5.好きという気持ち
5.好きという気持ち
前日夜遅くまで走り回っていたので、翌日は寝不足だった。なんだかとても体がだるく感じる…お昼は桐子と一緒に社員食堂で食べた。松は昨日の出来事を、詳しく桐子に話して聞かせた。
「わざわざチケット届けに徳永さんの家まで行ったの?」桐子は、とても驚いたようだった。「それは大変だったねぇ」
「隣の家の人が親切だったから、よかったものの、そうでなかったら、わたし、徳永さんが帰ってくるまであの暗いアパートの外でずっと待っていなきゃならなかったわよ!」
「あんたも運が悪いけど、ほんとエライわねー」桐子が言った。「わたしなら、チケットとパスポートを机の引き出しにでもいれて、徳永さんに<チケットとパスポートは会社の机の引き出しにおいてありますので>って携帯にメールでもして、そのまま帰っちゃうかも。チケットがないことに気がついたら、絶対会社まで取りに戻ると思うし。わざわざ自宅まで届けることもなかったんじゃない?」と、桐子が言った。
「やっぱりそうだったかなあ」
「だって、封筒を受け取った時に、中身をキチンと確認するのが普通じゃないの。チケットとパスポートを受け取ったのを確認しないで、いくらニューヨーク支社長のお呼びだからって、そのまま退社する徳永さんが悪いんじゃない」
「そうだよねー」
「そうよ」と、桐子は自分のことのように怒っていた。「あんた気にすることないよ」
松はそうかも、桐子にそう言われて、あそこまですることなかったかな、と思った。自分は馬鹿みたいに走り回って、お節介なことをしたのかもしれない。でも、どうだろう。桐子はあんな風に言うけれど、桐子だって、いや誰だって、あの場合、わたしの立場にあれば、自分と同じことをするのではないだろうかとも思った。
「今晩よかったらご飯一緒にしようよ」桐子が食事に誘ってくれた。「愚痴たくさん言って、ぱーっと憂さ晴らしなよ」
五日間、徳永さんがいなくなったのでいつもの自分に戻れて、仕事場が平和になった。松のいる部署はもともと経理担当で、営業課のように頻繁に話したりすることは少なく、皆自分のことに静かに集中する。徳永さんの姿が見えなくなったので、松は、徳永さんが松のことをハナゲと吹聴してまわっていたことを忘れていられた。
エレベーターホールで、営業二課の佐藤さんと会った。
「こんにちは」松から声をかけた。
「こんにちは」佐藤さんも挨拶した。「そう言えばこの前、レストランで一緒だったね」
「佐藤さんは、徳永さんとご一緒でしたね」松は言った。「例の、英会話講座だったんですか?」と、聞いてみた。
「そうなの~!社内試験が迫っていて」と、こちらがびっくりするぐらい大袈裟なみぶりで、佐藤さんは絶望的に額をかかえた。
「今回二回目なんだけど、やっぱ英会話の試験がねーネックなんだ…いつもは徳永さんには、社員食堂で友達と一緒でレッスンをお願いしているんだけど、食堂は、結構騒々しいから、静かなレストランの方がいいかなあって思ってさ。それで、ごはん食べながら、テスト形式の質疑応答をしてもらっていたの」
「そうだったんですか」思ったような話じゃなかったので、松は驚いた。そして聞いてみた。「やっぱり、徳永さんの教え方って上手なんですか」
「習った感があるよ。日本語と英語を交えて話してくれるから、分からないところでちゃんと止まっして説明してくれるし」
「へぇ、いいですね」
「花家さんは、受けないの?」
「社内試験ですか」
「うん、あなたの同期だったら受ける人結構いるんじゃないの」
社内試験か…そう言えば支店の山田さんも受けるって言っていたけど、松は自分も受けようなんて考えたことがなかった。
「いや、良く知らなくて」松は言った。「あ、でも、わたしも将来、受けるかもしれません。もし受けることになったら、色々教えて下さい」
「そうしてあげたいけど」と、佐藤さんは言った。「その前に受からないとね」
上向きのエレベーターが来たので、佐藤さんは行ってしまった。
松は、佐藤さんはあの日、てっきり徳永さんと「ふたりきりのランチ」を楽しんでいるのだと思っていたが、そうではなかったのかな、と思った。
いや、ふたりきりのランチだったのだ。
社内試験を利用して、彼女は、徳永さんをおしゃれなレストランに誘ったのかもしれない。
そして、まわりには社内試験に受かるためになどと、言い訳しているのかもしれない…
いったい何を考えているんだろうか。
社内試験とか、英会話講座とか、結婚して新家庭を作るとか、皆、自分のやりたいことや必要だと思うスキルに合せて上を向いて頑張っているというのに、自分は、仕事でヘマを繰り返し、お節介と言われるようなことをして、ようやく一人前だった。
佐藤さんは、徳永さんのことが好きなのかもしれない。
だけどそんなこと、どうだっていい。
徳永さんが誰から好かれようが自分には関係ない話だ。
せっかく徳永さんがいないのに、徳永さんのことばかりを考えている自分が嫌になってきた。
松は、ここ数日の出来事を回想して、なんでこんなことになったのかな、と改めて考え始めた。
事の発端は、徳永さんが松のことを「ハナゲ」と呼び始めたことだ。ハナゲと呼ぶなとあれほどクギをさしていたのに、徳永さんは、裏で松のことをハナゲと呼び続けた。松はそれが嫌で嫌でたまらなかったが、冷静に考えてみると、なぜハナゲと呼ばれるのが嫌なのだろうかと、単純に考えた。あれは子供の頃のあだ名だった。当時は屈辱的なその名前も、小学校卒業と同時に誰もそう呼ばなくなった。松自身も忘れていた。それなのに、なぜこんな大人になってまで、いつまででも克服できないのだろうか、と思った。
いったい、いつからハナゲと呼ばれることが嫌になったのだろう。
松は、ハナゲに関する人生を、最初の方からおさらいしてみた。
小学生の時に、クラスの男子が松をハナゲと呼んでからかい始めた。法華津君の前で、ハナゲとからかわれる事で、死ぬほど嫌な思いをした。中学生になっても、自分のことを「ハナゲ」と呼ばれていた昔のことを皆が知っていて、同じように軽蔑されやすまいかと、ビクビクしながら生きてきた。だから、亜衣ちゃんから「プレゼントを渡したいのでつきあって」と言われた時、行く気になれなかったのだ。
中学生の頃には、ハナゲと呼ばれることはなくなっていたけど、その記憶がどうにも強く残っていて、好きな人ができても、嫌われているのではないかという恐れから、近寄って行くことができなかったのはそのせいだ。
大好きだった神崎君に、勇気を出してボタンを下さいってお願いしたことがある。
亜衣ちゃんはそんなわたしの勇気を賞賛してくれたけれど、結局彼は、予備ボタンしかくれなかった。どういうわけか、ハナゲと呼ばれたことと、神崎君が予備ボタンしかくれなかったことが、松の記憶の中で結びついていた。
では高校に入ってからはどうだろう。高校では誰も松の「ハナゲ」な人生のことは知らない。大原田君は、松の高校生活の記憶の中で一番の思い出の人だった。
まさにレオナルド・ディカプリオのように眺めているだけで幸せな人だった。だから、告白なんて野暮な事はせずに、彼のことは、宝石箱の中にいれて「ハナゲ」と呼ばれた記憶とはかけ離れた心の奥底の、一番やわらかい場所で、記憶しておくつもりだった。
それが、大原田君とよく似た徳永さんがいきなり松の目の前に現れて、松に向かってハナゲ、ハナゲと呼び始めたのだ。アタマにこないわけがなかった…
「松ったら聞いているの」真後ろで桐子が自分の名前を呼んでいた。「今日は一緒にゴハン一緒に行こうって約束したじゃない。仕事終わった?もう六時なんだけど」
早帰りデーだったので、フロアーには殆ど人がいなかった。松は机の上をバタバタと片づけて、桐子と一緒に外に出た。
店に入ってから、ストレスがたまっていたせいか、お酒がすすんだ。特に桐子は、自分の彼氏の話ばかりをしていた。結婚式はどこでするとか、新居はどこだとか、旦那になる人の仕事場所はどうとか、互いの実家を訪問し合った時の様子などを喋っていた。
そのうち、聞き役だった松に話をさせるためか、桐子が松の恋バナに水を向けた。以前話したことがあった「予備ボタン君」をダシに、詳しく話を聞きたがった。
「あんたオクテに見えて、ボタン貰いに行くなんて、わりと積極的なところあるよね」
「オクテだよー告白なんてしたことない。告白なんてするの、メンドクサイって思う方だもん」
「こっちから告白してなくても、告白されたことないの?」桐子が言った。
桐子は何を突然そんなことを聞いてくるのだろうかと思いながら「エー」と言って、そんなことあったっけな、と思いながら
「そう言えば一度だけ、そんなことがあった気がする」
と言って、松は昔の記憶を手繰り寄せた。あれは、まだ神崎君のことを好きで遠くから彼のことを眺めていた、中学二年の頃のことだ。
「中学二年の時にね、たまたま隣の席に座っていた男の子からラブレターをもらったことがあったよ」
「ラブレターって、手紙?」
「そう、手紙。紙にペンで書いて封筒にいれるヤツ」
「なんか時代を感じるわね~それでそれで?」桐子はとても面白がっているようだった。
「別につきあったりとかなかったよ。だって全然興味ない子だったから」
「興味のない子って、あんた相変わらず冷たい言い方するねえ。ラブレターもらって振っちゃったの?」
「だって、全然好きじゃなかったし、ただ単に隣の席で、たまに喋る程度だったのに、何で手紙なんてくれるなんだろうって、状況が理解できなかったの」
「えー、じゃあその子、思いが伝わらなかったってこと?」
「うん、本気だと思わなかった」
「かわいそうに」桐子はとても同情しているようだった。「その子さぞ残念だったろうね」
「いや、そんなことなかったと思う」
松は昔の事を思い出しながら、または、考えながら言った。
「多分、わたしのこと、あの出来事の後、むちゃくちゃ嫌いになったと思うよ。だって、もらったラブレターに“ボクが手紙を書いたことを絶対に人に話さないでください”って書いてあったのに、あたし友達に話しちゃった上に、それがクラス中に知れ渡っちゃたから。彼は散々、クラスの噂の種になった上にからかわれて、きっと、すごく恥をかいたと思う」
「ええ~どうしてまた、ショウは人に話しちゃったの?」
「だからね、ラブレターなんて冗談だと思ったの。何なのかよく分からなくて、友達に相談するしかなかったのよ。本気でくれたものだと思いもよらなかったし、全然好意の持てない男の子から好きですって言われてもってナニ?って感じだったから」
「で、それきりだったの?」
「うんそれきりだった」
「何というか、気まずい出来事だったね」桐子が言った。
「わたしが人に喋っちゃったんで、むこうが気まずい思いをしたのはわたしのせいなんだけどね」
桐子は少し言葉を失っているようだった。
「わたしのこと、ひどいヤツだと思っているでしょ」言葉がでない桐子に、松は言った。
「いいよ、本当のことだもん。実際、ひどいことをしたと思う。あの子がせっかくくれたラブレターを、人に見せちゃったことは後になってすごく反省した。神崎君から振られちゃったなぁと気付いた時、ああこれが振られるってことなんだって思ったもん。ああそうなのか、わたし、あの時あんなひどい事しちゃったけど、当然の報いなのかなあって思ったよ」
桐子は何かひっかかったかのだろうか、
「そっか…」
と言ってから、ちょっと立ち入ったことを聞いてきた。
「ごめんしつこく聞くけど」桐子は言った。「せっかくラブレターをくれたのにどうしてまたからかわれていると思ったの?」
「どうしてって…」
どうしてか。その時の気分がそうだったから、と言えばそれまでなのだが、なぜそういう気分になったのだろうか。桐子は誠実な目で決して好奇心だけで聞きたがっている様子ではなかったので、松は真面目に考えてみた。
「どうなんだろう、よく分からないけど、あの時はまだ子供だったし、わたしは子供の頃から、人を好きになる気持ちってあんまり本気にとらないようにしろって、家族から言われていたしな」
松はそう言ってまた考えながら言った。
「そう言う気持を外に出すことは、恥ずかしいことだって言われて育ったから、他の人の真面目な気持ちが理解できなかったのかもしれない」
こんな話を、松は亜衣ちゃんとしたことがあった。亜衣ちゃんは自分の恋を家族にとても応援されていたので、松の話にとても驚いていた。松は言ってから、桐子も同じ様に感じるのだろうかと、桐子の表情を見守っていたが、彼女は、先ほどと同じく誠実にうんうんと頷いていた。
「それでからかわれていると思ったんだ」と、彼女は言った。
「うん」
「今でもそう思う?」
「え?」
「今でも、そんな風に考えている?今、人から好意を打明けられてもからかわれていると思う?」
「えーさすがにそれはないよ」松は答えた。「でも好意を持たれるような事ってあまりないから」
桐子は頷いていたが、何かとても考え事をしているようでもあった。その様子がなんとなく意味のあるように思えて、桐子、何考えているんだろうと、松は思った。
「今日はやけに、そう言った風に話をむけるねえ」松は言った。「今日はわたしの愚痴を聞いてくれるはずじゃなかったの?」
「今日はあんたの徳永さんの愚痴を聞く予定だったんだっけ」今度は徳永さんの方に話が流れた。「徳永さんってほんっと、松のいないところで、松の噂話をすごくしているのよ」
「わたしの話?」
「あの人、あれだけ女の子の話をしたら、本心丸見えだと思わないのかしらって思うぐらいに、話し出したら止まらないのよね」
「徳永さんはわたしのことなんて言っているの」松は不安を感じた。「徳永さんがわたしにつけている例のあだ名と関係があるの?」
「ああ、徳永さんが松のことをハナゲって呼んでいること?」桐子は、まだそんなこと気にしているの、という顔になった。「あれはただの愛称だと思うよ」
「なんで愛称をつける必要があるの、なんでわたしのこと、ハナゲだなんて、変な名前で呼ばなきゃならないのよ」
「徳永さんは変な名前だと思っていないのよ。なんでも昔、松と同じ、花と家って書いてハナゲさんって呼ぶ友達がいたんですって。それが呼び慣れていることもあって、松のことをハナゲって愛称をつけただけと思う。でもね、わたしが言いたいのは、そのことではなくて、ショウのことをしょっちゅう噂話しているってことなのよ。あれだけショウのことを話すってことは、やはり、そうなのかなって、私達、思わざるを得ないわけなのよ」
「何?」
松はもう貧血で倒れるかと思った。彼は、松の仕事ぶりがあまりに至らなくて、自分のことを悪く言いふらしているのかと思ったのである。
「多分、徳永さんは、ショウの事が好きなんだと思う」
「なにそれ」
「だから、徳永さんはショウにむちゃくちゃ気があるのだと思う」
桐子は身を乗り出して真面目に言った。
「そんなことあるわけないでしょ」松は桐子がからかっているのだと思った。
「何であるわけないのよ」桐子は言った。「徳永さんのこと、何も思わない?」
思う訳がなかった。またこの話か。昨日散々嫌な思いを彼のためにさせられて、未だ怒りの治まっていない今日、彼の噂話を聞くのさえ嫌だった。
「全然思わない。わたし、徳永さんの担当になってから、良くない事ばかり起っているから、そもそもわたしと徳永さんは相性が悪いと思う」
桐子はものすごく残念そうな顔になった。
「やっぱり、本当に何とも思わないのかー」
「思わないよ」
「ごめんね。変な事言って」桐子はこの時、不思議と小沢さんと同じことを言った。
「何なの?そんなことを言うために、さっきまで長々とわたしが昔好きだった人の話をさせてわけ」
「それもあるけど」と言って、桐子は語り始めた。
「でも、そのお陰で、あんたが何で好きな人の前で億劫になっちゃうのか、何となくだけど分かったよ。ショウが、男性からの好意を素直にうけとれないのは、家の人から男の人を好きになる気持を本気にとるなって言われたからなんじゃない。それで、ラブレターもらっても本気だと思わなかったんでしょ?」
「えっ…」突然桐子の解説が始まって、松は戸惑ってしまった。
「でもね、それはもう大昔のことなんだし、その子に今会って謝ることもできないし、謝ったところでどうにもならないし。これはもう昔のことだとサッパリ忘れて、好きな人に思いっきり好きだって言ってもいいじゃない」
桐子は、お酒がまわっているのかと思ったが、真面目な顔をしていた。
松は「何言っているのよ。誰に好きだと言わなきゃならないのよ」と、言った。
「だからさ…」
「わたし、今、好きな人いないもん」と、松は言った。
「ああそうか。松は、その高校の時に告白せずに終わった男の子のことがまだ忘れられないのよね」
「だから、好きな人なんていないって言っているでしょー」松は念を押した。「高校卒業して、五年近く会っていないんだよー。会うような接点も全然ないし。もちろん付き合ってもいなかったし。あの子のことは、とっくに忘れて、今ではただの思い出の人だよ」
松は当時の制服姿の大田原君のことを思い出して笑った。彼は今頃、素敵な彼女でもできて、今頃は、結婚して幸せに暮らしているかもしれない。
「あんた本当に、わたしが徳永さんを好きだと思っていたの?」松は聞いた。
「そういうわけじゃないよ。あんたがそういうんなら、松は多分、徳永さんは好みじゃないんだろうね。徳永さんデリカシーに欠けるし、外見があんなにいいのに、時々すっごくカッコ悪いことしているし、見かけよりトンチンカンで、少々要領のいいところがあったとしても、大部分ぼーっとしている人で、女の子の気持ちなんてあまり分からない人かもしれない。でもやっぱり、徳永さんは松のことショウ好きなんだと思うのよ」
「だから、わたしも徳永さんのことを好きになれって言うの?」
「そうじゃないよ」桐子は言った。「あんたにそんなこという訳ないじゃないの。ただ、松はちょっとでも徳永さんにそんな風に想った事はないのかなあって思っただけ」
「さっきから言っているでしょ、そんなこと全然思ってないよ」松は本当に腹が立ってきて、今にも鼻毛がのぞきそうなほど鼻孔が膨らんでいた。「あの人のために、わたしエライ目に遭わされているの、話したばかりじゃない」
松の顔は、いまにも噴火直前で真っ赤に燃えていた。桐子はもともと松の気持ちを煽るつもりはなかったので、もう矛を収めた方がよいと思った。
「そう言うと思った」桐子は、声のトーンを落とした。「やっぱりね、昨日の話を聞いて、よけいそう思った。徳永さんって本当にヌケている。どんだけカッコよくて、仕事ができても、あれじゃあね」
「徳永さんとわたしのやりとりを間近で見ている人は、誰もそんな風に見てないよ。桐子やほかの人達は何か誤解しているんだと思う」
「いや、誤解はしていないと思う」桐子はこの点に関しては譲らなかった。「多分、私のカンは当たっていると思う。松はどうも自分の好みでない人から好かれる傾向があるみたいね」
松は何か言いたげだったが、桐子は松の返事を待っていなかった。そしてこう続けた。「徳永さんも徳永さんだと思う。ショウの事が好きなら、ちゃんと本人にそんな風に言えばいいのに。ショウの居ないところで愛称つけてショウの噂話ばかりするなんて、やはりマナー違反だよ」
桐子の話が耳について、松はその日全然眠れなかった。翌日仕事に行っても、徳永さんの事が頭から離れなかった。目を閉じていても徳永さんの顔が浮かんだ。日中、国際電話があって、松が電話をとった。徳永さんからだった。
「無事現地につきました。そちらに何か用事は入っていないですか」
「特にありません、お疲れ様です」
という単純な返事をするだけで緊張した。徳永さんはチケットを届けてあげたことについては何も言わなかった。彼は言葉少なげに、また出発前に電話します、と言って切った。
松は、こんなことではいけないと思った。あんなことを言い出した桐子に恨みがましい気持ちもあったが、彼女に怒っても何にもならなかった。徳永さんのことを頭から追い出すべく何か別のことに集中したかった。
ふいに津山さんの貿易実務の初級講座のことが思い出された。
申込は締切られていて授業も始まっていたが、参加人数が少ないので、来たくなったらいつでも来てと、津山さんが言っていた。ただ、講座に参加するだけでは物足りないと思った。
松は、山田さんみたいに社内試験を受けてみようかと思った。
松は社内試験は初めてなので、受けるなら初級になる。初級には貿易実務や、簿記の初歩、英語の筆記と、英会話があった。松は、短大時代に簿記は勉強していたので自信があった。英語の筆記は問題集を一生懸命やるとして、簿記で満点をとれば、見込みの薄い英会話はカバーできるかもしれない。ネックは足を踏み入れたことのない貿易実務だった。初級ならなんとか頑張ればモノになるだろうか。松は早速、申込みをしに行った。
「わたし、社内試験を受けようと思って」松は津山さんに申し出た。「貿易実務を何とかしたいんです」
つづく




