2.隣にやってきた人
2.隣にやってきた人
松は、都心のとある倉庫会社にで、事務の仕事をしていた。
倉庫会社といっても、大きな倉庫の片隅にある事務所ではない。一部上場の大倉庫会社出資の、ひ孫か玄孫ぐらいにあたる小規模な関連会社だ。親会社がまわしてくる倉庫管理にまつわる業務、港から入ってくる貨物の荷受けや、備品の販売、掃除や管理の請負をしていて、松はそこで経理を担当をしていた。
就職して二年が経っていた。
ある日上司のトクミツ氏から一枚のプリントを渡された。
「社内での英会話の研修の案内が来ているよ。今回はかなり安いから、いい機会だと思う。受けてみれば」
松はプリントを見てみた。本当だ。本人負担は月々数千円ですむかなりお得なプランだった。しかし松は、ウーンとプリントを見ながらしばらく唸っていた。正直、松は、英語が大嫌いだった。以前、苦手を克服しようと、大枚をはたいて某大手英会話教室に通った事があったが、結局モノにならず挫折感しか残っていなかった。
「本社サイドから費用の負担を三分の一出るし、支店からも半分でるから、本人負担はそう大きくないしね」と、トクミツ氏が続けた。
このような出血大サービスなプランは、前年度の決算が、親会社共々よかったからであろう。昨年も一昨年ももこのような研修プランがあったという話は聞いたことがない。即ち、数年に一度のめったにないチャンスなのである。プリントを見た同期の桐子が松のところにやってきた。英会話の教室申し込んだから、一緒にどうだというのだった。
「だって英会話なんて、仕事で必要だったことないし」松は断る理由を探した。
「桐子は何でまた受けよう思ったの」
「だって、今時、英語ぐらいはなせないとこの先困るかなあと思ってさ」
「・・・・・・」
「道で外人から道をきかれても、普通に答えられるようになりたいし」
そんな理由で英語を習いたいのか。将来のことを考えて、物事を決定していく桐子に松はグウの音もでなかった。
週明けの忙しい月曜日と、木曜日の終業後の六時からが英会話デーになった。
英会話教室は、会社の会議室に外国人教師がやってきてそこで開かれる。通学の手間がはぶけてとても便利だ。生徒が大人数で先生がひとりという構図を想像していたが、行ってみると、先生が一人につき、生徒はたったの四人だった。格安プランの英会話教室だったにも関わらず、週二回、六時からという時間帯が、営業マン達の予定に合わず、申込者は内勤の女子のみで、しかも、期間終了後はテストがあるということで、それを嫌がって参加率が悪かったらしい。むろんテストの点数は上司の目にとまることになる。
「テストがあるの?」松は死にそうな声を出した。
うう~む。テストがあるなら、参加しなかったかもしれない…と思ったところで後の祭りだった。松は、重い足をひきずるようにして、会議室に向かった。
部屋に入ると、色白で、金髪青目の肉付きのよい大柄な美人の先生に出迎えられた。彼女は、三十歳前後の、チェルシーさんと言う名の米国人女性だった。生徒は松と桐子、隣の支店から英語教室の日だけ通いでやってくる山田さんという新入社員の女の子に、津山さんという年上の女性だった。
津山さんは、親会社から出向してきたバリバリの営業畑の女性なのだが、今は、貿易部門の指導に当たるために、各地に散在する関連会社を半年単位で転々と移動しているらしい。きりっとした面差しの、スーツの似合う、いかにも「仕事できます」と言った雰囲気がにじみ出ている。解せないのがなぜ彼女が、松達のような英語素人の集まる初心者クラスに混ざっているかということだった。
「英会話全然ダメなの」津山さんは言う。そんなはずない、貿易部門で人を指導するぐらいなんだから英語ぐらい朝飯前じゃないの、と松は聞いてみた。
「英語と英会話って違うのよねー。メールや文書のやりとりならなんとでもなるけど、発音をまともに勉強したことないから、いくら八年前にTOEICのテストが800点あったところで…」
残りの三人は目をまるめ、非難をこめて言った。
「TOEICで800点も取れる人が、英会話ができないなんてないでしょう!」
「いやいやいや、そう言った人も世の中にいるものよ~。やらないと英語なんて忘れる物なの。だから私は、いつまでたっても海外駐在できずに、こうやって国内をドサ回りして指導教官のような仕事をずっと続けているのよね」
こういったメンツで英語教室が始まった。最初は簡単な自己紹介から始まり、挨拶の仕方など日常的に使う会話の基礎パターンなどを習った。初心者のレベルということもあって、先生には、何でも聞き直すこともできたし、親切に繰り返し教えてくれる。四人しかいない、しかも若い女ばかりという空間が何とも気持ちよくて、そのうち週二回の英会話教室がだんだんと楽しくなってきた。
三度目ぐらいの授業で、「次回から課題を出すので、順番にテーマに従ってスピーチをしてもらいましょう」とチェルシー先生が言い出した。
スピーチと聞いて一気にやる気が失せた。
作文を書けば、英語力の低さがあからさまに分かってしまう。新入社員の山田さんは今年短大を卒業したばかりの、初々しい新入社員だったが、英文学科出身で松よりも英語に関してはずっと達者だった。津山さんは、何と言ってもTOEIC800点の持ち主だったし、そんな彼女達の前で間違いだらけの英作文を披露するのは躊躇された。
「テーマはそうねえ、子供の頃の思い出なんかがいいかしらね」と、チェルシーさんが言った。
そんなあいまいなテーマじゃ書きにくいと生徒から不満が出た。それで、当時ちょうど、二月ということもあって、子供の時のバレンタインデーの思い出を書けということになった。くじ引きで、一番バッターは山田さんだった。
「バレンタインって、チョコレートの話でもしろってことかなあ」と、山田さんは言った。
バレンタインにチョコなど渡したことのない松は、拷問のような課題だなあと、自分に当たらなくてよかったとほっとしていた。
次の授業で、山田さんは、子供の頃に初めて作ったチョコレート菓子の話を英語でスピーチした。作ってきた原稿を、手にして読み始めた。チョコレート菓子の材料を買いに行って、ケーキを作って、ラッピングして、と、英文をつないでゆぐ。
「So?」言葉を止めてしまった山田さんに、結論を聞こうとチェルシーさんを始め、皆が耳をそばだてた。
“I gave the boy the chocolate.“ …と、山田さんはちょっと赤くなりながら言った。
チェルシーさんは、いきなり“the boy”が出てきて
???といった感じだったようだ。
“…the boy whom I like”と、山田さんは小さな声で言った。
日本人三人は、赤くなった顔の山田さんに、きゃあきゃあと言いあった。
チェルシーさんは、なぜ松達がきゃあきゃあ言っているのか分からないと言った感じだ。
「日本では、バレンタインの日は、好きな男性に女の子からチョコレートを上がる習慣がありまして」と、津山さんがスマートに説明する。「それは、女性からの愛の告白なんです」
日本の滞在経験の浅いチェルシーさんは、それは興味深い習慣ね!と驚いていた。
チェルシーさんは「米国では、バレンタインとは、男女問わず、お世話になった人にカードやプレゼントを渡すための日なのよ」だと説明した。
チェルシーさんは、山田さんが正直にチョコレートをプレゼントした時の気持ちを正直に言ってごらんと促した。
「その時、どんな気持ちだった?」
“I was nervous!”と、山田さんは言った。
そして“It changed to a good feeling.”
いい気分って…松は、“Why?”と言った。
山田さんはちょっと考えてから、
“Because I like him.”彼のことが好きだから、と、答えた。
チェルシーさんは事情が理解できて、笑顔で頷いていた。山田さんも赤くなっていたが、笑っていた。皆にこにこしていたが、松だけはどういうわけか、違う意味で赤くなっていた。
チェルシーさんはこの話題が気に入ったらしい。
彼女は、「次の課題は、プレゼントの思い出にしましょう」と言った。「プレゼントにまつわる思い出をスピーチしてください。なぜプレゼントをしようとしたのか、誰に渡したのか、その時どんな気持ちだったのかをね、ショウさん」
更に難しい課題が出てしまった。プレゼントなんて誰かにしたことの覚えがない、と松は思った。山田さんの感動的なプレゼントの話の後で、サマになるような話などできるであろうか。
次の授業が来た。松はたどたどしくスピーチを始めた。
クリスマスの日に、友達の付添いで、手作りのクリスマスプレゼントを渡しに行くのに付き添った時の事、プレゼントをあげる亜衣ちゃんよりも、自分の方が緊張してしまって、真っ赤になった時の事を話した。
話し終わった後に、
“Why were you ashamed?”なんで恥ずかしかったの?
と、チェルシーさんがたずねた。
“Because…because… because I respected her.…and…”
そ…それはですね、それは、それは…
亜衣ちゃんの勇気に感服していたことは確かだった。なぜあんなに赤くなったのだろうか。松は適当な言葉が思い浮かばなくて、続きを言うことができなかった。彼女は思いつくままの単語を並べた。
“…I wanted courage like her…because…her courage was wonderful.”
自分にはできないと思った事、自分がするにはもっと勇気が必要だったこと、亜衣ちゃんの勇気が素晴らしかったこと。松はそのことを思い出していた。
この時チェルシー先生は、「いい話ね」と言ったが、なぜこれがいい話だったのか松には分からなかった。素敵だったのは亜衣ちゃんの方。勇気があったのは、プレゼントを渡したのは亜衣ちゃんであって、私ではなかった。
“I don’t have the experience that gave a boy a present.”
と、松は言った。そして、
“I could not be the same as her.”と、付け加えた。
男の子にプレゼントしたことがなくって、その上、亜衣ちゃんのようにも振舞えなかった。それが心残りな思い出として、今なお、松の心に深く刻まれていた。
その日の帰り道、バレンタインが間近だったので、桐子が彼氏にチョコを買いに行かなきゃならないからつきあってくれと言ってきた。桐子は店先で松も何か買わないかと誘ったが、松はプレゼントをする予定はないからいいと断った。買い物が終わって店から駅に向かう途中、桐子は「さっき、英会話の時に男の子にプレゼントしたことないって言っていたけど、本当?」とたずねてきた。
松は、プレゼントをしたことはない、片想いの男の子にプレゼントしてくれと言った事はあるけどと答えた。
「何ソレ?」
「中学の卒業式の日にね、違うクラスの好きな男の子に学ランのボタンをくれと頼んだことがある」と、松は言った。
「へぇー、それでもらえたの?」と、桐子。
「もらえたよ。予備のボタンを」と、松は答えた。
「予備ボタン??」
「うん、前日に電話をしてね。明日の卒業式の日に学ランのボタンを下さいってたのんだんだー。そしたらね、ポケットからハイってだしてきたやつをくれたの」と、松は言った。「学ランのボタンを下さいって言えば、どういう意味か分かりそうなもんだと思うんだ。だからね、第二でなくともそのほかのボタンをくれると期待していたんだけど、もらえたのが予備ボタンだったの」
桐子は、ちょっと驚いたような顔になって、へぇーそんなことあったんだ。と言った。
「つまり、振られたってことよね」
と、松は何と言って分からず戸惑っている桐子の代わりに言った。
「だから、わたしもその子のことは忘れちゃった。せっかくのボタンもすぐにどっかにいっちゃったし、わたしも高校に入ってその子に会わなくなったし」
桐子は、青春の甘酸っぱい一ページよね、と言って慰めてくれた。そしてその話はそれで終わりかと思ったが、彼女は続けて聞いてきた。
「それでさ、松は、その後、高校とかで好きな人はできなかったの」
「高校でかぁ」と、松は言った。「高校生の頃は、憧れていた人はいたけど、告白したり付き合いたいなって思わなかったかな」
「なんで?」桐子は分からないようだった。「なんで付き合いたいと思わなかったの」
桐子がチョコレートを渡そうとしているのは、もう長年付き合っている彼氏で、中学時代からの仲らしい。喧嘩したり仲直りしたりと、年季の入ったカップルで、今では「空気のような存在」とも言っている。好きな人と恋人同士になりたくないのかなあ、と彼女は思ったのだろう。
「分かんない」松は言った。
「人気のある人だったし、わたしの友達にもその男子のことを、好きなコがいたりして、なんか面倒くさいなあって」
「そりゃあメンドクサイこともあるかもしれないけど」桐子はなんで?という顔を浮かべていた。「でもさ、もっと仲良くなりたいって思ったりしない?」
「もっと仲良くなりたいなあって気持ちはなくはなかったけど」松は答えた。「意識しちゃうとどうも恥ずかしくなって、無理かなっていう気分もあったし。やっぱり、苦労して告白して、その後どうなるんだろうっていう気持だったし」
「そっか」
と、桐子は松の言葉というよりその言葉の裏から、ちょっと何か納得したようであった。
「ひょっとして、その予備ボタン君のことが原因で遠慮しちゃったとか?」
「その子と予備ボタン君とは全然関係ないけど」と、松は答えた。「ふたりは全然違う学校の子だよ」
「だからね、ショウはさ、せっかく勇気を出して告白したのに、予備ボタンしかもらえなかった経験があったもんで、また同じように傷つくんじゃなかいかと思ったんじゃないの。だから好きな人に何も言えなくなっちゃたんじゃないの」と、桐子は言った。
年度末前だというのに、社内で座席のレイアウト変更がおこなわれることになった。週末を利用して引っ越しが行われた。
松の居ていた経理課は、一番端っこの窓際で、これまで高い仕切りに囲まれていたが、今度の経理課はフロアーのど真ん中で、しかも賑やかな営業課に挟まれる形になった。そして、仕切りは経費削減のため、取り払われることになり、隣の島の人達としょっちゅう顔をあわせることになった。
経理課はもともと静かな部署だった。電話も少ないし、話をする時も落ち着いていて、帳表類やパソコンの画面を見て、黙々と仕事をする感じだった。それが、に(・)ぎ(・)やかましい(・・・・・)営業課の間にポンと挟み込まれたものだから、ガラリと環境が変わった。電話、話声、やってくるお客さん…と、まあ人の出入りが激しいこと。そのうち、手が足りずに困っている隣の島の電話を取りに行ったり、お客さんの応対をするようになったりと、雑用仕事が増えるようになった。以前より、自分の仕事に集中できる時間が少なくなり、残業時間が増えることが多くなった。
あるとき、予想以上に残業が長引いて英会話教室に行くことが出来ないことが続いた。七時半ごろ、今日も英会話教室にいけなかったなーと残念に思っていたところに、津山さんがひょっこり顔を表した。
「ショウさんたら、今日もこなかったわねー」津山さんが言う。
「あー、行きたかったんですけど、終わらなくて」松は机の上の書類の山を片づけながら言った。「これとこれ、今日中に入力しとかなくちゃいけなくて。津山さんはもう帰りなんですか?」
「そうなんだけど」と言って、津山さんはそう言いながら、首を左右に振った。「ところで、この辺に、徳永君って人いない?」
「徳永さん?どこの徳永さんですか」
「親会社の上海支店から来た人で、わたしの同期なんだけど、今日からここのフロアーに間借りすることになったって聞いて挨拶にきてみたの」
松は、最近この辺りはレイアウトがかわったばかりで、どこにどの部署が入って来たのか、今まで一階下のフロアーの端っこにいた自分には分からないと答えた。
「知らない人ばっかりで」と、松は言った。
「ああ、そう言えば、隣のこの島、机がふたつしかないんですけど、誰も来てないんですよね。今日は業者の人が来て、電話とパソコンだけつないで帰って行きましたけど。ひょっとしてここが徳永さんって方の席なのかもしれないですね」と、松は自分の部署に、一メートルほどの幅をひとつあけて、据え付けられてある机がぽつんとふたつしかない島を指して言った。「で、その徳永さんって人、上海支店から来たんですか」
「二年ほど上海に駐在に出てて、本当はそのままニューヨーク支社に赴任する予定だったのが、前任者の都合があって、半年先にのびたんですって。それで、ニューヨークに行くまでの間、ここを間借りすることになったみたい」
「どんな人なんですか」と、松は聞いてみた。
「帰国子女でさ、英語はペラペラよ」
「へぇーそうなんですか」松は、ちょっと興味を持った。「上海の次はニューヨークなんて、きっと優秀なんでしょうねえ」
「まあ、要領はいいんだろうね」津山さんは言った。「優秀かどうか知らないけど、もともと海外育ちだから、日本人といているより外人と話している方が性に合っているのかもしんない。ああきっと、外国からの電話がいっぱいかかってくると思うよ。隣なら、とってあげないといけなくなるかも」
「えー、困るなあもう」
松は本当にこまったと思った。でも、ニューヨークや上海からかかってくる電話を取るなんて、ちょっとドキドキするなあと思った。
「今日は遅いし、明日また出直すか」津山さんは言った。
「明日、徳永さんって人に会ったら、津山さんが来たって話しておきましょうか」松は言った。
「うん、お願い」
「それで、徳永さんって、どんな感じの人なんですか」
「徳永君はね、イケメンよ」
と、津山さんは即答した。
「カッコいいよ~。目の保養になるような男だよ」と言って、津山さんは帰って行った。
翌日、朝出勤してくると昨日まで空だった隣の席に、一人の男性が座っていた。この人が、昨日津山さんが言っていた徳永さんなのかなあと思いながら、松は自分の席に座った。
その男性は、電話を片手に、日本語ではない何かをブツブツ話していた。すごく流暢というか、英語なのか中国語なのかハッキリと聞き取れないような未知の言語のように感じられたが、多分英語なのだろうと思った。
その人の電話が終わらないうちに、始業時刻になった。その人は電話を終えると、ふぅーっと深呼吸をして、立ち上がってこちらに近づいてきた。
「あのーすいません。はじめまして」と彼は言った。「わたし、徳永と言います。しばらく横の島にいる予定です。宜しくお願いします」
松も立ち上がって挨拶をしようとした。そして、その時初めてその相手の人の顔を見た。そして驚いた。まるで大田原君がそこにいるかのようなイケメンが目の前に立っているのである!
「花家松と言います」と、松はドキドキしながら自己紹介した。「こちらこそ宜しくお願いします」
「ハナイエさん?」と徳永さんは言った。「どんな字を書くのですか」
松は、自分の名札を指し示した。「フラワーの花と、ホームの家です」
「へぇ」と、徳永さんは言った。
そのへぇと言う不思議そうな表情も、大田原君を思い起こさせるものがあった。松は仕事中に不覚にもキュンとしてしまいそうだった。
徳永さんは言った。「花に家で、ハナイエさんですか」
「はい、珍しい名前だと思いますが」
「ハナゲさんではないんですね」と、徳永さん唐突に言った。
「えっ?」
「これと同じ花家さんと書いて、ハナゲさんっていう名前の人を知っているんですけど、ハナイエさんなんですね」と、徳永さんは言った。
「ええ…ハナイエなんですが」
「ハナイエさんか…」と言って、徳永さんは何度も口の中で繰り返していた。
「ハナゲさんじゃないのか」と独り言のように言った。「ハナゲさんじゃないや、ハナイエさん、これから色々、ご迷惑かけるかもしれませんが宜しくお願い致します」
「こちらこそ…お願いいたします」と、答えた松の声はどもっていた。
その日は英会話講座の日だった。六時前頃、桐子が松の部署の前を通って、教室に向かうところを、珍しく松の席に立ち寄った。
「今日は行けそう?」桐子がたずねた。
「うん、いけそうだよ。どうしたの、いつもこっちに寄ったりしないのに」
「親会社の上海支店から新しい人が来たって聞いたんだけど」桐子は情報が早い。
「あんたもう会った?」
「というより、上海からイケメンがやってきたって聞いたんでしょ?徳永さんならさっき帰っていったよ」松が隣の二つしか机がない小さな島を指して言った。
「へぇー、すぐ隣の席なんだ。津山さんに聞いたんだけどやっぱり、すごくかっこいい人なんだってね」
「それほどでもないと思うけど」と、松はしらけた口調で言った。「わたしは普通だと思う」
「英語ベラベラなんだって?」
「帰国子女なら、ベラベラでも当たり前なんじゃない」
「すっごく優秀で、次はニューヨーク支店なんだってねー」
「ただ単に要領がいいだけらしいよ」
「なにその冷めた言い方」桐子が言った。「ショウ、徳永さんのこと気に入らないの」
「そんなことないよ、だって、同期の津山さんがそう言うんだから、そうだと思っただけだよ」松は言った。
「遠く離れたうちの部署でも、鳴物入りのすごい優秀な3Kがやってきたって噂になっているのに、変なの」桐子が言った。
「どこが変なのよ」松はムキになって言った。
「だって、面食いのショウが徳永さんのこと何にも思わないなんてさ」
「どれだけイケメンだろうが外国語がペラペラだろうが言っていい事と悪いことがあるわよ!」と、松は突然言い出した。
「え?」
「外国育ちか何だか知らないけど、あんな失礼な人見たことない」松は言った。
「あの人、わたしの名前を今日、三度も読み間違えたのよ!」
「読み間違えた?」
「そうよ!」
と言って、松は、重いファイルが大量に入った引き出しを力任せにバンと閉めた。
あまりにも勢いよく閉めた振動で、松の座席の後ろの戸棚の上に置いてある細長いクリスタル製の花瓶がカクンと倒れた。
「あの人、わたしのこと、今日はむちゃくちゃ大きな声で、三回もハナゲって、呼んだのよ!」
「ハナゲ?」桐子はなんのこっちゃ、という顔になった。
「あたし、あたしの名前をハナゲって呼ぶ奴、許せない」
つづく




