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4.行きちがい


4.行きちがい




 翌日の午前中は、徳永さんに外国から来客があったので忙しかった。




「コーヒーを応接室に四人分持ってきて」と、徳永さんは松に声をかけた。




 松は平静に見えるように「分かりました」と普通に答えたつもりだったが、顔も声もこわばっていた。徳永さんは、松の反応が気になるのか、ちらちら様子をうかがっているような感じだったけれど、松は心をかたくなにして、徳永さんとはなるべく視線をあわさないようにしていた。





 応対したりお茶をだしたり。



 バタバタと過ごしているうちにあっという間に午前中が過ぎて行った。十一時半ごろ、総務部から航空チケットがきているから取りに来てと電話があったので、忙しい中走って取りに行った。




 松は、チケットとパスポートを受け取って走って席に戻って来たが、徳永さんはまだ来客中で応接室から戻っておらず渡せなかった。もうすぐお昼休憩で席をはずさなければならなかったので、松はチケットとパスポートを部で管理している金庫の中にしまった。徳永さんはそのまま席に戻らず、来客と一緒に外に食事に出てしまった。




 午後二時頃、徳永さんは来客を送ってひとりで部署に戻って来た。




 彼は、明日の出張の件で話すことが沢山あるらしく、席につくと、例の嫌味なぐらい流暢な英語で電話をかけはじめた。




(そうだ、チケットとパストートを渡さなきゃ)と思って、松が席を立とうと思ったその時、電話の終わった徳永さんが松に話しかけてきた。




「ハナイエさん、昨日言ってた、出張の前払い金、出ている?」


「前払い金?ああ、昨日すぐに部長に申請を送っておきましたけど」


「まだ来ないのかな」





 急に決まった出張なので、松は超特急で徳永さんの前払い金の申請を、昨日、部長宛てに出しておいた。超特急便なら通常、部長の許可が出た翌日の午前中には、財務部から現金を払い出してくれる。前払い金の申請は社内で採用しているシステムでパソコンを使って行うのだが、財務部から現金が降りたとまだ連絡がきていなかった。




 松は時計を見た。もう三時だった。




 急いで部長のところまで飛んで行った。しかし何度調べてみても、昨日の昼に松が申請したデータが部長のところには届いていなかった。




「なぜわたしの送ったデータがこっちに来ていないんでしょう」松は部長秘書をつかまえて聞いてみた。




「昨日の午後に、システムトラブルがあったんで、全社的にいったんサーバをダウンさせて、立ち上げ直したのよ。殆ど復旧しているはずなんだけど、数件データが消えてしまっているみたい」部長秘書の人が説明する。




 松は頭をかかえた。よりによって自分が申請したデータが消えてしまっているなんて。



 そう言えば、昨日の午後、サーバトラブルがあったので、自分の入力したデータを確認するようにと通達が来ていたが、例の件で頭にきていたので、徳永さんの前払い申請のことはすっかり頭から抜け落ちていたのだ。





「どうすればいいんでしょう」松は青くなって部長秘書の人に尋ねた。


「今からじゃシステムで再申請したって間に合わないから、紙で書いて許可印をもらった方が早いんじゃないかな」




 松は席に飛んで帰って、手書きの前払い申請書を書いて、必要な担当者の判子をもらいまくって、財務部に飛んで行った。財務部の担当者から「現金の振りだしは午後の三時までなのに」と文句を言われたが、事情を話して松はやっとの思いで現金を受け取って、ぜいぜいと息を切らして席に戻って来た。




「これ、明日の出張の前払い金です」松は茶封筒に入れた前払い金を、席に座っている徳永さんに渡した。



「ああどうも」と言って、徳永さんは受け取った封筒を、そのまま背広の胸ポケットにしまった。




 その「ああどうも」という言葉が理由もなく松の頭にカチンときた。



 わたしがこんなに苦労しているのに、何だ、そのぞんざいな言い方は。





 サーバがダウンしてしまうような事は、日常茶飯事で起きるし、トラブルに伴う諸々の雑事は当たり前なのだけれど、今日の松には、徳永さんの言うことなすこと何でも、腹がたってならなかった。





 徳永さんは松に、なにか話しかけていたが、松は生返事で「ハイ」とか「イイエ」とかしか答えられず、ついに徳永さんの方がヘンだと思い始めた。




 

「どうしたのハナイエさん。具合でも悪いの」徳永さんが言った。


「いえ」


「でも、鼻声だよ」徳永さんは眉間に皺を寄せていた。「具合が悪いんなら早退したら」


「いえ、具合なんて悪くありません」


「じゃ、なんでそんなに上の空なの?」


「上の空じゃありません」



と、松は言ったがその声があまりに上の空だったので、徳永さんも言わずにはいられなかったようだ。



「上の空じゃない。さっき明日からの出張の予定を君の席においておいたから、よく目を通しておいてって言ったけど、聞こえてる?」



「はい、聞こえています」



 徳永さんが、インドでの出張スケジュールを話している間、松は例の生返事を繰り返していた。



「やっぱり声が風邪っぽいよ。熱でもあるんじゃない?」


「熱なんてありません。声が変なのはただの鼻炎です」




 しーんとなった。



 徳永さんはどうしていいか分からないといった風に肩をすくめた。





「なんか、気に入らないことでもあるの」




 徳永さんはストレートだ。人前で普通言わない事でもズバズバ言う。




「昨日から様子が変だけど。言いたいことがあれば言ってよ」


「気にいらない事なんてありません」


松はむっとした口調で言った。


「それに、わたし、さっきからちゃんと返事しているじゃないですか」




「じゃあいいけど」徳永さんはそういうと、席に戻って行った。




 松は、今日は、せっかく徳永さんのために急いで用を足したのに、なんで徳永さんからこんな風に冷たく言われなきゃならないのかと思った。


 座ってすぐに仕事を始められそうになかったので、トイレに行った。そしてトイレの横にある自動販売機の横で、頭を冷やすためにコーヒーを飲みながらに十分ほど時間をつぶした。



 とにかく明日から徳永さんは五日間、出張でいなくなる。その間は平和な気分で過ごせるに違いない。


 コーヒーを飲み終わる頃に少しだが落ち着くことができた。


 そう言えば、航空チケットとパスポートをまだ渡していなかったことを思い出して、松は金庫に行って、しまったままの徳永さんの航空チケットとパスポートを取り出して戻ってきた。席には、徳永さんはいなかった。なかなか戻ってこなかったので、隣席の人に徳永さんはどこに行ったのかと聞いてみた。




「今、親会社のニューヨーク支社長が支店長室に見えててね、徳永さん、急に呼ばれて支店長室に行っているよ」




 ニューヨーク支社長とは、徳永さんが、この前インド人との会議をすっぽかして会えなかった人であろう。ニューヨーク支社長から直に声がかかるとは、やはり徳永さんは3Kを裏付けるエリートなのだろうかと、のん気に考えていた。




 松は航空チケットとパスポートを手にして徳永さんが戻ってくるのを席で待っていた。社長と名の付く人は普通忙しいものだ。話などすぐに終わると思っていた。ところが五時になっても六時になっても徳永さんは戻ってこない。六時半頃に松は支店長秘書に尋ねてみた。




「徳永さんはまだ社長と打ちあわせちゅうでしょうか」


「徳永さんなら、さっき支社長と支店長と一緒に外に出られましたよ」


「外に?」


「おそらく外食されて、そのままお帰りになるものだと思いますが」


「外食って、どこでされるのでしょうか」


「さあ、そこまでは…」支店長秘書は言った。


「あのー、徳永さんに今日中に渡さないといけない物がありまして、どこに行かれたか分かりませんでしょうか」


 支店長秘書は分からない、支店長はお客と一緒のときは、秘書に会食場所を予約させるが、社内の人間やプライベートな付き合いの場合、ふらりと出かけた場所に入るか、自分お気に入りの店に自ら電話をかけて予約するから、と答えた。




 松は「そうですか」と言って、席に戻った。



 松はしたくなかったが、徳永さんの携帯に電話をかけた。明日出張に絶対必要なパスポートとチケットを受け取らずに帰ってしまうなんてことはないから、きっと戻ってくるに違いない。が、いつ戻ってくるかわからない人をここでずっと待っているのは嫌だと思った。




 徳永さんの電話は「電波のとどかないところにあるか、電源がはいっておりません」になった。





(全く、面倒な人だな)



と、松はパスポート写真の徳永さんの真の抜けた顔を眺めて呟いた。あれだけイケメンなのに、パスポートの顔写真は、顎の方からフラッシュがあたっていて、まるで指名手配犯のようだった。



(明日の朝一の飛行機に乗らなきゃならないこと、分かっているのかしら?)





 仕方がないので、残業をしながら何分か置きに、徳永さんの携帯に電話をかけた。相変わらず何度かけても「この電話は…」になった。



 時が経つにつれ、残業している人達も減ってゆき、フロアーの点いている蛍光灯の数が数えるぐらいになってくると、松は不安になってきた。



 徳永さんは、本当に戻ってくる気があるのかしら。



 昼間、松は出張で必要な前払い金を茶封筒に入れて「前払い金です」と言って、徳永さんに渡した。彼は、中身を見ずにそのまま背広の内ポケットにしまった。彼はもしかしたら、あの茶封筒の中に航空チケットとパスポートも現金と一緒に入っていて、もうすでに受け取ったつもりだったのだろうか。それで今、電波の届かないところにいても、大丈夫と思っているのだろうか。




 時計は夜の九時を回った。


 残業者は松一人だけになった。



 徳永さんの携帯に電話をかけたが相変わらずでない。


 

 「航空チケットとパスポートをお渡ししたいので、電話を下さい」とメールはしているが、電波の届かないところにいればメールも読みはしないだろう。松は、部長秘書の席の引き出しをあけて、【社外秘】と太字でデカデカと表紙のついた部員の名簿禄をそっと取り出した。ペラペラと繰って、徳永さんの住所を調べてみた。徳永さんは松の住んでいるところと反対方向の、電車で四十分ほどのところの最寄駅から数キロ離れたアパートだった。




 もし自宅に届けるのであれば、早くここを出ないと、自分が、家に帰れなくなってしまう。徳永さんが、あの茶封筒の中にチケットとパスポートも同封されていると勘違いしているのなら、ここには戻ってこないかもしれない。




 松は帰り支度をすると、徳永さんのチケットとパスポートを持って会社の外に出た。正面玄関は閉まっていたので裏口の守衛室の隣のドアから出た。守衛さんが「ご苦労さん」と、声をかけてくれた。街灯が点々としかついていない道を、松は駅まで走って行った。駅は少し明るかった。松は切符を買って、いつもとは反対方向の電車に乗った。

四十分かけて、徳永さんの住まいの最寄駅に着いた。電車から降りたところでまた電話してみたが、やはりかからない。いったいいつまで同じ場所で飲んでいるのだろう?メールを見たなら連絡ぐらいよこしてもよさそうなものなのに。




 駅から出た後、住所だけではどっちの方向に行っていいかわからなかった。幸い交番に灯りがついていたので、そこで徳永さんのアパートの場所を確認させてもらった。それから、タクシーに乗った。




 タクシーは十分ほどで徳永さんのアパートの近くに着いたが、「サンルート〇〇」という名前のアパートがなかなか見つからなかったので、「お客さん降りて探してもらえませんか」と言われそうになった。こんな暗い中、知らない町で一人ぼっちにされたくなかったので、見つかるまでしつこくタクシーの中から運転手にその辺を探してもらった。だいぶタクシー代がかかってしまったが、これって経費でおちるのだろうか…と思いながらお金を払って、松はタクシーを降りた。




 徳永さんのアパートは、田んぼの真ん中に不自然にボンと立ってある普通の住宅をアパートに改装したような家だったが、最近改築したばかりのようで外観は綺麗だった。背の高い徳永さんが暮らすには、とても小さな部屋に感じられた。彼の部屋は一階で、明かりは消えていた。まだ帰ってないかな…と思いながら、ピンポンを押した。反応なし。次にドアを叩いてみたが、こちらも反応なし。まだ帰っていないようだ。しばらく待って、再び携帯に電話をした。やはり出ない。




 こんな暗い中で待っているのは怖かったので、月明かりのでている玄関先の踏み段に腰を下ろして、座り込んだ。コンクリートが冷たくてお尻が冷えそうだった。晴れた空に雲一つない夜だった。ポツポツとついた街灯が道路や住宅の屋根を照らしている。夜気は冷たかった。松はなんで自分はこんなところに居ているのだろうと思った。なんでこんな場所で月を眺めながら、大嫌いなあの人に忘れ物を届けに来るハメになっちゃったんだろうかと思った。疲れを全身にどっと感じた。彼女は、じわっとあがってくる涙をこらえながら、両膝に顔をうずめて深いため息をついた。




 二十分ほどその体勢でじっとしていたが、突然後ろのドアがガチャリと空いたので、松は思わず振り返った。徳永さんの隣の部屋の住人が、ドアを開けて松を見下ろしていた。若い奥さん風の人だった。




「ここで何されているんですか?」奥さんがたずねてきた。「どなたか待ってらっしゃるんですか?」


「あのー、隣に徳永さんって人住んでいますよね?」松は立ち上がってお尻をはたいた。「わたし、彼の会社の者で、忘れ物を届けに来たんですけどまだ帰ってきていないみたいで…」


「ああ、徳永さんね」そう言って彼女はちらっと隣の家の窓を見た。「いつも帰りが遅いみたいよ。うちの主人が帰ってくるの毎日十時か十一時頃だけど、その時間でもいつも電気消えているから」と言って彼女は時計を見てみた。「この時間なら、まだまだ帰ってこないかもねぇ」




 そうなのか。どうしよう…松は途方に暮れそうだった。アパートの玄関の目の前にチケットとパスポートを置いて帰ってやろうか。




「よかったらウチの中に入って待ちます?」と、困っている松にそう言った。「わたしも主人が帰ってくるまで起きて待っていなきゃならないので」




 松は、いいのだろかと思いつつも、かなり寒くなって来たので、ご厚意に甘えることにした。夜の十時に突然やってきた知らない人間を家に入れてくれるなんて、何ていい人だろうかと思った。




「この辺は寂しいからねー。静かというか、物騒というか。主人が帰ってくるまでなんかおっかなくって。誰かに居てもらえる方が安心なのよ」


 彼女はそう言って、ソファーのある部屋に通してくれた。赤ちゃんがベビーベッドの中ですやすや寝息をたてていた。




「忘れ物って、何か急いで渡さなきゃならないものなんですか?」彼女が言った。


「はい、明日搭乗の航空チケットとパスポートなんですけど、今日は渡しそびれて、そのまま、外出して会食に行かれてしまって」


「パスポートとチケットじゃ、すごく大事なものよねぇ。会社ってここから近いの?」


「電車で〇〇駅から四十分ぐらいです」


「結構遠いのね。あなたのおうちは?」


「△△という駅からバスで十分ぐらいです」


「すごく遠いじゃない!ここからなら一時間半以上電車でかかるんじゃない?帰り、大丈夫?」彼女は驚いて言った。


「電車で帰れるところまで帰って、そこからタクシーで帰りますから」


「徳永さんも、携帯ぐらいちゃんと見ればいいのにね。電話一本くれたら事は早くすむのに。ここまで来るの大変だったでしょう」


「いえ、そんなことは…」




 と、そこまで言ったその時、彼女が出してくれた暖かい、いい香りのするハーブティーの香りが鼻の中からはいってきた。冷えた体と緊張した神経が一気に癒される強い香りだった。ぐっと胸に来るものがあった。



 とても心地のいい、懐かしい香りだった。その匂いの心地よさに、思わず涙が出てしまった。いったん堰を切った涙は後から後からとどめなく流れ落ちた。涙がながれている間、何でこんな目に遭うのだろうと、呟いていた。ここまで忘れ物を届けに来たことが苦なのではない。そうではなく、何の罰で、自分を侮辱した徳永さんのために、ここまでしなくちゃならないのかと、切なく感じたのだ。





「あっすいません」松はカップを置いて思わず流れてしまった涙をふいた。「ハーブティーがあんまりにもいい香りで」


「それ、ストレス解消によく効くお茶なの」彼女は言った。「お代わり欲しかったら言ってね。しかし、徳永さんも罪ねぇこんな若い女の子を泣かしてさ」


「別にそんな意味じゃないんです」松は勘違いされたと思った。「ここの場所、なかなか見つけられなくって、大変だったから、それでつい」


「徳永さんって、会社でどんな感じ?」と、彼女は松の気分を紛らわそうと話しかけた。「人気者、それとも」


「あー人気者だと思います。女の人にしょっちゅう囲まれているし、英語もできてエリートで背も高くて、顔もよくて」




彼女は目をぱちくりさせていた。




「へぇーあの徳永さんが、女の人にモテるの?」と言って、ケラケラ笑った。「信じられないなぁ。家にいるときはぼーっとしてて、男前だなんて思った事ないけど」


「えっそうなんですか?」


「会社の人に言うのはなんだけど」彼女は言った。「休みの日は、高校の体育の授業で着るような名前の入ったジャージを着てね、縁側に座って、おじいさんみたいに、ぼーっと何時間でも座っているのよ」


「そうなんですか。想像できない」


「とてもいい人なんだけどね」彼女は言った。「わたしが予定日より二週間も早く破水しちゃって、その時主人もいなくて大変だったとき、車で病院まで連れていってくれて、赤ちゃんが生まれるまで、外で待っててくれたことがあるの。本当に気のつく、優しい人なんだけど、道の真ん中をパジャマで走ってたって平気な人なのよね。今はすっきりしていて年相応見えるけど、ここに引っ越してきた当初は、顔中ヒゲだらけで何者かわからず、主人とふたりで隣に熊が引っ越してきたのかと言っていた程よ」


「ヒゲ面だったんですか?」


「ヒゲだけじゃなくて、頭もぼさぼさでねぇ、散髪してヒゲそって、やっと人間だったんだなーって分かったぐらい」


「はぁ」


「よく忘れ物をするしね」


「やっぱりそうなんですか?」


「あんなにぼーっとしていて結構、人使い荒いのよ。何度かわたしが忘れ物を駅まで車で届けたこともあるの。なんでわたしがって思っても、あのにっこりスマイルでありがとうって言われると、怒るに怒れないのよねえ。でも、本当に、ぼーっとしているわ」




 その時、玄関のドアが開いて、この家の主人が帰って来た。彼女は夫を出迎えて、居間のソファーに座っている客の説明をした。




「徳永さんに忘れ物を届けに来た会社の人なの?」と言って、彼は笑った。「相変わらず徳永さんは忘れ物が多いなあ!」


「本当に、明日の飛行機のチケットを忘れるなんて徳永さんらしいわねえ」


「なんなら預かってあげようか」主人が言った。「あなたも早く家に帰らないと電車なくなっちゃうじゃないの。××駅までいったら、今ならまだ電車が沢山走っているし、車で送ってあげるよ」


「イエ、わたしはタクシーで帰りますので」


「徳永さんにもう一度電話をかけてみ。それでつながらなかったら、預かっておいてあげるよ。ドアノブのところに、ウチが忘れ物預かっている目印をつけておくからさ、そしたら帰ってきたら、彼、ウチにとりに来るから」




 松は、どうしようかと思ったけど、このまま居座り続けたらこの家の人にも迷惑だと思った。言われた通りに再び徳永さんの携帯に電話をかけてみた。が、やはりつながらなかった。時計を見たらもう十一時前だった。




「では、恐れ入りますが、お願いできますか」


「いいわよ」と、彼女が言った。




 松はバッグから徳永さんの航空チケットとパスポートを取り出して、彼女に渡した。




「すいません、ご迷惑をかけて。宜しくお願いします」



 知らない人にこんな大事な物を渡すのはどうかと最後まで迷ったが、そうするしか道がないように思えて、松はこの人達の厚意に甘えることにした。




 主人は背広からジャージに着替えると、一休みもせず、車のキーを持って外に出て車を出しに行った。




「気を付けてね」




 妻が見送りに出た。松は主人の車の助手席に乗りこんだ。夜中だったので、駅まですぐだった。松は駅で降りると、礼を何度も言って、その場を後にした。ホームで電車を待った。幸い電車はまだ何本か走っていた。待っている間に、航空チケットとパスポートを隣家に預けてきたことを、徳永さんの携帯にメールしておいた。そして、その日はもう電話はしなかったが、翌日の朝、携帯を確認すると、



「チケットとパスポートをとどけてくれてありがとう。昨日はすいませんでした」




と、徳永さんからメールが入っていた。松は、メールだけ読んで、返事はしなかった。



つづく


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