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3.隣人の本性?

3.隣人の本性?




 英会話教室のその日のテーマは、「日本の印象、外国の印象について」だった。



 津山さんが当番の日で、津山さんは、和製英語と実際の英語の違いについて、スピーチした。さすが八百点の実力の持ち主だけであって、準備した原稿はキレイな英作文になっていて、英単語の羅列の自分の文章とは大違いと思った。




 津山さんは、例えばカステラはポルトガルの宣教師がもたらしたものだとか、お米はライスと発音すると、英語圏の人には「シラミ」を連想させるだとか、そんな話をした。



「米は、ライスじゃなくて、ゥらイスっていう発音になる。庭で水やりに使うホースは、ホーズって言う方が近い。アメリカのホームセンターで、ホース下さいっと頼んだら、馬が欲しいのかって真面目に聞きかえされた人がいました。このように、英語からやって来た言葉でも、日本では発音が変化して使われている場合があります」



「そう言えば、日本では、チェルシーという名前は、アメリカでは女性の名前だけど日本ではあるお菓子を思い浮かぶわよね」と、桐子が言った。



「お菓子?」とチェルシーさんは言った。


「ハイ、チェルシーっていう商標のアメがありまして、それはもう日本では、ロングベストセラー商品のお菓子なんです」


 チェルシーさんがどんなお菓子なの?と言うので、桐子は、今度チェルシーさんにそのお菓子を持ってきますと約束していた。




 同じ言葉でも読み方が違うという話に、松は不機嫌になった。自分が昔、ハナゲと読み間違えられた、いや、嫌がらせをするためにわざと読み間違えた状態であだ名にされたことを思い出したからだ。松はそのことを今日の今日まで忘れていたのに、よりによって、あの大田原君のソックリさんのお陰で、過去の忌まわしい記憶がよみがえってしまったのだった。




 わたしの名前は“home of flower”であって、“nose hair”ではない!



 しかしまあ、日本に珍名多しと言えど、花家をハナゲと呼ぶ人が一体どのぐらいあるのであろうか。帰国子女の三十歳の徳永さんが、人生の中で、ハナゲさんという人と巡り逢う確率を考えるとなんという運の悪い偶然なのだろうかと松は思った。




「それで?」と、菓子屋の店先でチェルシーの箱を片手に桐子が言った。「それが理由で、徳永さんのことが苦手になっちゃったの」



 徳永さんがやってきた翌日、松は上司のトクミツ氏に呼ばれた。トクミツ氏は、隣の島に引っ越してきた徳永さんは、この場所を、ただ単に間借りしに来たのではなく、親会社のニューヨーク支社に行くまで、一時的に我が社に期間限定で出向してきた人なのだ、その間、世話を宜しく頼むよと松に言い渡した。




「世話と申しますと?」


「実質的に仕事をサポートする必要はないが、経費の申請とか、旅費の受け渡しとか、ああそうそう、彼がいない間にかかってくる電話とかはとってあげてね」


「電話って…」松はいやーな予感を感じた。


「徳永君の取引先は殆ど、外国人だそうだ」トクミツ氏は言った。「ま、外国人からの電話なら、花家君ならいい英語の勉強になるんじゃないかな」


「・・・・・・」




 松は昼間のトクミツ氏からの話をそのまま桐子に話した。



「徳永さんは午後からずーっといなかったもんだから、今日は八回もあたしが飛んで行って国際電話をとってあげたのよ」松はブチブチと文句をつける。



「八回も外国からかかってきたの?」回数を数えているとはたいしたものだと桐子はカンシンした。




 松は、当初、英語の電話ぐらい簡単に聞き取れると思っていた。週二回、一回二時間近くも英語を習っているんだから、聞き取れないわけがない、と思っていた。ところが、



“May I have your name please?”お名前頂戴できますか。



と、お決まりの言葉を何度言ってみても、帰ってくる返事はどう聞いても、



“×〇×▲×★×♡☆※×…”にしか聞こえないのだ。



 おそらく英語を喋っているのだろうと思われるが、単語が団子になっているのか、発音が変化しているのか、知らない言葉なのかとにかくよく分からない。後に聞いてみたら、相手はアメリカでもすごく南部地方の訛りのある人だとか、アジア人だったとか、それぞれの出身地の国の言葉が混ざったすごく個性的な英語なのだ。




 あるとき、どう聞いても「ツチヤサン」という言葉しか聞こえない事があった。松が、「ツチヤサンから電話がありました」と、徳永さんにメモを残すと、徳永さんは

「ツチヤサン」っていう知り合いいないんだけど、どこのツチヤサンなの?」と、聞いてくる。



「インドのツチヤサンだそうです」


「インドにツチヤサンっていう知り合いいないんだけどなー」と、徳永さんは考え込む。




 後で聞いたところによると、インドにはツチヤサンという人はおらず、彼らの話す英語の“situation(シチュエーション)“という言葉が「ツチヤサン」に聞こえていたのだ。




 外国からの「生」の英語は、松のうっすらと膜を張りはじめていた、英会話力の小さな自信をあっけなく氷解させてしまった。教室でチェルシー先生や仲間の皆が喋る言葉は理解できるのに、リアルな外国人の喋るベラベラな英語が理解できないのだ。




 松は、それをチェルシー先生に話してみた。



「私達の喋る英語はアメリカ英語だからね」と、言う。いわゆるハリウッドスターが映画で喋る言葉なのだそうだ。一口に英語と言っても、使われている国で全く発音も使い方も違うのだ。イギリス人が理解できない言葉もアメリカ英語にはたくさんあり、その逆もある。英語に限らず、オーストリア人の喋るドイツ語は、ドイツ人には理解できないものらしい。



 そうなのかもしれない。


 日本は、アメリカに比べたら小さな国だけど、九州の最南端の日本語と、東北の昔ながらの訛りのある日本語とは全く違う。地方によって喋り方が違ったり、訛りがあるのはどの国でも同じ。




 英会話教室で英語が聞き取れるようになってきたのは、先生が丁寧に単語と単語を区切って、明確に発音してくれているから。そして、私達が理解できるレベルの会話をしてくれるからなのだ。




 それに少々ミスをしても、チェルシー先生は大きく間違いを指摘しない。「まずは、習うより慣れろ」方式で、間違いを気にせずドンドン喋ってほしいのだろう。






 隣の島の電話を取るのは嫌だったけど、もっと嫌だったのは、徳永さんが松のことをたまに「ハナゲさん」と呼ぶことだった。




 彼に悪気はないらしい。



 松の名札を見てつい「ハナゲ」と読んでしまうのだ。


 彼は外国人の名前を覚えるのは朝飯前なのだが、日本人の名前を覚えるのが苦手なのだそうだ。田川さんのことを、川田さんと言うし、松山さんのことを、松坂さんと呼ぶ。徳永さんにはかつて松と同じ名前の知り合いがいたので、「花家=ハナゲさん」と、彼の頭のなかでは定着してしまっているようなのだ。



 モクモクと仕事中の静かな経理課にやってきて「あのーハナゲさん」と、徳永さんが松のことを呼ぶとき、経理課の連中は顔をあげて「???」という顔になって「ハナゲって誰?」と顔を見合わせている。松はその間顔を真っ赤にさせていた。




「わたしの名前はハナイエなんです!」松は、皆が変に違う名前で覚えないうちに訂正しなきゃと、今度ばかりは必死になって徳永さんに言い続けた。「ハナゲではありません。お願いですから、間違えないでください」




 徳永さんは「ハナゲ」を決して「鼻の中の毛」だという意味で発音していないのは松だって分かっていた。徳永さんは自分の間違いに恐縮して「本当に申し訳ない、つい」と言って、平謝りに謝ったが、徳永さんの印象が悪くなってしまったのはどうしようにもなかった。顔が、徳永さんの顔と姿が、あの(、、)大田原君にそっくりな分、松には彼の間違いが、どうしても許せなかったのである。





 3K徳永さんの噂は、すぐに広まった。女子社員の中で、レオナルド・ディカプリオに次ぐ人気者になった。




 徳永さんは、見た目は大田原君と似ていても中身は違っていた。きりっとした顔立ちをしているのに、案外脇があまい。そんなこと言わない方がいいのに…と言うことをぽろりと口からでてしまって人を怒らせてしまうが、本人はいたって悪気がない。見えないところに目があるような気配りができる大田原君とは大違いだ。その代り、徳永さんには、とても人懐こくて、次々と友達をつくる才能があった。





 まず感情表現が素直だ。笑うとトム・クルーズのようなさわやかな表情を浮かべる。特に外国人との交流が盛んだった。傍から見ていても、見た目は日本人なのだが、脳ミソは外人なのだろうかと思うぐらい、外国人との方が話がはずんでいるようだった。本人曰く「英語を使った方が、感情や物事を説明する方がやりやすい」と言うぐらいである。だから「日本語で日本人と喧嘩になると絶対言い負ける」とも言っていた。




 ある日、たまたまランチタイムに一人だった徳永さんが、近くの席の女子社員達と共に社員食堂でランチを一緒にした。「英語に堪能な徳永さん」と言うふれこみで「どの位喋れるんですか?」という話の流れから、ランチタイムの即席英会話講座が始まった。「徳永さんの英語はとても聞き取りやすくて、教え方がウマイ!」という話がたちまちに広がり、女子社員による「徳永さんとランチをする英会話上達講座の会」という会が早速に立ちあげられ、連日予約がつくほど超人気講座になってしまった。





 超格安の社内英会話講座にも来ない連中が、徳永さんの英会話講座に行きたがるなんて魂胆がミエミエだ、と松は思った。



 徳永さんが3Kでなければ誰が行くもんか、と松は思っていた。ところが、その徳永さんと共にする英会話ランチ講座に、津山さんがやってきた。






「津山さんも、ミーハーなんですね」松は嫌味混じりに言った。


「そんなわけないでしょ」津山さんは真面目だった。「後一か月で私達の英会話教室もテストじゃない。教室の外で喋れる機会あまりないし、なるべく喋れる機会があるなら喋っておこうとおもってさ。徳永君とならタダだし、気兼ねないし」




 そうだった。後一か月で英会話講座は終わりで、例の最終テストが近づいていた。



 松は自分の英語力に自信が持てないでいた。チェルシー先生は分かりやすい発音で丁寧に教えてくれる。だけど、テレビから流れてくる英語や、徳永さんの取引き先の外国人の話す英語は、聞き取れない事が多かった。




「ショウさんも徳永君と一緒にランチいかない?」津山さんが言った。


「いえ、わたしは」松は断った。なるべく仕事以外で徳永さんとは関わり合いたくなかった。




 徳永さんには悪いが、徳永さんはどういうわけか、松と、くだけた話しをする機会が増えると「ハナイエ」を「ハナゲ」と言い間違える確率が高くなるようなのだ。だから松は「徳永さんとの英会話ランチ」にはあまり参加したくなかった。




 とはいえ、いくら楽天家の徳永さんでも、斜め前に座ってあれこれと用を足してくれる女子社員から、いやに避けられているのに気付いたようで、自分から何度も続けて誘ってくるようになった。




「ハナイエさん、明日のランチ一緒にいかない?いい店があるんだけど」


「あいにく明日は友達と約束がありまして、すみません」と、松は丁寧に断った。


 が、若い女性に断られたことのない徳永さんは、諦めずに何度も誘ってくる。あるときなど、桐子経由でランチのお誘いが来た。




「ねえ、徳永さんと一緒に英会話ランチに行かない?」


「いやあよ、徳永さんと一緒にランチしたくないもん」と、松は頑張る。


「あたしひとりじゃ行きにくいし一緒に行ってよ」と、桐子がどうしてもというので一度だけ行くことにした。




 松はその時は、一度きりだし楽しくランチをしようと思っていた。ところがうかつにも徳永さんは松のことを「ハナゲさん」と呼んでしまったのである。




「あんな失礼な人知らない!」怒り心頭で松は言った。


「そう?今日はずーっと松の方ばかり向いて喋っていたじゃない。ずいぶん気を遣っているなぁって思って、だから、あたしてっきり…」と、桐子が言うのを、松はさえぎった。


「聞いたでしょ?あの人わたしのことハナゲって言ったのよ!今後、絶対、徳永さんとは二度と喋らないから」


「子供みたいなこと言って~徳永さんの秘書しているんだったら、喋らない訳にはいかないでしょうが」桐子がやれやれと言った。「徳永さんも人の名前をいつまででも間違えるなんて失礼だけど、ショウも大目に見て少しは我慢強く間違いが治るのを待ってあげなさいよ」




 せっかくのランチタイムも無駄になり、翌日から松の態度がさらに硬化してしまったので、さすがの徳永さんも落ち込んでいるようだった。人の名前を言い間違えるのは失礼なことだ。絶対に間違いをそのままにしておくことは許さない。だけど松は、やたらムキになって徳永さんを敬遠しているな、と、自分でも気が付いていた。松は二メートル先に座っている大田原君そっくりの徳永さんの気落ちした姿を見るにつけ、原因は自分であるにもかかわらず、さすがに気の毒だなあと他人事のように思っていた。





 そんな状態が続いたある日、就業時間が終わりそうな夕方、出張中の徳永さんから電話があった。




「もしもし、えっと、ハナイエさん?今空港に到着したところなんだけど、何か伝言とか急ぎの用事ないかな」とても疲れた声をしていた。背後から空港のアナウンスが聞こえてくる。




「お疲れ様です。電話も伝言も特に急ぎの用事はありません」松は徳永さんの机の上の書類やメモを見ながら言った。


「そう。じゃ、明日の午前中の本社の会議に出てからそっちに帰りますので、何かあったら携帯に電話を下さい」


「分かりました」




 松が電話をおいて数分後にまた電話が鳴った。こんな終業時刻直前にかかってくるなんて、誰だろうと思いながら電話をとる。予感はあたった。



“×〇▲▽☆※*◎△●♡❦❤…”



 この喋り方は、インドのスワニーさんに違いない。松は思わず顔をしかめずにはいられなかった。




 スワニーさんはお喋りだ。いや、スワニーさんに限らずインド人の人は総じてお喋りで押しの強い人が多いと思う。商魂がたくましいとも言う。彼は、インド英語?で立て板に水の如くまくしたてていたが、松には八分の一ぐらいしか理解できなかった。



 その日のスワニーさんは、「ミスター・トクナガは出張中でおりません」と言っているのに、切羽詰った調子で喋り続けた。何か伝言したいんだけど…といったような感じだったが、松は受話器をぴったり耳につけても、やはり何を言っているのかが分からない。どうやら時間の変更があったので急いで伝えて欲しいと言っているようだが、詳しいことは理解できなかった。下手に聞きとって取り継いだら、間違いの要因(もと)になるので、松はスワニーさんにいつものセリフを繰り返した。




“I’ll let him call you back next morning.”


 明日の朝、電話させるから、と言ってもスワニーさんはそれじゃダメだと一点張り。そう言われても仕方ないので、松はとにかくこっちから電話させるから、と強引に納得させたのか、それとも向こうが諦めたのかとにかく電話を切った。松は、すぐに徳永さんの携帯に電話をかけた。さっきまで話していたので、すぐにつながると思ったが、


「お掛けになった電話は、電波の入っていないところにあるか、電源がはいっておりません」になってしまった。


 おかしいな、地下鉄にでも乗っちゃったんだろうか。と思い、その後何度か電話してみたが同じだった。仕方がないので携帯メールに


「インドのスワニーさんから至急電話を下さいと電話がありました」とメールした。



 松は時計を見た。六時前だ。徳永さんは外人気質が強いからなのか、就業時刻が過ぎると仕事から離れてしまうことが多い。このメールも見てもらえないかもしれない。相変わらず携帯はつながらないし、徳永さんの宿泊先のホテルに電話をしてみようかと思ったが、どこのホテルに泊まっているのか松は知らなかった。徳永さんの仕事の実務をとっている親会社の方に電話をしてホテルの手配をした事務の人に尋ねてみようと試みたのだが、担当者は帰ってしまっていなかった。仕方ない、松は、今日は英会話の日でそれ以上残業したくなかった。できるだけの事はしたのだからもういいだろうと思い、松は席を離れて英会話教室に行った。






翌日の午後、徳永さんが出勤してきた。出張帰りだった。とても暗い顔をしていて、いつもの明るさがなかった。


「おはようございます」と、いつもなら周りに声をかけて着席するのに、ムスっとした表情で席に着くといきなり電話をかけはじめた。



 ベラベラベラベラ…



 相変わらず英語で何か話しているが、その声も喋り方も、機嫌が悪いのがまるわかりだった。徳永さんは、少々のことがあっても普段、めったにめげる様子は見せない。しかし今朝は明らかにヘコんでいて、いつものツヤのある声もナリをひそめていた。松はキュっと胸が苦しくなるのを感じた。ひょっとして…




 機嫌の悪い人に話しかけるのは勇気がいるが、その原因が、昨日の電話に関係するのなら、尋ねずにはいられなかった。




「あの、昨日最後に徳永さんから電話があった後、徳永さんの携帯にメールをしたんですけど、読んでもらえましたか」松の方から話しかけた。「インドのスワニーさんから電話があって。徳永さんにすぐお電話したんですけど繋がらなかったもんで」




「ああーあの後ね」なんかすごく怒った声だった。「地下にはいちゃって電話つながらなかったのかも。メールは今朝読んだよ。すぐにスワニーさんに電話したんだけどね」




「そ、それで、話せましたか?」松はこわごわ尋ねた。


「話せなかったんだ。スワニーさん、ここに電話をした後、なんと携帯を落っことしたらしくて、話すことができなかったんだ」彼は暗い声で言った。


「携帯を失くされたんですか」松は驚いた。


「インドから出張で日本に来ていてね、彼と、ニューヨーク支社長との会議を今朝の十一時に予定していたんだが、九時に変更になったことを伝えたかったそうだ」


「じゃ、会議には…」


「間に合わなかった」と、徳永さんはそっけなく言った。「今日の十一時までスワニーさんと会えなかったから、時間が変わっていたことを知らなくてね。到着した時は打ちあわせは終わっていてさ」と言葉を切って、彼は、深いため息をついた。


「すいません」と、松は謝った。「わたしがもっとちゃんと、スワニーさんの話を聞いていれば…」


「別に、ハナイエさんが謝ることないでしょ。スワニーさんが携帯を落としちゃったたんで、それはそれで仕方のないことだったんだから」




 徳永さんは、相当頭にきているようだったけれど、少しも松を責めず、ただ自分の運の悪さを残念がっているようであったが、それが、松をひどく落ち込ませた。わたしがあの時スワニーさんの言っていることが聞き取れていたら、翌日の会議の変更をメールで知らせてあげることができたはずなのに。




 その日、徳永さんは、ずーっと落ち込んだ様子だった。笑顔の消えた徳永さんの顔がチラチラと視界の中に入る度に、松は何度も自分を責めた。






 半年の英会話講座が終わった。事前に予告されていた通り、テストがあった。外人講師がやってきていくつかの質疑応答をする会話テストだった。レッスンを始める前にもクラス分けの時にも同じテストをした。最初のテストのときは、殆ど「アー、ウー」状態だったが、今回は少し度胸がついてなんとか返事ができるようになっていた。




ところが、結果は半年前とほとんど同じレベルだった。すこしは喋れるようになったかも、と思っていた所もあったのでショックだった。が、実際問題、松は、隣の島にかかってくる英語の電話を理解できない。お決まりの


“May l have your name please?”と、


“I’ll let him call you back.”


の繰り返しで、海の向こうの住人と、殆ど会話することもなかった。






 英会話教室が終わってしまい、津山さんと桐子、支店の山田さんともお別れとなった。松は津山さんにもう会えなくなるのが悲しいと言った。



「あたしね、来年の春には東京に戻るんだけど」津山さんが切り出した。「それまで貿易実務講座をここで担当することになったの。あなた方も参加してみない?営業職、内勤問わず誰でも受けれる初級の講座なんだけど」



 貿易実務だなんて英語と同じぐらい興味がないし、今の仕事にはまるで関係なかった。桐子は今年の年末に退職して、来年は、結婚することになりそうなので無理だと答えた。



「結婚するの?」松は目をまるめた。


「多分ね、来年の春に」



支店の山田さんは、社内試験を受けるつもりでいて、貿易の科目もあるので多分受けることになるだろうと答えた。



「ショウも、貿易講座うけてみれば?」桐子が松に勧めた。「わたしもう少し勤める予定だったら、受けるんだけどね」




 と、言われてもなんだかやる気がでなかった。社内試験だなんて、松は、更に自分には関係ない話だなぁと思った。




 松は返事を先のばした。そのうち貿易講座の申し込みのプリントが部署に回って来た。松は「見ました印」を押して、徳永さんに回した。徳永さんはしばらくそのプリントをみつめていた。




「ハナ…イエさんも、貿易講座受けるの?」徳永さんが松に聞いてきた。


「考え中です」


「受けたらいいんじゃない?時間があればオレも受けた方がいいんだけどね」


「徳永さんは貿易には詳しいと思ってました」と、松は言った。「今更貿易講座なんすか?」


「うーん、全く知らないわけじゃないけど、すごく詳しいかって言われればそうでもないよ」




 貿易実務にすごく詳しい人は社内でも限られていて、そういった人は専門にその仕事をしている。ここの会社の人達は「普通に詳しい」程度で、分からない事があればそういった「専門家に」質問に行ったり、または、業務を委託したりしていた。だから、徳永さんがなんでそこまで深く知る勉強する必要があるのかなあと思ったが、もともと親会社の人なんだから事情が違うのかもしれない。




 その日の夜に、部主催の懇親会があった。松も徳永さんも参加した。


 徳永さんは、この前のスワニーさんとニューヨーク支社長との会議をポカしてしまった以来、いつもの明るさが戻っておらず、この時の飲みも、お酒もすすまないし、いつもの徳永さんらしくなく静かだった。松は、そんな徳永さんを見てやきもきしていた。松は、あの一件を忘れてしまいたかったので、早く徳永さん元気になればいいのに、と思って見ていた。




 徳永さんは一次会だけで帰って行った。隣の営業課の小沢さんという男性が二次会に行かないかと引き留めようとしたが、彼は帰ってしまった。




 小沢さんは、「あいつハートブレイクで、落ち込んでいたから元気づけてやろうと思ったのに」と言っていた。


「ハートブレイクって、徳永さん、失恋でもなさったんですか?」松が言った。


「そ。あいつ、先週ぐらいから元気ないでしょ。離婚なさったんですってさ」


「離婚されたんですか」


「もう何年も仮面夫婦だったらしくて、あいつもずーっと海外で奥さんとは別々に暮らしていて、実質他人みたいな生活だったから、離婚しても同じって言っていたけどね。いざすることになると、落ち込むもんなんだね」




 松は「そうだったんですか、徳永さんも大変だったんですね」と言ったが、なぁんだ、落ち込んでいたのは、例の一件のせいじゃないんだと思うと、ほっとしたような、気が抜けたというは変な気分だった。




「ハナイエちゃんって彼氏いないの?」と、突然小沢さんが言い出した。


「え?ええ、はい」


「徳永君のことはどう思う?」


「どうと言われても…」と松は言ったが、なんだかいやな会話の流れだと思った。


「ハナイエちゃんは徳永君の英会話ランチに参加していないんだってね」


「はあ」と松は言った。


「あいつ、競争率高いと思うよ」



 競争率の高い男、という言葉に松は早速、喋る気をなくした。



「どう、彼のこと」と、小沢さんはつっこんで聞いてきた。「どう思う、いいヤツだと思わない?」



「良い人だとは思いますけど」松は言葉を選んだ。「わたし、人と競争するの得意じゃないんです。誰かが名乗りをあげたら、わたしはいいやって思う方だから」


「ふーん、そう。でも、彼、悪くないでしょ?」小沢さんの、赤いほっぺが可愛くふくらんでいる。


「そうですねえ。目の保養になる人だと思いますけど…」


「けど?」



けどって…何でその先を聞きたがるのだろうと思った。



「けど、徳永君はあまりタイプじゃないと」と、小沢さんはまるで松の言葉を代弁するかのような言い方をした。


「いっいえ、別にそういう意味では」松は、あわてる。


「そう言う意味ではないの?」と、小沢さんは言った。




 小沢さんは松の一挙一動を見逃さないかのように、ジッとこちらを見つめて松の反応を待っているように見えた。どうして小沢さんは、こんなにつっこんでくるんだろう。


 あー、なんなのコレ。いやな空気。



 なんか言わないとよけいに勘違いされるような気まずい間ができそうだった。言い逃れる方法を、あたふたと彼女は探した。




「そういう意味ではないんですけど…でも、でもわたしは」松はテキトーに言った。「わたしは、どっちかって言ったらレオナルド・ディカプリオの方が好みなんで」


「ディカプリオかー」そう言って小沢さんは大笑いをした。「今の女の子は皆、口を揃えてディカプリオって言うよね。ディカプリオの上を行こうと思ったら、そりゃ大変だよ」




 小沢さんがあまりに大口あけて笑うので、まわりに居ていた人達も何事かと、こちらを振り返った。



「声が大きいです、小沢さん」


「いやーごめんごめん、ハナイエちゃんってほんと最高だね」そう言って、小沢さんはクックックッと腹をかかえて笑い続けた。「悪かったね、変なこと言って」


と言って、声をあげて笑うのをやめてくれたが、いつまででも「ディカプリオかー、ナルホド」と言っていつまでもにやにやし続けていた。




 いったい何が最高でそんなににやにや笑わなくちゃならないのか、全くわけがわからない。松は、ディカプリオよりブラット・ピットの方が好みだって言った方がよかったかなと、未だ腹に一物ありそうな小沢さんの顔を眺めながら、そんなことを考えていた。




 松は、小沢さんの言っていることは、お酒の席での戯言だと思っていたが、翌日、小沢さんの顔を見る度に、小沢さんの言っていた事が思い出された。小沢さんと徳永さんは背中合わせに座っていたから、ふたりが何かしゃべっているのを見ると、余計意識した。




 そんな頃、桐子の誕生日をおしゃれな店でランチをしようということで、張り込んだ店に予約して出かけて行ったら、そこで徳永さんを見かけた。徳永さんは若い女性とふたりきりで差し向かいの席でランチをとりながら話していた。




「あの徳永さんと一緒にいる人、営業二課の佐藤さんじゃない?」と、桐子が言った。

佐藤さんは松達の世代より二年上の先輩だった。彼らと席が近くなかったので、話す内容は分からなかった。



「なんか、いい雰囲気ね~」桐子は言った。「佐藤さんも独り身だし、徳永さん、離婚したばっかりだもんね」



 松は、ランチぐらい何さ。と、思った。自分だって徳永さんから何度もランチに誘われたことあるし、そんなこと、大したことじゃあないはずだ…



「そんなに何回も、徳永さんからランチ誘われたことあるの?」桐子が言った。


「うん、全部断ったけど」


 桐子は「そんなにも徳永さんのこと嫌い?」という顔になっていたが、「まぁ、誰でも好みはあるからね」と、理解を示した。




 そうよ、私だって好みがあるもん、と松は心の中で言っていた。



 皆がどう言おうが、わたしは徳永さんみたいな人、好きじゃない。



 レオナルド・ディカプリオを眺めている方がよっぽどいい。



 いや、ディカプリに限らず、ジョニー・デップも好きだったが、とにもかくにも徳永さんは好きじゃない。



 わたしをハナゲという人なんか、絶対に好きになったりしない。



 ああ、なのに、こうも胸がモンモンモンとするのは、なにゆえか。



 さっきから、こちらに背をむけている徳永さんから視線が離せない松は、更に苛々をつのらせた。





 桐子が、何か言いたげな顔になっていたので、松は「何か言いたそうだね」と言ってみた。「そう言えば、あれ以来桐子も徳永さんの英会話ランチによく通っているんだってね」




 「うん」桐子は言った。「せっかく英語習い始めたんだから、続けてやってみようかと思って。徳永さんよくショウのことよく話しているよ。同じ課の美月さんの方がよく行っていて、同じこと言うし。それに、徳永さんのレッスンはやっぱりすごく勉強になるって言ってた。ショウもまた一緒に行こうよ」


「・・・・・・」


「あたし、ショウは、ホントは徳永さんと仲いいと思ってた。だって、徳永さんはショウのことをあだ名つけて呼んでるくらいだから」


「へっ?」松はびっくりして肉を切っているナイフとフォークをとめた。「徳永さんは、わたしのこと何て言っているの」


「えっ、知らないの。松のことをハナゲって呼んでいるよ。あんまりにも徳永さんが皆の前で、松のことをハナゲ、ハナゲっていうもんだから、そーいえばショウ、徳永さんからハナゲって呼ばれて怒っていたのに大丈夫なのかなあって思ってたの。いくら仲良くてもさすがに嫌じゃないのかなって。何でそんな名前つけるのかなって美月さんも不思議がっていた。ハナゲだなんて、いかにも鼻の中の毛みたいだもんね」





「・・・・・・!」





 怒りが限度を超えて、言葉がなくなるとはこのことであろう。




 松は耳の先まで真っ赤になって、食べるのも忘れて、七メートルほど先に座っている徳永さんの背中を白目をむいて凝視した。こちらを向いて座って話している佐藤さんは、笑いながら徳永さんの話に頷いていた。今この瞬間も、徳永さんは、松のことをハナゲと呼んでいるのかと思うと、絶望のあまり気が変になりそうだった。





 美味しくてしゃれた店でのせっかくのランチだったのに、何を食べたかそれ以降あまり記憶がない。松の手はぶるぶる震え続け、お会計をするときも硬貨を何枚か床に落としてしまった。




 部署に戻って席についても怒りは収まるどころか、憤怒は増す一方だった。松は、すぐ目の前にある徳永さんの顔が悪魔に見えてならなかった。松は同じフロアーに居ている人達、いや、この会社の人達全員が、もはや松の事を、ハナゲと呼んでいて、松の顔を見るたびに、鼻の中の毛を想像しているのだろうかと思った。




 怒りのあまり、何も手がつかない。松は、普段は自分の仕事でない郵便物の仕分けをしたり、封筒に住所シールを貼るといった単純作業をもくもくとして、誰とも喋らず徳永さんのことを頭から追い払おうとした。





「ハナイエさん」


話しかけられていることに気が付かず松は、五回ほど呼ばれてやっと顔をあげた。



「はい」


「さっきから呼んでいるのに。これ出張申請書宜しく」



 徳永さんが席を立って目の前で松に書類を差し出していた。松は無言のままその紙を受け取り、内容を確かめた。



「急だけど、明後日から五日間インドに出張することになってね、明日の午前中には総務部から航空チケットが届くはずだから受け取っておいて」と、徳永さんは言った。



「はい」と松は、徳永さんの顔を見ずに低い声で答えた。早く目の前から早く立ち去ってくれ、と思いながら。



「ハナイエさん、聞いているの」徳永さんはイラっとした声をあげた。


「はい、聞こえています」こんな冷たい声を仕事中にだしたことはなかった。周りの人達がこちらを振り返っているのが分かった。その視線が針のように感じられた。隣の席の人も、そのまた隣の席の人も、皆、松のことをハナゲだと思って自分を馬鹿にしているのだろうかと松は涙が出そうになった。




「チケット受け取っておきます」松は言った。


「じゃあ、宜しく」と言って、徳永さんは席に戻って行った。




 彼は、いったい何が気に入らないのだろうかと思っているようだった。松は受け取った書類を目の前にしてぼんやりとした。あがってくる涙をなんとか我慢していた。





 徳永さんに(あざむ)かれていた。




 こみあがってきた悔しさと怒りはおさまらなかった。




 徳永さんはその日はもう話しかけてこなかった。そして、出かけてしまった。外出先から直帰してしまったので、その日は、徳永さんとは顔を合わさずにすんだが、松の怒りは悲しみにかわり、帰る頃には涙がとまらなくなっていた。



つづく

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