝の仏像が何体もお祀りしてある由緒正しい寺院であることが分かった。松達は、駐車場から、蛇行している川沿いの道を歩いて、森をぐるーっと迂回してきたのだ。松と徳永さんは石畳の参道を歩き出した。参道の脇に軒を連ねた土産物屋があった。物珍しそうに土産物を選んだり、地図をみて道順を確かめようとしている外人客が沢山いた。




 松達はそこから寺の境内に入場する入り口までやってきた。ふるめかしい風呂屋の番台のような箱型の入場券売り場には、長年ここで切符を売り続けてウン十年と言った感じの寺のネーム入り半被を着たおじいさんだった。売り場の木製の板に、大人〇〇〇円、小人〇〇〇円、と値段が書いてある。そこの窓口に首をつっこんで、「うちの娘は、まだ子供なんですよ!」と英語でネゴっている白人のお父さん風のオジサンを見かけた。見ると彼の娘というのは、顔こそあどけないのだが、日本人の大人位の背丈は裕にある。番台の人には立派な大人に見えるのであろう。売り場には何歳まで子供なのか一言も書いていないので、こういうトラブルが起るのだろうと思いながら、松はそこを通り過ぎた。




 仏像の見学は三十分ほどで終わった。松と徳永さんは帰り道の参道をちょっと行った脇にある土産物屋の軒先にあるベンチに座って休憩した。駐車場からずっと歩いてきたので、とても疲れていた。




「ハイ」と、徳永さんが冷たい飲み物をもってきてくれた。「お疲れさん」と、彼は日本語で労ってくれた。



「ありがとうございます」松も、ほっとした気分でジュースを受け取った。とてもおいしかった。二人はもくもくと、飲み物を飲んだ。



「ハナイエさんは、もっと積極的に会話に参加しなきゃ」と、ジュースを飲み終わると、徳永さんはまた日本語で話し始めた。「日本語でも英語でも、もっと積極的に。今日のバーベキューの時も、山田さんは結構自分から話していたけど、ハナイエさんはあんまりだったね」



「あーそうですね。どっちかって言うと話すというより、聴き手にまわっちゃうほうなんで、複数だとどうしても自分から話すことが少なくなってしまいます」と、松は答えた。



「性格を変えろとは言わないけどね、外国語を学ぼうと思ったら、まず自分からかかわろうとしないと。その国の文化に身を投じるとまで言わなくとも、厚かましいぐらいに入って行って、馴染むぐらいで丁度いいよ」



「山田さんは、きっとそういう性格なんでしょうね」と、松は言った。今日の山田さんの様子からすると、彼女は海外留学にとても興味をもったようで、あの若夫婦の話を目を輝かせて聞いていた。あの性格なら、語学の習得にはもってこいなのかもしれない。「彼女はとても興味をもっていたようだったから」



「キミはいつも人のことはよく見ているようだけど、それはとても美点ではあるけど、自分のことももっとよく見てあげなけりゃ。ハナイエさんだって今日は、何回か話したそうにしていたのに、結局あまり言葉にしなかったね」徳永さんは言った。



「わたし、今日、そんなに話したそうにしていましたか?」と、松は逆に問い返した。



「うん、アメリカ留学の話をしている時は、とても聴きたそうに見えたけど」




 そうなのだ。



 山田さんは、御夫婦の“ロマンティックな馴れ初め”について詳しく聞きたがっていたけれど、松はなぜふたりは外国に興味を持ったのか、英語を習得しようと思ったのか、ニューヨークを滞在先にしようとした理由は何だったのとか、そういった事を聞いてみたいと思っていた。




「さっきだって、切符売り場のところで何か話したそうにしていたでしょ」徳永さんが言った。



「あーそうですね」あの外人の親子の事を言っているんだと思った。「あの白人の親子が入場券の売り場の人と話が通じていないようなので、助けてあげようかと思ったんですけど、やっぱり、それほど困ってもいないのかなと思ってしまって。いいえ、それより以前に、言うことを英訳しようと考えているうちに、気持ちが萎えちゃったりすると、もういいやって思ってしまうんですよね」



「間違ってもいいんだから」徳永さんは言った。「まず、思った事を口に出してごらん。そうすればなんらかのリアクションがあるから。

”Ask, and it will be given to you;

seek, and you will find;

knock,and it will be opened to you.”だよ」




「え?」



「“求めよ、さらば与えられん。探せよ、さらば見つからん。叩けよ、さらば開かれん“っていう意味だよ。きっと奥ゆかしい性質のせいなんだろうけど、躊躇してチャンスを逃すよりずっといいじゃないか」




 奥ゆかしいというところで松は吹き出しそうになった。うーん、わたしのこののんびりした性格は、外国育ちの人の目からそう見えるのだろうか。




「躊躇しているつもりはないんですけどね」と、松は笑いをかみ殺して言った。



「ならいいけど」徳永さんは言った。「テストまであと半月ほどでしょ。僕は今月、出張が多くて、今までみたいに付き合ってあげられる機会が減っちゃうけど、できるだけ協力するから」



「出張があるんですか?」



「上海と、東京があるんだ。その間ひとりで頑張ってね」




 徳永さんがいない間、大丈夫だろうかと瞬くまに不安がよぎった。彼が一週間ニューヨークに言っている間、すっかり怠っていたせいで、せっかく英語に慣れていた脳ミソも、少し後退していた。




「僕がニューヨークに行っている間、レッスン休んでいただろう」徳永さんは言った。



「えっ、わかりますか?」実は、先生がいない間をこれ幸いと、他の科目を頑張って英会話から離れていたのだった。



「それぐらい分かるよ。とにかくレッスンのない日も聞き取りするぐらいの努力はつづけなよ」



「はい、分かりました」と松は答えたが、もう徳永さんにあまり付き合ってもらえないかと思うと表情はさえなかった。



「だから、そうやって何か聞きたいことがあるんなら、ちゃんと聞いてよ」徳永さんはズバリ言った。「そうやって眉間を寄せてても、口にしてくれなきゃ何考えているのか、こっちには分からないんだから」




 どーして何か聞きたいことがあるって分かったんだろう…




 と思いながら、松は、「いえ、あの、わたし、徳永さんにレッスンしてもらってから少しでも英語力がのびているのかなあって思って」と、言ってみた。




「何を言いだすかと思えば」徳永さんは、とても驚いたようで、大きな目玉をさらにまるめてった。「のびているよ。今日は普通に聞き取りも出来ていたし、話せていたじゃない」



「えっ、そうですか?」嬉しくなって思わず笑みがこぼれた。「本当にそう思います?」



「最初の頃は、今日みたいなスピードで話しても全然聞き取れていなかったけど、今日はできていたでしょ」



「はい!」と答えてから、徳永さんから褒めてもらえたことが嬉しく嬉しくて涙が出そうになった。



「なに泣いているの」女の子に泣かれることは初めてではないであろう徳永さんだったけど、この時はとても驚いている様子だった。「オレ何か言った?」



「徳永さんに初めて褒められたから…嬉しくってつい」松は、涙を拭きながら言った。



「オレって、そんなに感動されるほど今まで褒めたことなかったかなぁ」と、ちょっとショックな様子。



「はい、ずっと、上達していないって思われていると思っていました」



「だからそんなことないって。少しは自信もってよ」徳永さんは励ますような明るい声をかけた。「ちゃんと上達しているんだからさ」



 松は、本当に嬉しくなって、にやにやがとまらなかった。ものすごくうれしかった。体がぽかぽかと温かくなって、これまでの苦労も吹っ飛ぶほど心が軽くなった。



「はい!頑張ります」松は元気よく答えた。



「うん、頑張ってね」と言って、徳永さんは、明るく笑った。



つづく


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